第十三話 湯煙の夜、そして日常への帰路
草津の夜は、桐生よりもずっと深く、そして静かだった。
共同浴場「白旗の湯」で芯まで温まった体は、心地よい重さに包まれている。湯上がりの火照った頬に、高原の夜風が優しく触れた。
「紬、生きてる?」
素泊まりの小さな宿の畳の上で、真波が大の字になって転がっている。
「……うん。でも、まだ手が少し痺れてるみたい」
紬は自分の両手を見つめた。ハンドルを握りしめていた感覚が、まだ指先に残っている。
「ねえ、紬。……今日、怖くなかった?」
真波が天井を見上げたまま、不意に真面目な声で聞いた。
「怖かったよ。トラックが横を通る時とか、坂道でエンジンが止まりそうになった時とか。……何度も、引き返そうかと思った」
紬は正直な気持ちを口にした。一人暮らしの部屋で膝を抱えていれば、こんなに指が冷えることも、命の危険を感じることもなかったはずだ。
「でもさ」と、真波が上体を起こして紬を見た。
「自分の力でここまで来たんだよね。おじいちゃんのカブと、紬のCLで。……誰かに連れてきてもらうのとは、全然違う景色だったでしょ?」
「……うん。全然、違った」
紬は頷いた。自分でガソリンを入れ、自分でギアを選び、自分の意志で坂を登った。そのすべての工程が、今の自分を支える「自信」という名の骨組みになっている。
翌朝、午前九時。
二人は名残惜しそうに湯畑を一周してから、帰路についた。
下り坂は、登りとは別の緊張感があった。エンジンブレーキを効かせながら、一気に高度を下げていく。登る時にあれほど苦労した急勾配を、CL50は軽やかに駆け抜けていく。
(あんなに遠かったのに、帰るのはこんなに早いんだ……)
吾妻から中之条へ。街が近づくにつれ、空気は次第に湿り気を帯び、暖かくなっていく。
道端の温度計が「二十二度」を示した頃、ようやく見慣れた渡良瀬川の流れが見えてきた。
「紬! 最後に寄り道しよ!」
真波に誘われて立ち寄ったのは、街外れの堤防の上だった。
二台のバイクを並べ、夕暮れに染まる桐生の街を見下ろす。数日前にここを通った時とは、街の風景が少し違って見えた。あの中に自分の居場所があることが、今は少しだけ誇らしい。
「紬、お疲れ様。最高のゴールデンウィークだったね」
「うん……。真波、誘ってくれてありがとう」
「お礼なんていいよ。だって、次は紬が私をどこかに連れて行ってくれるんでしょ?」
真波がいたずらっぽく笑い、カブのエンジンをかけた。
ガレージに戻り、シャッターを閉める。
キーを抜くと、世界は一瞬で静寂に包まれた。
紬はウエスを取り出し、旅の泥を被ったシルバーのタンクを丁寧に拭き上げた。
「お疲れ様。……ありがとうね」
翌、月曜日。
桐生高校の四時間目の終わりを告げるチャイムが響く。
いつもと変わらない喧騒の中、真波が焼きそばパンを抱えて駆け寄ってくる。
「紬! 争奪戦、勝ったよ!」
紬は微笑みながら、自分の分のおむすびを広げた。
「真波、次はね……海が見たいな」
真波が驚いたように目を丸くし、それから最高に明るい笑顔で頷いた。
窓の外、五月の空はどこまでも高く、澄み渡っている。
紬のポケットの中では、CL50の鍵が、次の冒険を待つように静かに光っていた。
春編完結




