舞台稽古~キスシーン
「ダニエルさん、最後の決闘のシーン、付き合ってもらっていいですか?」
「いいだろう。コールポートも一緒にやるか?」
声をかけられて、俺はようやくシェリーたちから目を引き剥がすことができた。
「あ、はい。お願いします」
「私は昔、伯爵の屋敷で本格的な剣術の稽古を見たことがあってね。真似事くらいなら十分にできるはずだ」
ダニエルはすっと立ち上がると、木製の小道具の剣を手渡してくれた。
「台本では兵士たちが主人公を取り囲んで殺す流れになっているが……私演じる公爵との一騎打ちに変更した方が、迫力が出るだろう」
「おお……! それ、面白いですね!」
さっそく動きを合わせ、俺とコールドンが順番に刺される演技の稽古に入る。
「うっ……!」と大げさに呻いて倒れ込んだコールドンに、ダニエルが素で慌てて駆け寄った。
「す、すまん! 痛かったか!?」
「いえ、全然痛くないです。演技ですから」
「そうか……よかった」
ぴりついていた室内の空気が、この一角だけはすっかり和らいでいる。剣を打ち合わせるたび、胸の底から何かがふつふつと湧き上がって、じわじわ楽しくなってきた。
そこへ、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「皆さん、そろそろ水分補給の時間ですよ」
ニューホール先生だった。大きなポットを抱えている。
「疲労回復に効くグリーンルイボスのアイスティーを入れてきました」
「わぁ〜!」「ありがとうございます!」
みんなが一斉に駆け寄る。冷たいお茶が喉を滑り落ちて、こわばっていた肩が少しずつ緩んでいくのが分かった。
ダヴェンポートがシェリーを解放したのは、すっかり陽が落ちきった頃だった。あまりの過酷さに、遠目で見守っていたタスカンは途中で腹を押さえて保健室へ避難してしまったほどだ。
それでもシェリーは、最後まで一度も逃げなかった。声を枯らし、汗で前髪を額に張りつかせながら、ダヴェンポートのOKが出るまでやり遂げた。
「ダヴェンポートさん、ご指導ありがとうございました」
「ああ。シェリーもよくついてきた。今日はしっかり休むといい」
満足そうに去っていくダヴェンポートを見送ってから、俺はすぐさまシェリーに駆け寄った。
「シェリー、大丈夫か!? 喉、痛くないか?」
「僕は平気です。これくらいで音を上げるわけにはいきませんから……」
声はすっかり掠れていたし、額には汗が光っていた。それでも俺たちを見つめる瞳だけは、少しも濁らず強い光を宿していた。
「でも、無理しすぎると本当に倒れるよ」
コールドンがシェリーの肩にそっと手を置く。
「明日からは僕らと組むんだから、休みたいときはちゃんと言ってね」
「……はい」
シェリーが素直に頷くのを見て、俺の中で張り詰めていた何かが、ようやくほどけた。
「俺たちも、今日一日で何百回刺されて死んだかな。もう全身アザだらけだ」
「あはは、じゃあ今日はここまでにしよう」
コールドンの笑い声に釣られて、俺も思わず噴き出した。
こうして、稽古初日の長い一日は幕を閉じた。
*
明けて稽古二日目。多目的室に満ちる熱気は、昨日よりも一段と張り詰めたものに変わっていた。
序盤のシーンの立ち稽古は、俺とコールドン、ヒロイン役のシェリーの三人で進めることになった。
「では、クーンセの独白のセリフから入りますね」
シェリーが一歩前に出た瞬間――空気が変わった。
そこに立っているのは、もう普段のシェリーじゃなかった。指先のしなやかな動きも、伏せられたまつ毛の震えも、そのすべてが完全に“クーンセ”のものだった。愛らしく、それでいて逃れられない運命に翻弄される哀しみが、声の震えの奥にまで滲んでいる。
――すげぇ。
俺は息を止めたまま、ただ立ち尽くしていた。たった一晩で、昨日とはまるで別人だ。
セリフを言い終えると、シェリーはふっといつもの柔らかい笑みに戻った。
「ここまでが、冒頭の独り言の場面です。……どうでしたか?」
「……え、すごいよ。シェリー、天才か?」
素の声が漏れた。コールドンも呆気に取られている。
「まさかここまで仕上げてくるとは思わなかった。僕も演じ方、考え直さないと……」
「どうやったら、一晩でそこまで変われるんだ?」
「ダヴェンポートさんが、教えてくれたんです」
シェリーは少し照れくさそうに言葉を継いだ。
「ただセリフを読むだけじゃダメで、クーンセが何を考え、どんな状況でその言葉を発しているのか……全部理解して“なりきる”ことが必要なんだそうです」
昨夜、ダヴェンポートは「お前にしか演じられないクーンセを突き詰めろ」と言って、シェリーが納得するまで何度も付き合ってくれたらしい。
「俺たち、昨日は殺陣にかこつけて呑気に楽しんでたな……」
「え? 僕は僕なりに真面目にやってたつもりだけど?」
すまし顔で返され、俺は苦笑するしかなかった。
「……こうなったら、台本もう一度読み直すしかないな」
「うん。僕もイメージを固め直したい」
「僕も、お二人と相談しながら役を作りたいです」
三人で丸テーブルを囲み、読み合わせを始めた。
そうしてページをめくっていき――ちょうど“例のシーン”に差しかかった時だった。
「……このキスシーン、どうすればいいのかな」
自分の声が、急に小さくなっていくのが分かった。
「観客に背を向けて顔を近づけるとか……? 横向きなら、手で頬を隠すとか」
コールドンが妙に冷静な口調で案を出してくる。
「僕は特に気にしませんよ。必要なら何でも――」
「女優魂!?」
俺とコールドンは声を揃え、勢いよく一歩後ずさった。
「いやいや、そこまでしなくていい!」
「そういうのは、本当に大事な時のために取っておくべきだよ……!」
「?……はい、わかりました」
俺とシェリーは向き直り、真剣に角度を計算し始めた――その直後だった。
「わああっ!? すみません、お水こぼしました!!」
通りかかったたタスカンが仰天し、水入りの酒器を派手にひっくり返した。
張り詰めていた空気が一気に緩んで、俺たちは変な汗と笑いに包まれた。




