22 きみを見つけるよ
誰かが、春の匂いがすると言った。
(嘘だろ。断然冬だ)
アンデは、風の匂いを吸い込んでみる。
たしかに以前は、そろそろ春の兆しが分かったような気がするが。
雪の深くない都会に二年ほどいただけで、この感覚を忘れてしまっていたのだろうか。
「ブルジェレ中尉、報告です」
部下が来て、アンデは書類に目を戻した。
北部の町は、本部とは随分気候が変わる。
冬は雪深く、除雪作業や立ち往生の車両の救助などの任務が頻発した。
毎日雪を見ているうちに、地元に帰ってきた実感が日毎に高まり、
同時に都会の記憶が少しずつ、薄れていく。
夢の中の出来事だったかのように。
――あの、美しい世界のことも。
「今度はあいつが本部出向らしい。
いいなあ、都会。やっぱりここと違っていろんなものあるんだろ」
「テレビの中の世界だよなぁ」
休憩室で、以前から共に勤務していた同僚とストーブにあたる。
「とはいっても行く機会、ないよな」
「都会の女って、やっぱ垢抜けてんか?アンデ」
「……さあ」
「なんだよ」
「有名人とか、会ったりした?」
ふと、その面影を思い出す。
有名人、というほどにはまだ行かないけれど、その世界で生きる人。
「――いや。
住む世界が、違うよ」
✦
季節ごとに、任務は変わる。
本部ともまた任務の種類が少し違い、思い出しながら懐かしさを感じて。
戻ってから、隊の仲間と時間を過ごすことが多い。
休日の夕食を振る舞ったり、ちょっとしたアウトドアに出かけたり、たまには飲みやクラブ通いも。
誰も時間が合わなければ、大体筋トレなのはずっと変わらない――本部にいたときも。
小さい町では店も少ないし、派手に遊ぶことはしないが、出向前より人付き合いがよくなったと言われるようになった。
初夏を過ぎたころは、気候もよく自然が一番輝く頃。
隊の仲間が一人、町の教会で結婚式を挙げた。
昔からの友人で、軍にも一緒に入った旧友。
アンデも結婚パーティーに招かれて、参列する仲間と共に祝福に向かう。
ごく普通の、結婚式。
幸せそうな二人が振りまく光。
参列して、パーティーに参加して、幸せのおすそ分けをもらって。
懐かしい顔ぶれも、いくつか。
「えっ、都会にいたの?すげぇー」
「俺は去年子どもが生まれてさ」
「結婚って、実際どうなん?」
久しぶりの会話に、花が咲く。
誰もがそれぞれの道を歩んでいて。
それぞれの過程で迷ったり、新たに決断をしたり、ずっと歩み続けたり。
自分が歩むことのない生き方を、少しだけ垣間見る。
そんなに飲んだわけではないが、少し外の空気を吸いに出た。
「……アンデ」
女性の声。
「久しぶり。覚えてる?」
「……ああ。セーネル、久しぶり」
学生の頃、一時期付き合った相手。
そういえば、花嫁は同僚と同じ学校だった。
最後に会ってから、十年は経っている。
あの頃より穏やかで、落ち着いて、美しかった。
「元気?」
「ああ。きみも?」
「ええ」
不思議なほど、心が静かだ。
ただ間を通り過ぎる風のように。
「なんか、懐かしくて声かけちゃった」
「ずっと、この町に?」
「ええ。出る機会がないまま、平凡な人生送ってる」
「さっき聞いたけど、結婚したんだって?」
「もう三年前よ」
「そうか」
まだ愛の何たるやを知らなかった頃の思い出は、十年も経てばいい具合に風化していて、砂のようにさらさらと軽い。
「あまりご主人にキーキー言うなよ」
「あは、もうあの頃よりずっと大人になったから」
――時折感情を惜しげもなく放つ、気まぐれな猫のような存在をふと思い出す。
去年の今頃には出会っていたことも。
「あんたは、相変わらず何考えてんのかわかんないわね」
彼女の口から滑り出るような、ため息と呟き。
最後にも、そう言われたのは覚えている。
「ちゃんと言わないと、相手には分かんないんだから。
今度は気をつけなよ」
「そういう機会が、あればな」
多分もう、ないと思っている。
結局、言えないままだった。
言う資格はないと思っていたから。
言わなくてよかったとすら思っている。
でも、言っておけば、もしかして何か変わったのか。
