0.富士電機 『めん類自動販売機 VFN901』
外灯もコンビニもない、山田舎の国道沿いにポツリと存在する『ひよしドライブイン』は、親が経営する24時間営業のゲームセンターであり、俺の生まれ育った実家でもあり――
10年前の時点で、とっくに時代に取り残されていた場所だった。
当時10歳だった俺は、深夜のドライブインに毎晩徒歩でやって来ては、スナックコーナーのハンバーガーを黙々と食べ、ひとしきり時間を潰して帰っていく一人の女の子のことが気がかりだった。
このドライブイン、とりわけ深夜帯のここはいかなる理由であれ、当時の自分と同い年くらいの女の子が一人で来ていいような場所ではないことを、子供ながらに理解していたからだ。
しかし、名前も知らなかったその子は、いつもボロボロの服を痩せた体に纏って、ボサボサの黒い長髪を揺らしながらやって来る。
正直、不気味だと思っていた。
それに、あんな怖い大人が集まる空間に俺一人で足を踏み入れるのも、ハッキリ言って御免だった。
だから、結局いつも彼女に話しかけることはできず、俺は常に知らないふりをしながら、眠りにつく毎日を送っていた。
◆
「やかましいわ……」
しかし、ある日の夜。
俺は山から響いてくる爆音によって目を覚ました。
峠を攻めていた走り屋の車だろうか。
乾いたエンジン音に夜中叩き起こされることは、当時そう珍しくなかった。
しかし、その音は遠くからでもとりわけ甲高く、やたらと耳をつんざくように響いた。
――だからかもしれない。
その時の脳裏に、妙に確信めいたひとつの嫌な未来が浮かんだのは。
そして、自室となっていたドライブインの二階から外を見下ろし、表に停まった一台の白く厳ついシビックを見て、たまらず俺はネズミのキャラクターをあしらったパジャマ姿のまま、階段を駆け下りていった。
店舗フロアのドアを開けると、染み付いたタバコの臭いと、いつの時代のゲームかも分からないような筐体たちが奏でる、電子の不協和音がいっせいに襲いかかった。
さらにゲームコーナーを抜ける途中、目眩を起こしそうな程にギラギラとした光沢を放つ、背の高い金属椅子に座った派手な髪の兄ちゃんたちの視線を感じた。
この時点で参ってしまいそうになりながらも、俺はどうにか入口近くのスナックコーナーへと辿り着いた。
白々とした平坦な光に照らされた食品自販機は、どれも薄汚れた大昔の化石みたいなものばかりだ。
出てくるのはチープなうどんにハンバーガー、知らないメーカーのお菓子なんかで、年頃の女の子が好きそうなモノなんて一切存在しない。
そんな空間の真ん中に鎮座する、黄ばんだプラスチックテーブルを挟むようにして、二人はいた。
片や、テープまみれの椅子に座り、テーブルで黙々とハンバーガーを食べる女の子。
片や、その向かいに立つ派手なスカジャンを身に纏い、剃り込みの入った髪と浅黒い肌の大柄な男。
そして、男はテーブルに手をつき、女の子に厳つい顔を近付けて、何か話しかけようとしている。
「――帰れや、おっちゃん!」
俺が二人の間へ割って入るように突撃し、テーブルをバンッと叩きながら精一杯の大声を上げると、二人は同時にこちらへ目を向けた。
この時、男の方はどこかポカンとした顔をしていた。
対する女の子は、無表情で光のない気だるげな目のままぼーっとしていて、特に男に怯えている様子は感じられなかった。
あれ……なんか思てた反応とちゃうぞ?
