夏草
「ええーっ!?」
リッジウェイの部屋の前に辿り着いた途端、扉の向こうから世の終わりのような叫び声が聞こえてきた。
コールドンの声だ。俺は思わず足を止め、恐る恐る扉に近づいて、そっと耳を澄ませた。
「……いつまで?」
「次の担当が決まるまでだよ。明確な期限は設けられていないそうなんだ」
申し訳なさそうなリッジウェイの声。コールドンが俯いて、低い声で呟いているのが手に取るように想像できた。
「……ずるい……」
「ごめんな……」
「兄さんのことじゃないよ!! ミーキンだよ!」
「え?」
扉の向こうでリッジウェイが呆気にとられる気配がした。
「兄さんとこれからずっと一緒にお店をやって、しかも住む場所も一緒なんて、ずるいー!」
「あ、あはは……そういうことか……」
「僕だって早く研修生になりたい! 成績だって悪くないのにー!」
「うーん、校長先生のお考えだから、こればかりはね……」
(うわぁ……めちゃくちゃ入りづらい……)
俺は手に持った日直ノートを抱え直し、その場で立ち尽くした。先生から「リッジウェイに渡してほしい」と預かってきたのだが、タイミングが最悪すぎる。ノックするべきか、出直すべきか——。
すると、部屋の中からリッジウェイの優しく宥める声が届いた。
「休みが取れたら戻ってくるよ。それに……お前にはコールポートだっているじゃないか」
その名前に、心臓がドクンと跳ねた。息を止めて、続きを待つ。
「コールポートは兄さんの代わりにはならないよ! 友達だけど……昔の彼じゃないから、まだ付き合い方も手探りなところもあるし……」
「!」
胸を鈍く殴られたような衝撃に、思わず身を引いた拍子で、肘がコツンとドアを叩いてしまった。
「あれ? 誰か来たのかな」
マズい——!
俺は弾かれたように身を翻し、抱えていたノートを思わずドアの脇に立てかけたまま、夢中で廊下を駆け出した。
「わ、聞かれた……!?」
背後でコールドンの動揺した声が遠ざかっていく。
*
一気に丘の上の広場まで駆け上がり、膝に手をついて荒い息を吐き出した。そのまま草の上に倒れ込むように腰を下ろす。
青々とした夏草の香りを乗せて、爽やかな風が頬を撫でていった。
『昔の彼じゃないから……手探りなところもあるし……』
脳裏で、コールドンの言葉が何度もリフレインする。
(コールドンの優しさに甘えてて気付かなかったけど……俺、あいつにいろいろ気を使わせてたんだな……)
記憶のない俺と接する戸惑い。昔の俺を知っているからこその葛藤。それを押し隠して普通に接してくれていたのだと思うと、喉の奥がぎゅっと狭くなった。
「ハァ……ハァ……コールポート!」
荒い息遣いとともに、坂道を駆け上がってくる足音が近づいてくる。
「……コールドン……」
「はぁ、足……早すぎ……」
呼吸を整えながら、コールドンは少し困ったように微笑んで見せた。俺は合わせる顔がなくて、視線を足元の草に逸らし、ぽつりと呟く。
「……俺に、そんな気を使わなくていいよ」
コールドンは一瞬目を見張り、それから静かに俺の隣に腰を下ろした。
しばらく、二人の間を風だけが吹き抜けていった。
「……君といるとね」
コールドンは遠くの空を見つめながら、静かな声で言った。
「時々、昔の君がふっと顔を出すことがあって……すごく懐かしい気持ちになるんだ。……逆に、見たことのない『新しい君』を発見して、驚く時もある」
「……」
「僕はね、どちらの君も大切にしたいと思ってるんだよ」
真っ直ぐな言葉が胸に染み込んできて、耳の先が熱くなるのが分かった。俺は恥ずかしさを誤魔化すように、膝を抱え込んだ。
「……ちなみに、昔の俺ってどんな奴だった?」
「うーん。今よりも大人っぽくて、しっかりしてて、頭が良くて……あ、でも社交的で好奇心旺盛なところは今と同じかな」
「……昔の俺の方が、だいぶ頼れそうだな」
自嘲気味に笑う俺に、コールドンは悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、今の君の方が好きだよ。遠慮なく何でも言いたいこと、言えるからね」
「なっ……!」
思わずぷっと吹き出してしまう。なんだそれ。
「言ったな〜?」
「ふふっ」
二人で顔を見合わせて笑い合い、俺たちはそのままゴロリと寝転がって、澄み渡る夏の空を見上げた。




