最終話.ひよしドライブイン店主 『日巡シュン』
2032年8月16日――京都帰りのひととき。
ビューレストランそがの窓際席で料理の到着を待っていると、隣に座った娘のユカリが、床に届かない足を交互に振って、ひまわり色のワンピースを揺らしながらブーたれていた。
「……ウチ、“だいもんじ”見たかったぁ」
三つ編みをしてから毛先をゴムでくくった娘の頭に、俺はそっと手を置きながら言葉を返す。
「かんにんなぁ。でも……護摩木を燃やしてはるところ見てから帰ったら、ユカちゃんのおねむに間に合わへんで。それに明日から、パパとママも仕事やし」
「おねむしやへん。ユカ、おきれるし」
ユカリの関心事は、いつも一直線だ。
大人が言う事も心の隅には留めつつ、それでもやっぱり“あれがしたい”“これがいい”と思う心に嘘はつけなくて、ど真ん中のストレート球を放り投げてくる。
「……安心し、ユカリ。墓参りはちゃんとしたったんやから、爺ちゃんも安心して帰って行かはるわ」
そんな娘の姿に、黒い半袖カットソーとカーキのオーバーサイズワイドパンツに身を包んだアユミは、あたたかい眼差しとともに穏やかな声をかけた。
「えー、でもー……」
俺たちの“正しい言葉”だけでは、4歳児の欲求はそうそう止められない。
万事休すかと思われたそのとき――白いクロスが敷かれたテーブルの上に、一台の“新幹線”が飛び込んだ。
「はぁい、おまちどうさまぁ。お嬢ちゃんのお子様ランチです……もうディナーやけどねぇ」
以前より白髪の増えたおばちゃんと、昔と変わらないお子様ランチ。
さっきまでのむくれっ面が嘘のように、「わぁ」目を輝かせながらスプーンを手にしてチキンライスの旗を崩しにかかる娘の姿を見て、俺はこの子とバッテリーを組むコツの神髄を見た気がした。
「おとっとん、食べていい?」
「いや、もう口に入れとるがな……ちゃんと“いただきます”しぃや」
「……いたたき、ます」
「はい、ようできました。さぁ召し上がれ」
こうしてユカリが短くて丸い手をペチと合わせてから、スプーンを使って(ときどき手づかみで)パクパクとお子様ランチを食べ進める様子を、アユミはじっと静かに眺めている。
「はぁい、おふたりの分もおまちどうさぁん」
……しかし、そんなアユミの目の前に山盛りのナポリタンが到着したとたん、彼女の穏やかな母親としての表情はみるみる崩れ――フォークを手に、衰えの知らない痩せの大食いぶりを発揮しだした。
おばちゃんは二人の食いっぷりに感心しつつも、それなりにいる他のお客さんの対応のため、足早にテーブルを離れていった。
俺はふと、腕時計に視線を落とす。
時刻は20:08――ちょうど、京都では五山の送り火の点火が始まっている頃だろう。
この様子なら、社長も安心して奥さんのところに行けるやろうな。
◆
蘇我入岳麓に点在する光を遠目に捉えながら、ロードノイズに包まれたシビックのヘッドライトは曲がりくねる夜道を黄色く照らし出していた。
ここまで交代を重ねてきた運転も、最後はアユミが担ってくれることとなった。
「ユカちゃん、もうちょいでお風呂着くで。せやし、もうちょい頑張り!」
いつかに走った広島までの道のりに比べれば、京都までの往復はさほど遠くは感じない。
でもそれはあくまで俺たちの感覚で、後部座席のチャイルドシートに座るユカリの方はというと、まん丸な目をウトウトとさせながら船を漕ぎ始めていた。
「……アカンわシュン。これはもう、温泉まで持たへん」
「くっ……もう真っすぐ帰るしかあらへんか……」
「ふふ、しゃーないな」
ほどなくして、暗い車内のルームミラーには、口をぷくっと開けて眠りにはいったユカリと、苦虫を噛み潰したような表情の俺――そして、満ち足りた表情のアユミの姿が映し出される。
同時に、フロントガラスの向こう側には、タッチの差で間に合わなかった『雲海温泉 YAMABUKI』の煌々と灯るサイン光が目に飛び込んできた。
