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第十五話 診断、そして泥だらけの指先

 「……キックに手応えがねえな」

 雨の中、近所のバイクショップから軽トラで駆けつけてくれた源さんは、いつものガレージに足を踏み入れるなりそう呟いた。

 

 紬は、濡れたタオルを握りしめたまま、源さんの無骨な手がCL50を検分する様子を固唾を飲んで見守った。源さんは手際よくプラグを引き抜き、シリンダーの横に当ててキックを踏む。


 「火は飛んでる。だが、圧縮がねえ。……紬、草津の帰り、無理に回さなかったか?」

 「えっ……。下り坂で、少しスピードが出てたかもしれません」

 「それだ。古いつっても50cc。あんまり回しすぎると、バルブにすすが噛んじまって、空気が漏れる。心臓が息切れしてる状態だな」

 源さんは立ち上がり、油の染みた帽子を脱いで頭を掻いた。かつて自分が整備して手渡した愛車が沈黙していることに、少しだけ寂しそうな目を向ける。


 「店に持ち込めば直してやれるが……工賃込みで、お前のバイト代二ヶ月分は吹っ飛ぶぞ」

 二ヶ月分。その言葉に、紬の頭が真っ白になった。

 やっと貯めたお金は、夏休みに真波と海へ行くためのガソリン代と宿泊代に消えるはずだった。バイクが直らなければ海には行けない。けれど、直すためにお金を使い果たしても、やはり海には行けない。


 「……自分で、直せませんか」

 絞り出すような紬の声に、源さんが眉を上げた。

 「自分で? お前、ネジ一本外したことないだろ。ここは店の作業場じゃねえ、ただの暗いガレージだぞ」

 「源さんが教えてくれるなら……やります。この子が動かなくなったのは、私のせいですから。ここで、私が直したいんです」


 その時、ガレージの入り口に一台の原付が滑り込んできた。びしょ濡れのカッパを着た真波だ。

 「紬! 大丈夫!?……あ、やっぱり源さんも来てくれたんだ」

 「真波……」

 「話は聞いたよ。CL、元気ないんだって? 源さん、私からもお願いします! 私、源さんの店の手伝いでも何でもするから、紬に修理教えてあげて!」

 真波は勢いよく頭を下げた。雫がコンクリートの床に飛び散る。


 源さんは呆れたように二人を交互に見た後、ふっと鼻で笑った。

 「……ったく。海に行きたいんだろ? だったら、四の五の言わずに工具を握れ。店から道具を持ってきてやる。ここを臨時の作業場にするぞ」


 そこからの数時間は、格闘だった。

 源さんが店から持ってきたプロ用の工具を借り、紬は慣れない手つきでスパナを握った。共有ガレージの暗い裸電球の下、真波がスマホのライトで手元を照らす。

 

 「……っ、固い」

 「いいか紬、ネジは『回す』んじゃねえ、『押しながら回す』んだ。力任せにやるとネジ山をなめるぞ」

 源さんの厳しい指導が飛ぶ。

 ようやく外れたキャブレターの隙間から、ドロッとした黒い汚れが溢れ出した。紬の細い指先は、あっという間に真っ黒なオイルで汚れ、爪の間まで泥が入り込んでいた。


 けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。金属の冷たさと、油の重み。それを直接肌で感じるたびに、ただ「乗せてもらっていた」だけの自分から、一歩だけ相棒の深淵に近づけたような気がした。


 「今日はここまでだ。部品を発注しとく。……紬、明日からも放課後はここで作業だぞ」

 「はい!」

 源さんの軽トラを見送った後、雨は小降りになっていた。

 「紬、指、真っ黒だね」

 「真波もだよ。ライト係、ありがとう」


 二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。

 海までの道は、まだ遠い。

 けれど、動かない銀色の塊を前に、紬の心には不思議な熱が宿っていた。

 直してみせる。自分の手で、もう一度あの鼓動を呼び覚ましてみせる。

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