↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/17

第十六話 リビルドの夏、バイトの汗

 七月。梅雨明けを予感させる湿った風が、マンション一階の共有ガレージを通り抜けていく。

 紬の放課後は、制服から着古したつなぎに着替え、コンクリートの床に座り込むことから始まった。


 「よし……。今日はヘッドを外すんだよね」


 源さんから借りたマニュアルを膝に広げ、紬は汚れた手でページをめくった。

 隣では真波が「暑いねー」と言いながら、自分のカブのチェーンをブラシでこすっている。彼女はライト係や工具の受け渡し、そして何より紬の心が折れないための「重石」として、毎日ここにいた。


 源さんに指示された通り、慎重にボルトを緩めていく。一気に回せばネジ山が潰れる。ゆっくりと、均等に。


 ようやく外れたシリンダーヘッドの隙間から、ピストンの頭が見えた。真っ黒な煤(すす)がこびりついている。

 「うわ……。これが源さんの言ってた『煤噛み』?」

 「みたいだね。紬、これ一個ずつ磨くの?」

 「うん。新品に換えるお金はないから。……磨けば、まだ使えるって」


 真波の言葉に、紬は財布の紐を締め直した。

 源さんにリストアップされた「最低限必要な部品」だけでも、ガスケットやピストンリング、バルブのシールなど、女子高生には痛い出費だった。


 そのため、紬は『アンカー』でのシフトを増やしていた。

 「マスター、おはようございます」

 朝六時。開店前の薄暗い店内で、紬はモップを動かす。通常のシフトに加え、早朝の清掃バイトも引き受けたのだ。

 「……そんなに金が必要か」

 カウンターの奥で仕込みをしていたマスターが、不機嫌そうな声で聞いた。

 「はい。……愛車を、自分の手で直したいんです。八月には海に行きたいから」

 

 マスターは鼻で笑うと、何も言わずに一枚の皿をカウンターに置いた。

 「掃除が終わったら食え。試作の厚切りフレンチトーストだ。……腹が減ってりゃ、ネジ一本回すのもおぼつかんだろうからな」

 「……ありがとうございます!」

 

 バターと蜂蜜の甘い匂い。それが、泥だらけのガレージとバイトを往復する紬の、唯一の贅沢だった。


 夕方、再びガレージへ戻る。

 真波が買ってきた安売りのコーラを二人で回し飲みしながら、ピストンにこびりついた煤を真鍮ブラシで落としていく。

 「ねえ、紬。海に着いたら、真っ先に何する?」

 「……そうだなあ。まずは、CLと一緒に波打ち際で写真撮りたい。それから、潮風の中で海鮮丼食べよう」

 「最高! 私、イカ焼きも食べたいな!」


 笑い声がガレージに響く。

 指先は真っ黒で、腕には身に覚えのないアザが増えていく。けれど、パーツを一つ磨き上げるたびに、CL50の心臓が少しずつ、本来の輝きを取り戻していくのが分かった。

 

 それは、ただバイクを直しているだけではなかった。

 自分の力で稼ぎ、自分の手で触れ、自分の意志で目的地へと向かう。

 紬は、バラバラになったエンジンの部品を並べながら、自分自身の生活もまた、一から丁寧に組み直しているような感覚の中にいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。