本番 午前の部
本番の日が、とうとうやってきた。
午前の部で主役のチャンを演じるのは俺、午後はコールドンだ。大講堂の客席には先生たちをはじめ、他寮から集まった大勢の生徒たちがずらりと席を埋めている。
午前の部、開演直前の舞台裏。
「き、緊張する〜〜!!」
出番を控えた俺は、衣装の胸元をきつく握りしめながら、狭い舞台裏を行ったり来たりしていた。
「お、落ち着け俺……! あああ頭が真っ白になる……。ハッ、そういえば……シェリーは!?」
焦って周囲を見回し、振り向いた先で――俺は思わず息をのんで立ち尽くした。
絢爛な中国風のドレスに身を包み、完璧なメイクを施したシェリーは、儚げで、どこか浮世離れした美しさを放っていた。そこに立っているのは、もういつもの仲間ではなく、物語から抜け出してきた本物の姫君そのものだった。
「……今までで一番かわいい!!」
頭を素通りして、そのまま叫んでしまっていた。
「?」
声に気づいたシェリーが、ふわりと微笑む。
「コールポートさん、よろしくお願いしますね」
「ハ、ハイっ!!」
――な、なにこれ……直視できない……。
心臓のあたりがぎゅっと締まって、息の仕方が分からなくなる。緊張とときめきが同時に押し寄せて、キャパシティはとっくに限界を超えていた。
「皆さん、本番5分前でーす」
裏方を仕切るコールドンの澄んだ声が舞台裏に響く。
「おっ、コールポート。調子はどう?」
「酸素が……足りない……助けて……」
「はぁ? 緊張しすぎじゃない?」
呆れつつも可笑しそうに笑いながら、コールドンが俺の手をぎゅっと握った。
「ほら、親指と人差し指の間のここ。緊張をほぐすツボだよ。そのまま大きく深呼吸。ね、落ち着くだろ?」
「……おお、ちょっとマシになった……」
「はいはい、しっかりね。がんばって」
クスクス笑いながら舞台袖へ戻っていくコールドンの背中を見送り、俺は胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。
ブザーが鳴り、重厚な幕が上がり始める。
*
スポットライトに照らされ、幕が上がったその瞬間――さっきまでの緊張が、嘘みたいに消えていった。
舞台の上に立っているのは、もう自分じゃない。愛のために運命と戦う書記官チャンだ。
蒼く描かれた柳の背景の下、令嬢クーンセが夜空を見上げ、切なく呟く。
「……ああ、あといくつ星を数えたら、あなたに会えるのかしら」
可憐な声が、静まり返った大講堂に美しく響く。
「不吉な柳……あなたは悲しい恋の象徴と言われているわね。そうやって夜風に揺れて、私たちの許されぬ恋を嘲笑っているの……?」
俺は息を殺し、物陰から飛び出した。
「クーンセ様……! すみません。屋敷の者たちの目を盗むのに手間取ってしまって……!」
「こうしてあなたに会うたび……私は己の身分を呪います。ですが、何が私とあなたを隔てようとも――あなたへの想いだけは絶対に手放しはしない!」
「私も同じよ! たとえお父様がどれほどこの恋を阻もうと……あなたへの愛は一生変わりません」
クーンセが胸元から、月光を受けて輝く銀の翼の櫛をそっと差し出す。
「この櫛を受け取ってください。私からの愛の証です」
「こ、こんな高価な品……私には受け取れません」
「高価だから何なのです? これは私そのもの。この櫛を抱いている限り、私たちはどんなときも一緒です」
差し出された櫛を、壊れものを扱うように両手で包み込む。
「……ああ。この銀の翼のように、私にも翼があれば……」
「ふふ……そうですね。私たちに翼があれば、どこへでも飛んでいけるのに……ずっと、二人きりで」
*
場面は転じ、翌日の官吏の屋敷の広間。
「なんだと!? チャンを今すぐここへ呼べ!」
ダヴェンポート演じる厳格な父親の雷鳴のような怒号。俺は召使いに捕まり、引きずられるようにして広間へ入っていく。
「……お呼びでございますか、旦那様」
「昨日、お前が娘と密会していたと、この者が目撃したと言っている! 挙句、銀の櫛まで受け取っていたとな!」
「……っ」
「調べよ!」
タスカン演じる召使いが俺の衣のポケットを探り、銀の櫛を掲げて見せる。
「ありました! 旦那様、これです!」
「身の程知らずが。書記官の分際で……娘をたぶらかしたな……!」
俺は床に膝をつき、深く額を擦り付けた。
「……お隠ししていたことはお許しください! ですが……私たちの愛は本物です。心から愛し合っているのです!」
「黙れ!!」
鋭い鞭の音が空気を切り裂き、背へ振り下ろされる。乾いた衝撃音が広い講堂に冷たく響いた。
「こいつを今すぐ屋敷から放り出せ! クーンセを呼べ!」
引きずり出された舞台袖の暗がりで、幕の向こうからクーンセの悲痛な叫びが聞こえてくる。
「お父様……ッ! チャンに何をしたのですか!?」
「この親不孝者が……! お前など二度と外に出られぬよう、塔に閉じ込めてくれるわ!」
「お父様!!!」
「公爵との結納の日取りが三日後に決まった。それまでお前は塔の中で頭を冷やせ」
「嫌……! 私には心から愛する人が……!」
「チャンは処分した」
「……そんな……なんて酷いことを……!」
舞台袖でその泣き声を聞いていた俺は、役としての悔しさと愛おしさで、拳を強く握りしめていた。
暗転の後、一筋のスポットライトが静かに灯る。俺が一人、夜道を彷徨う独白のシーンだ。
――クーンセ様は……お嬢様なのに、一度だって俺を使用人扱いしなかった。あの温かい笑顔に、俺は何度救われてきただろう。
いつからか、彼女の存在そのものが俺の生きる理由になっていた。
――あんな仕事も……あの父親の汚職の後始末だって……全部、君の側にいたかったから耐えられたんだ。もしこの世界が逃げ出せない牢獄だというのなら……俺たち二人で飛び出せばいい。クーンセ、逃げよう……俺と一緒に。
台詞を言い終えた瞬間、客席全体が息を殺し、静寂に包まれるのが肌で分かった。
*
運命の結納の日。俺は屋敷の広間の陰に潜み、息を殺して隙をうかがう。
「公爵家と我が家が縁組を結べば、この家の安泰は約束されたも同然……」
官吏が欲望に満ちた笑みを浮かべ、ダニエル演じる公爵を出迎える。
「これはこれは、公爵閣下。ようこそお越しくださいました」
「……で、花嫁はまだか?」
「ただいま着替えの最中でございます。どうぞ、まずは祝杯を」
グラスを交わす重厚な音。その静寂を破り、息を切らした召使いが広間へ転がり込んでくる。
「たい、大変です旦那様! クーンセ様が……あのチャンと手を取り合って……駆け落ちを!!」
「何だと!不届き者が!!! 二度も私の顔に泥を塗るとは……許さん!!」
激怒した官吏が壁の鞭をひったくり、外へ飛び出していく。公爵は無言のまま、冷ややかな瞳でマントを翻した。




