第十六話 リビルドの夏、バイトの汗
七月。梅雨明けを予感させる湿った風が、マンション一階の共有ガレージを通り抜けていく。
紬の放課後は、制服から着古したつなぎに着替え、コンクリートの床に座り込むことから始まった。
「よし……。今日はヘッドを外すんだよね」
源さんから借りたマニュアルを膝に広げ、紬は汚れた手でページをめくった。
隣では真波が「暑いねー」と言いながら、自分のカブのチェーンをブラシでこすっている。彼女はライト係や工具の受け渡し、そして何より紬の心が折れないための「重石」として、毎日ここにいた。
源さんに指示された通り、慎重にボルトを緩めていく。一気に回せばネジ山が潰れる。ゆっくりと、均等に。
ようやく外れたシリンダーヘッドの隙間から、ピストンの頭が見えた。真っ黒な煤がこびりついている。
「うわ……。これが源さんの言ってた『煤噛み』?」
「みたいだね。紬、これ一個ずつ磨くの?」
「うん。新品に換えるお金はないから。……磨けば、まだ使えるって」
真波の言葉に、紬は財布の紐を締め直した。
源さんにリストアップされた「最低限必要な部品」だけでも、ガスケットやピストンリング、バルブのシールなど、女子高生には痛い出費だった。
そのため、紬は『アンカー』でのシフトを増やしていた。
「マスター、おはようございます」
朝六時。開店前の薄暗い店内で、紬はモップを動かす。通常のシフトに加え、早朝の清掃バイトも引き受けたのだ。
「……そんなに金が必要か」
カウンターの奥で仕込みをしていたマスターが、不機嫌そうな声で聞いた。
「はい。……愛車を、自分の手で直したいんです。八月には海に行きたいから」
マスターは鼻で笑うと、何も言わずに一枚の皿をカウンターに置いた。
「掃除が終わったら食え。試作の厚切りフレンチトーストだ。……腹が減ってりゃ、ネジ一本回すのもおぼつかんだろうからな」
「……ありがとうございます!」
バターと蜂蜜の甘い匂い。それが、泥だらけのガレージとバイトを往復する紬の、唯一の贅沢だった。
夕方、再びガレージへ戻る。
真波が買ってきた安売りのコーラを二人で回し飲みしながら、ピストンにこびりついた煤を真鍮ブラシで落としていく。
「ねえ、紬。海に着いたら、真っ先に何する?」
「……そうだなあ。まずは、CLと一緒に波打ち際で写真撮りたい。それから、潮風の中で海鮮丼食べよう」
「最高! 私、イカ焼きも食べたいな!」
笑い声がガレージに響く。
指先は真っ黒で、腕には身に覚えのないアザが増えていく。けれど、パーツを一つ磨き上げるたびに、CL50の心臓が少しずつ、本来の輝きを取り戻していくのが分かった。
それは、ただバイクを直しているだけではなかった。
自分の力で稼ぎ、自分の手で触れ、自分の意志で目的地へと向かう。
紬は、バラバラになったエンジンの部品を並べながら、自分自身の生活もまた、一から丁寧に組み直しているような感覚の中にいた。




