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フェアリー・ヴェール 〜地下で歌う青年と青年将校の物語〜  作者: 橘 いゆ璃


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5/13

5 それだけ?


「だっる……」


ヴァイラは、体を起こそうとして再びベッドに沈んだ。


顔だけ部屋の時計に向けると、正午前。そろそろ起きて仕事に向かわなければ。


「だっる、クソ」


悪態をつきながら、重い体を引きずるようにしてベッドから下り、クローゼットから適当に服を取り出す。


なんということのない、普段の”朝”。


ライブの翌朝は、特に気分が重い。

ステージとの温度差がありすぎるから。



ステージでは当然、渾身の力で歌う。

多ドレナリンが出て、ステージの上では無敵になれる気分だ。

デビューしてから一年くらい、ファンという存在も僅かながら付くようになって、ライブの客入りも手応えが見えだしてきたところ。


あの空間にいる間は、心地良い。


でも、この空虚な家に戻るとき、すごく惨めな気持ちになる。


狭くて暗いアパート――孤独で売れない歌手であると、突き付けてくるようで。


だからいつも、繁華街にあるライブハウスの周辺の店で飲んで帰る。


そういう店には大体、魅力的な体の男たちがいて。


ヴァイラを目に留めてくる男たちにそっと近づき、感触を確かめて、相性が良さそうなら近くの安ホテルに誘い込む。


名も告げず、流れのままに。


衝動のままに求め合えば、その間は燃え上がる。

大柄な男の腕に抱かれて、ただ貪られて。

激しく揺さぶられて、壊れそうな感覚になるのが最高にクール。


何度かそうしてなじみになった相手は、アパートに連れてくることもある。

誰も、ヴァイラ・ツェーリのことなんて知らない。

惨めでもあり、好都合。


付き合おうと言われたこともあるが、鼻で笑っていなした。


このおれを、繋ぎ止められるなんて思うなよ。


誰もかれも、おれの通りすがり。

でも、相手にとってもそれは同じで。


相手が誰だって同じ。


つい最近まで、そう思っていた。彼を知るまでは――



(オムレツうまかったぁ……)


普段相手を引っ掛けるはずのないライブ会場で、つい飲みに誘ってしまった軍人アンデ。

服の上からでもわかる筋肉の盛り上がりが、本職という感じでセクシーだった。


客と関係を持つことの危うさくらい、認識している。

ここでは相手はヴァイラ・ツェーリを知っているのだから。

とはいえ、彼はヴァイラを知らなかったようだけど。


飲んでみて、ボディタッチにも不快感を見せず、行けそうと思ってアパートに送ってもらって、そのまま引き入れて、気づいたら事に及んでいた。

普段は壊されるように抱いてもらうのだが、彼は最後まで優しかった。

物足りない気がしなくもなかったが、まるで女性を抱くような丁寧さが、思いのほか心地がよかった。



そして朝になると、勝手に朝食を作っていた。

ヴァイラの家であんなことをやった男はいない。

しかも、なんだか優しい味がする。

あの人がいるときだけは、朝からごはんを食べてしまうようになった。


(アンデのごはんが、食べたい)


彼は完全に自由な日が少なく、月に二回くらいしか泊まれない。


それもライブの日だけだったのが、頼んだら来る日を増やしてくれたのだ。


まだ、彼のことは計りかねている。

どっちも完全に流れでこうなっただろうに、変に丁寧なのだ。

まともな食事とか、あれから月一律儀にライブに来てくれるとか。

レコードプレイヤーが家にないくせに、レコードまで買ってくれるとか。

それなのにヴァイラを追いかけてくるような雰囲気はなく、ヴァイラに踏み込んでこようともせず、いつの間にか黙って近くに居てくれる。


あの人がいるときは、()に頼らなくても、自然に眠りに落ちてしまうのだ。



✶⋆∘༓∘⋆✶


「アンデさぁ」

「ん」

「おれといないとき、誰といるの」


アパートで二人で飲んでいるとき、つい聞いてしまった。

アンデの体格は界隈なら絶対男受けする。


軍隊と言えば男所帯、それも魅力的な体格の男だらけなはず。


最近、アンデの事情が気になりだしたのだ。

彼がいないときは他の男を引き込んでいるくせに。


アンデは、表情を一つも動かさず答えた。


「誰も」


「うそだ」

「嘘ついてどうなる」

「だって」


「そもそも、男はおまえしか知らない」

「え?」


男は。

女は?