そう思ったのも束の間、男は思い出したように凄みのある顔つきになり、奥から響く筐体の電子音を切り裂くようなドスの効いた声を放ってきた。
「アァッ!?」
比喩ではなく、この時マジでちびっていた。
テーブルの下の足はガクガクだったが、無表情のままこちらを見てくる女の子の手前、引き下がることはできず、俺は短かった10年の人生に別れを告げながら必死に言葉を続けた。
「ほ、ほっといたれや! こんな時だけ、いっちょまえに親の顔して連れ帰ろうとすんな! 今くらい一人にさしたれよ!」
きっと、彼女は親からいつもひどい目に遭わされているんだ。
そして、この眼前のヤクザみたいな風体の男は、この子を無理矢理連れ帰ろうとしている、ろくでもない親父なんだと――
この時の俺は、男の見た目と、これまで離れて様子を伺っていた彼女の行動からの想像を根拠に、勝手にそのように思い込んでいた。
「誰が親じゃ。ちゃうわアホ」
「……え?」
そして、すぐに予想だにしない答えが返ってきたことで、俺はついに頭が真っ白になった。
男は呆れた様子で「はぁー……」とため息をつきながら頭を掻いて、そのままうどんの自販機の方へと向かって行く。
さらにその直後、硬直する俺を見かねたように――女の子は無表情のまま口を開いた。
「この人、知らんおっちゃんや」
初めて聞いた、少ししゃがれたような女の子の声。
彼女は一言だけそう口にして、再び小さな口でハンバーガーを齧った。
「うそ……」
さっきの認識が誤解だったことを、二人の言葉を聞いてようやく呑み込み始めてはいた。
しかし冷静になって考えてみれば、それでも今が危険な状況であることに変わりなかった。
「……いやいや、それもそれでアカンやろ。あんなヤバそうなおっちゃんに声かけられて、キミは怖ないんか?」
おっちゃんの背中と女の子を交互に見つつ、俺も初めて女の子に声をかけてみた。
しかし、返事はなかった。
……なんやねん、この状況。
勇気出して声かけたのに、あほくさ。
俺はそう思い、急速に居心地が悪く感じはじめていた。
しかし、変な啖呵の切り方をした手前、未だ引くに引けない心境が続いていたことで、俺は何をするでもなく――
ただ椅子に座って、テーブルに肘をつく他なかった。
しばらくすると、スナックコーナーに『チン』という間の抜けた音が響いた。
その後、すぐに男の「あちちっ」という声が聞こえたかと思えば、やがて女の子の前に薄黄色いプラ容器に入った、ブヨブヨのかき揚げが浮かぶ一杯のうどんが置かれた。
「それも食い。足りひんやろ」
男の言葉に、さすがの女の子も困惑しているようで、目をウロウロと泳がせながら言葉を返した。
「ウチ……何も欲しいなんて言ってへん」
「アホ、ハンバーガーばっか食うとったら添加物やらなんやらで早死にするわ。もうちょいマトモなもんも食えや」
俺はオーバーなこと言いよるなぁ、なんて思いつつも口には出せない。
男は振り返る様子もなく、うどんの自販機に続けて硬貨を入れていった。
その言葉を聞いて、黙ってうどんを見つめはじめる女の子。
そんな一連のやりとりを目にしたことで、足元からソワソワとした、何かおぼつかない寒気のようなものが込み上げてきた。
やがて、居たたまれなくなった俺はとうとう椅子から立ち上がり、男の背後まで小走りで向かっていった。
「あ、あのっ」
「……あ?」
「さっきはほんまに……す、すんませんでしたっ!」
そして、俺は目を瞑りながら思いっきり頭を下げて、謝罪を口にしてから歯を食い縛った。
俺は正真正銘のアホやった。
見た目だけで勝手に人を悪者やと決めつけて、ろくに話も聞かんと責め立ててしまった。
たぶん、もっと早よあのおっちゃんに謝らなあかんかったはず。
分かってたけど、ホンマに怖かった。
おっちゃんのゴツさが怖いんやない。
死ぬ気で振り絞ったはずの勇気の行動が――いちばん余計でワルやったと認めてしまうのが、何より怖かった。
そんな、変に意地を張っていた自分に気がついて、思わず涙が溢れそうになる。
「……なんでもええから、はよ受け取りや。熱いから」
堰が切れる寸前、落ち着き払った男の声に反応して、俺の頭は自然と上がった。
彼の手には、女の子に差し出したものと同じ天ぷらうどんがあった。
「え。な、なんで……」
「アホは嫌いちゃうねん。ええから伸びる前に食い」
俺は言葉の意味を呑み込む前に、男から丼を受け取った。
オーナーの息子だから、分かってたはずなのに。
手に力を入れると妙に柔らかいプラの丼がたわんで、溢れ出た汁が手にかかってしまった。
