第十四話 雨の余韻、眠る銀色
夏編開幕
草津から戻った後の五月は、まるで魔法にかかったような日々だった。
放課後、真波と連れ立って渡良瀬川の土手を走るだけで、世界が自分のものになった気がした。学校の駐輪場で隣り合うCL50とカブを眺める時間は、一人暮らしの寂しさを忘れさせてくれる唯一の救いだった。
けれど、六月に入り、桐生の山々が深い霧に包まれるようになると、その魔法が少しずつ解け始めた。
六月下旬の土曜日。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく朝だった。
紬は『アンカー』のバイトへ向かうため、重いシャッターを押し上げた。薄暗いガレージの真ん中で、銀色のタンクが鈍く光っている。
「おはよう。今日もよろしくね」
いつものようにキーを回し、ニュートラルの緑色を確認する。右足に体重を乗せ、一気にキックペダルを踏み抜いた。
スカッ――。
耳慣れない、頼りない音が響いた。いつもなら一発で火が入るはずのエンジンが、今日は沈黙したままだ。
紬は首を傾げ、もう一度踏み込む。
スカッ。スカッ。
「……え?」
焦りがじわりと背中を伝う。燃料コックを確認し、チョークレバーを引いてみる。けれど、何度キックを繰り返しても、ペダルから伝わってくるのは空虚な抵抗感だけだった。
十回、二十回。全力で踏み続けるうちに、紬の額からは汗が吹き出し、膝が笑い始めた。
「お願い、起きて。……マスター待ってるんだから」
声が震えた。今まで、当たり前のように自分をどこへでも連れて行ってくれた銀色の相棒。それが今は、ただの重い鉄の塊としてそこに横たわっている。
ふと見ると、エンジンの下から黒いシミが広がり始めていた。鼻を突く、生々しいガソリンと古いオイルの匂い。
(……私が、無理をさせすぎたのかな)
草津までの険しい峠道。あの時、CLは悲鳴を上げながら登っていた。自分は「行ける」と確信していたけれど、この小さな50ccの体には、想像以上の負担がかかっていたのかもしれない。
外では、予報になかった雨が降り始めていた。アスファルトを叩く激しい雨音が、ガレージの中に閉じ込められた紬の不安を煽る。
バイクを直す知識もなければ、どうして動かないのかさえ分からない。
紬は、オイルで少し汚れた手を自分のズボンで拭うと、震える指でスマホを取り出した。
連絡先の一番上にある、真波の名前。
そして、その下にある、無骨な老整備士の名前――。
海へ行く。
あんなに鮮やかだった夏への約束が、雨音にかき消されていくような気がした。