「……なぁアユミ。思えば結局……リョーコさんの一人勝ちやったよなぁ」
俺は、温泉に浸かれなかった腹いせをぶつけるかのように、ふと気が付いたことを口にした。
「あの人、最初から頂上の展望台が、観光用テラスに整備されることを見越して……日帰り温泉に力を入れようとしてはったんやろ」
「……どうしてん、いきなり」
「雲海のシーズンなんか、早朝もオープンして近くの“パルヴァタ蘇我”のお客さんまでぎょうさん取り込んどる……えらい盛況ぶりや」
元やまぶきの正面を通り過ぎると、綺麗に整備された駐車場の入口にはふたりの警備員が立ち、次々と入って来る車とお帰りの車の誘導を行っていた。
「なんか蘇我入温泉が盛り上がってるというより、ほとんどの人が“YAMABUKI”のためにこの町に来とるって感じするわ……ふんっ」
「……まぁ、ええやんか。たしかにあの人は食えへんオバチャンやけど……でも、そのおかげでドライブインとか他の店にも、お客さんが流れてくれてるんやし」
「まぁそうやけども……」
「……サキも大学卒業したし、後継ぎ修業もボチボチはじまるんやろうな。ウチらもまた金落としに来なあかん」
「……せやな。せいぜいウチにお零れを提供し続けてもらえるよう、頑張ってもらわななぁ」
「ククッ、キキッ……これが当事者意識を失うた人間の姿や、よう覚えときやユカリ」
アユミはもうとっくに夢の世界に入った娘に、何故か楽し気に語りかけていた。
なんだか俺も、途中から自分が何に腹を立てているのかが分からなくなって、置き所を失った視線を再び外に向けた。
数分後、今度は暗がりに浮かぶ瀬貝自工の工場が視界に入った。
「レイちゃんさん、もう帰り始めてるかな」
「……21時越えてるし、さすがにそうやろうな。明日はお盆明けでEVの修理予約が山ほど入っとるから、朝から工場に来はるやろうし……」
「……大丈夫なんかいな、あの人の体力」
「さぁ。せやけど、最近はなんか楽しそうに仕事してはるわ」
「やったらええけどさぁ」
レイちゃんさんは、さっきまで俺たちと一緒に京都で墓参りをしていた。
結局最後までユカリには懐かれなかったが、からふね屋のパフェを利用して、なんとしても振り向かせようと奮闘していた彼女の様子は、失礼ながらちょっと微笑ましかった。
「それにしてもレイちゃんさん、電気自動車の整備ノウハウと販路なんか、よう取り付けはったなぁ……。YAMABUKIの送迎車も、ぜんぶ転換されとったやん」
「昔いたベテランのおっちゃんらは、ガソリン車ばっかりいじってはったしな。人員がごっそり入れ替わったんを……うまいこと利用したんやと」
工場の外観そのものは殆ど変わっていなかったが、場内に充電スタンドが点在したり、展示販売車のハイブリッド車、電気自動車の占める割合が増えていて、その中身の変遷が伺えた。
「もう、これから先……ガソリン垂れ流して走る車は、どんどん数減らしていくんやろうな」
一人ごちながらシビックのシフトレバーを手の甲でコンコンと叩くアユミは、微笑みに一抹の寂しさを纏わせていた。
◆
それからしばらく車を走らせて、ようやく“ひよしドライブイン”の明かりが見えてきた。
六年前に一新した大きな看板も、今となってはそれなりの経年を感じる風合いとなっている。
駐車場に停まっている車は、以前より県外ナンバーの割合が着実に増えているものの、まだまだ客入りが十分とはいえない。
シビックが駐車場に入ると、俺はなるべくゆっくりと車から降りて、ユカリを起こさないようにゆっくりと抱えた。
そして、おそるおそるドライブインの扉を開けると、以前と変わりのない雑多な電子音――そして以前より大きく数を増やしたレトロ自販機たちが、俺たちを出迎えた。
川鉄製のボンカレー自販機に、コカ・コーラの瓶自販機。
コスモスの玩具自販機に、ホシザキ製のアイス自販機といったラインナップが、すでにドライブインの新たな仲間に加わっていた。