「あっつゥッ!!」
涙が引っ込むほどの熱さに、俺の魂の叫びがドライブイン中に響いた。
「……ブッ」
女の子は、それを見てうっすらと笑いを浮かべていた。
俺は顔が妙に熱くなり、「フンっ」と鼻息を荒げながら冷静さを取り繕うように、丼をテーブルに置いて再び着席した。
「……あぁくそ、今ので売り切れかいな」
直後、男の残念そうな声が聞こえたので、俺は器を持ってそのまま彼に返そうとした。
「あ……すみません、やったらこれ……」
「いらん。また来るさかい、親父さんに補充増やすよう言うといてくれ」
男はそれだけ口にして、そそくさと入口のアルミ扉をガラッと開け、出ていってしまった。
嵐のように退出していった男の背中を見送りながら、ポカンとする俺と女の子。
扉の窓の向こうでは、やたらと光量の高い黄色いライトが国道を照らし、やがてガリガリとけたたましい音を立てながらシビックが走り去っていた。
「……ヘンなおっちゃんやったな」
「……せやな」
俺たちはそう言い合ったあと、しばらく互いに顔を向き合わせていた。
そして、偶然二人きりの状況が生まれていることに気付いた俺は、ここぞとばかりに気になっていたことを彼女に投げ掛けはじめた。
「ま、まぁ、キミも大概やで。こんなボロドライブイン、何が良くて来とるん? ここはヘンな自販機しかあらへんで」
実家が営んでるドライブインなのに、こう言い表すほかないことに、子供ながら哀愁を感じた。
だが、彼女は少しだけ俯くようにして、淡々と言葉を返してきた。
「……ウチは自販機がええ」
「ふぅん、なんで?」
「帰れとか、かわいそうやとか言わへんから」
この時、俺は『なんか大人っぽいこと言う女やなぁ』と思った。
言葉の意味は、正直よく分かっていなかった。
成長期特有の察しの悪さと呼ぶべきか、はたまた歳相応の最適解だったと言うべきか。
俺はとにかく馬鹿を悟られないよう、余裕を見せつけるかのように、精一杯の言葉を返した。
「そ、そーか。やったらいつでも来たらええ。ただ、ここではどんな怖い目に遭っても自己責任やで。俺の監視にも……その、限界はある」
内心、妙にドキドキと弾む心音を感じながら、俺は彼女から目線を逸らして反応を待つ。
そして――
「――自己責任上等や、なんべんでも来たるわ」
さっきより輪郭をはっきりと帯びた声を耳にして、思わず俺は彼女に視線を戻した。
古い蛍光灯の光を反射したのか、俯いていた顔を上げた彼女の目は、いくらか輝いているようにも見えた。
「そ、そーか。そしたら覚えとき。俺の名前は日巡シュン、ここの……」
「ここのオーナーの坊やろ。時々ウチのこと見とったから、知っとる」
俺は組んだ腕をほどけないまま、熱い顔をどうすることもできずに、辛うじて紡いだ言葉を無理やり投げ掛けた。
「ボ、ボン言うなやぁ。そ、そーいうキミは誰様やねん……」
「……え」
彼女は一瞬、明らかに言葉を失った。
それは先ほど、うどんを差し出されたときに見せた困惑と同様のものだと直感した。
「う、ウチは……木立アユミ……」
「アユミか、えぇ名前やな!」
俺は、ボロボロの格好をした彼女の口から不意に耳にしたその名前の響きが、驚くほど綺麗だと思った。
だからこそ、ありのままの言葉を口にした。
またしても彼女は黙ってしまった。
「な、なんか、ゴメン」
「……ん」
何かに気を悪くしたのか、それすらもよく分からないまま謝罪を口にすると、アユミは顔を真っ赤にしたままコクリと頷いた。
よかった、あまり怒ってないらしい。
そう安堵した俺は、そのまま視線を手元のうどんの方に落とした。
「ってアカン、伸びはじめとる。食おう食おうっ」
「……うん。せやな」
テーブルに置かれたプラの筒から割りばしを二膳取り出し、うちひとつをアユミに渡す。
手にした割りばしをじっと見つめていたので、俺が目の前でパキッと割ってみせると、彼女はおぼつかない手つきでそれを真似した。
そして、俺たちはバラバラのタイミングで手を合わせてから、湯気とともに立ち上がるありふれたダシの香りとともに、ズズっとうどんをすすりはじめた。
「温いわ」
「温いな」
ふたつの言葉が溢れたのは、ほぼ同時だった。
アユミは左手で丼を、右手で箸をグーで握ったまま、ボロボロの肌で二度目の微笑みを浮かべていた。
そして、さっきまで耳元で弾けていた筐体の喧騒は、不思議と消え――
聞こえてくるのは、化石のなり損ないたちの細々とした駆動音と、ふたつのうどんを啜る音だけとなっていた。