「アンデってさ……もしかしてストレート?」

「もともと、はな」

「まじで」


割と簡単に誘いに乗ってきた感じだったから、”こっち側”だと思っていた。


「……初めてで、よくできたね?絶対男の経験あると思ってた」

「俺も、なんでできたのかよく分からん」

「ほんと、なんでだよ」


でも、そんなに自然にできたのが、なんだか嬉しくて。

鼻で笑いながら、本当に笑いそうになっていた。


「……いたの?いい人」


「……そこまでのことでもない」

「ふーん」


グラスを傾けて、目線だけちらりと彼に向けた。


「結婚とか、いずれ考えるの」

「……いや」

「いいよ、無理しなくて。ストレートなら普通のことじゃん」


この人は優しいから、ちゃんと家庭を築けるのだろう。

それでも、目の前の自分(ヴァイラ)を気遣ってか、否定してくれる。



「そんなことを考えながら、ここにいるわけないだろ」


いつも通り静かな声で、アンデが答える。


優しくて、誠実で。

知るほどに、いい男。

離したくなくなってしまうし、ずっと独占していたくなる。


グラスを置いて、座るアンデに向かい合って、跨った。


「やろっか」


アンデは無言でヴァイラの腰に腕を回して、ヴァイラを抱えて立ち上がる。

ベッドにそっと置かれて、分厚い胸板に覆いかぶさられる。


この人を独占している時間。

この人に独占させている時間が、この上なく至福だ。


✶⋆∘༓∘⋆✶


珍しく、空腹を感じて目が覚めた。


寝室の戸を開ければ、キッチンから優しいにおいが漂ってくる。


キッチンに立っていたアンデが振り返り、驚いた。


「早いな」

「お腹すいた」


アンデができたてのオムレツを皿に盛り、ヴァイラの前に置いた。


ほのかに立ち上るバターの香りが、たまらない。


だがアンデはまだキッチンに立っている――ヴァイラの分を先に作ってくれたから。


アンデの分ができるのを、その広い背中を見つめながら待った。


「腹が減ってるなら、先に食えばよかったのに」

「だって。一緒に食べたいじゃん」


アンデの顔が、一瞬ほころぶ。

彼は軍人らしく感情を表に出さないけど、ちょっとばかり照れ屋。


スライスされたライ麦パンと、オレンジジュース、それに果物入りヨーグルト。


一緒に食べて、ゆったりした時間を過ごす。


目指していた尖った音楽が、緩んでしまいそう。

なのに、スタジオに入ればすごく心が燃えるような、音楽に向き合うときの満足感が上がっている気がする。


(この人は、何を感じてこうしていてくれるんだろうな)


そんな疑問も浮かぶけれど、今はまだ、尋ねる気にならない。

欲しい答えを、求めてしまいそうだから。



アンデの片付けを待ちながら、今日もスタジオに行く準備をする。


「――おまえ、煙草はやらないよな」


アンデが不意に言った言葉が、どきりと心臓を揺らした。


煙草。

ここで過ごした男のものだ。

あいつ、置いて帰ったのか。


「気をつけろよ」


アンデはそれだけ言って、キッチンの片付けを淡々と済ましていた。


「どういう意味」


何に、気をつけろと。

アンデは半分だけ振り返り、


「金とか、病気とか。

悪い男に引っかかるなよ、てことだ」


(それだけ?)


片付けを続けるアンデの後ろ姿は、まったく揺れがない。

後ろめたい遊びがバレたと変な汗をかいていたのが、拍子抜けしてしまった。


「……怒らないの」

「なんでだ」

「だって」


「俺が、文句を言う筋合いはないだろう」


アンデは何でもないかのように言う。

でも。


(おれを、縛らないってこと。


……そこまで本気になってないの)


妙に、悔しくなる。

確かに、恋人だなんてどちらも言っていない。


ただ逆に、アンデだってヴァイラから文句を言われる筋合いはないということ。


(そんなの、面白くない)


自分のことだけ見させたい。

この男を夢中にさせたい。

心まで、手に入れたい。



「そろそろ出るぞ」


片付けを終えたアンデに近づき、首に腕を回した。


「おまえ、着替えは――」


言いかけたアンデを引き寄せて、塞ぐように唇を重ねる。


アンデの少し驚いたような息が一瞬漏れたが、すぐに、キスを返してきた。


十分に唇を貪ってから離し、そのまま体を密着させる。


「アンデ。もう一回、抱いて」

「時間が」

「五分でいい」

「……ったく……遅刻は信用に関わる」

「この業界、時間通りなんてルールはないの、だから大丈夫」


アンデはその場でヴァイラの腰を持ち上げて抱えると、ずんずんとベッドに戻っていく。

いつも静かに行動する男に、時間による焦りが見え、それがほのかに野性味を感じさせる。


(ああ、この人、こんなにおれのこと、抱きたいと思ってくれてて)


求められることが、ヴァイラを快感に導いていく。


アンデの体力の前にいとも簡単に敗北してしまい、満身創痍に陥る瞬間が、密かに好きだ。


ストレート=異性愛者。

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