そんな圧巻な光景にすらもはや慣れてしまった俺は、そんなことよりと抱えたユカリの顔を覗き込んだが、起きる様子はまるでなかった。
さすがはドライブインで育った三代目。
俺はアユミと顔を見合せながら、ホッと安堵した。
「おかえり。なんや……もう寝てしもたんか」
ゲームコーナーのスイングドアが開いて、寝巻き姿のオトンが小声で声をかけてきた。
「うん、残念ながら温泉いく直前にスヤスヤやったわ……」
「ははは……さよか。おぉ、寝顔は……その……へへ、嫁さんそっくりやな。こっちで寝かしといたるし、荷物おろしてき」
オトンの若年性認知症は、刻一刻と進み続けていた。
今ではアユミとユカリの名前もほとんど覚えることができず、時々俺の名前が出てこないこともある。
「すまん、恩に着るわ……離すで」
「……ん、掴んだわ。おーよちよち……可愛らしいわぁ……へっへっ」
しかしそれでも、変わらないところだってある。
優しく孫を抱え、控えめに揺らしながら笑みを溢すオトンの姿を見て、俺はそう思った。
◆
それから荷物下ろしが一段落し、俺がいつものプラスチックテーブルに突っ伏して伸びていると、向かいの席にアユミが座った。
「……だらしな」
「しゃーないやろ……このあとブログ更新せなアカンし、まだ寝れへんねんもん」
俺が悪態をつくと、アユミはぶっきらぼうに「ふぅん」と零した。
顔をテーブルにつけたまま目線を彼女に向けると、置かれた手の指についた指輪の光沢がふと目に飛び込んだ。
「アユミも明日早いんやったら、はよ寝た方がええよ」
「……いや、今日は……その。ユカリはシュンのオトンが寝かしつけてくれたし……えっと」
「……一緒に寝たいん?」
「……言うな、アホシュン」
頬を微かに染めて、落ち着きなく何かを言い淀む彼女の仕草を目にして、俺は年甲斐もなく胸が弾んでしまった。
「……そ、そうか。ええけど、ブログ書くの時間かかんで?」
「いい……うどん食べて待ってる」
「え、まだ食べるん?」
「……だって、ユカリ見ながらやったから……ゆっくり食べられへんかったし……」
「……あれで?」
「あ゛?」
「ひぇっ。や、やっぱり俺も……ちょっと足りひんかった……かもォ……へへ」
「せやろ……金入れるし、一緒に食べよ。どっちがいい?」
「じゃあ……」
俺はふたつ並んだうどん自販機のうち、川鉄自販機の方を指差した。
現在、うちのドライブインでは自販機ごとに異なるダシのうどんが楽しめるようになっている。
物珍しさから、時々ふたつ同時に食べ比べなんてことをしてくれるお客さんもいるが、人気で言えば川鉄製自販機のいりこダシの方が高い。
「ん……ウチは、いつもの方で」
それでも、アユミはうちの元祖昆布ダシのうどんの方が好きだといつか言っていたことを覚えている。
アユミがキティちゃん財布から取り出した硬貨が、カチャンと音を立てて金属の筐体の中を滑り落ちていく。
電気とモーターが織り成す駆動音が、耳を澄ませば聞こえる程度に、しかし確かに響きった後――
「はい、シュンのぶん」
「ん、おおきに。なぁ……俺も一緒に食ってたら、アユミの時間潰しの意味あらへんことない?」
「……あ」
ほどなくしてテーブルには、ダシの色が異なるふたつのうどんが並んだ。
「あ、って」
「……シュン。ええから食え」
「……あ、はい。にしても……いつもアユミが作ってくれるうどんも好きやけど、たまにはこういうのも……ええかもしれんな」
「……うん。これはまた、別の食い物や」
「そーそー、そういうもんやねんな。そしたら……」
「いただきます」
「いただきます……」
手を合わせる音が反響したあと、俺たちは柔らかいプラスチック丼に手を添えて、ゴワゴワなうどんを一口啜った。
「温いな」
「温いわ」
俺たちは顔を見合せ、一言を交わしたあと――
ふたたび視線を丼に落として、このチープなのにいくらでも胃に入る温いうどんを、穏やかな時間の中で味わい続けた。
完