後悔はしていないが、もし、を考えてしまうことはある。
時折こうして記憶の中から浮上してくるが、
じきにそれも風化して、もう交わることのない世界にいる彼を懐かしく思うようになるだろう。
ただ。
たしかに愛した存在がいたことだけは、風化せず、誇りとなっていくのだと思う。
✶⋆∘༓∘⋆✶
北部の夏は、都会より少し涼しい。
休暇のときには誰かの車に乗り合わせて、日帰りのキャンプに行くことが多くなった。
みんなそれぞれ野外での炊事には慣れているので、手際がいい。
誰かがラジオを持ってきて、簡易テーブルの上に置いていた。
流行りの曲でノリながら、自然を満喫して火を囲み、食事を楽しむ。
ふと、アンデの耳が聞き覚えのある声を拾った。
ラジオの側に寄って、耳を近づける。
外の雑音の中で、ラジオの音質もよくはなく、歌詞も満足に聞き取れない。
でも、これは。
あいつの歌声。
聞き間違えるはずがない。
‐‐
真っ暗な中でも、おれはきみを見つけるよ
今でも、愛してるから
‐‐
聞き取れたのは、それだけ。
自分に重ねてしまうのは、仕方のないこと。
歌詞なんて、そんなものだ。
それよりも、彼の声が公共の電波に乗っている。
国中に、彼の声が響いているのだ。
「……すげぇな」
痛みよりも、素直にその言葉が出た。
「アンデ?どうした」
「何の曲?」
アンデは、ふっと微笑む。
「……あっちでよく聞いてた人の曲だ」
✦
それから、ラジオでよく彼の曲を耳にするようになった。
テレビをつけてみれば、少し面構えが変わったような、彼の姿が映し出される。
メジャーデビューを果たしたということだ。
ライブほどの迫力は画面からは感じないが、それでも十分に力強い歌声。
マイクスタンドを抱くような、魅惑的な立ち姿も健在だった。
彼の歌う新しい曲は、歌詞をまともに聞いたら揺さぶられそうで、歌詞には耳を傾けないようについしてしまうのはまだ吹っ切れていない証拠。
実際、時折映し出される観客席では涙する人の姿もあった。
(こんなにも、人の心を動かせるようになったんだな)
そのことは、素直に嬉しかった。
レコードプレイヤーは相変わらず持っていないが、応援の意味を込めてレコード店で彼の新しいレコードも買い求めた。
そもそも、こんな田舎町のレコード店にまで並ぶということは、相当有名なアーティストという意味。
店頭で見つけたときにはさすがに驚いた。
予想外の再会で久しぶりに気分が高揚したが、思いの外動揺はなかった。
彼のいるところは、テレビの中の世界。
彼が現実に側にいて、さらに触れ合ったということが遠い遠い場所での出来事だったようで、現実味が感じられないのだ。
彼と過ごした記憶は、このまま夢か現実か曖昧なものになっていくのだろう。
――完全に思い出になってしまう前に、一つだけ。
アンデは、テーブルについて便箋を取り出した。
彼との接点を期待するわけではない。
むしろ、このまま忘れていてほしいほどだが。
でも、一つだけ、一言だけ、最後に――あいつに伝えたい。
✶⋆∘༓∘⋆✶
秋の気配が漂い始めた頃、アンデは業務を終えて帰宅した。
部屋のポストに、一通の封筒。
何気なく差出人を見てみると。
「――……は?
いや、なんで……?」
困惑しながら、封筒を開ける。
中には二枚の紙。
『 ヴァイラ・ツェーリ コンサートチケット
王立中央劇場 』
『 ヴァイラ・ツェーリ コンサート ステージパス 』
「……これだけ?
どういうことだよ……」
手紙もメッセージも、何もなし。
これは、来いということか。
今更、なぜ。
(でも、多分、これは来い、だな)
消えかけていた彼の存在が、急に実感を伴って蘇る。
「王立……って、わざわざ出向けってか。
日にちは……」
チケットの日付を確かめて、アンデは思わず舌打ちをした。
「おい、送るんならもっと早く送れよ……
これじゃ無断欠勤するしかねぇ」
思わず、笑いがこみ上げる。
「ヴァイ、おまえ……」
その名前を口にして、はっとする。
最後に呼んだのは、あの街を出るとき。
「絶対わざとだろ。
――ヴァイ」




