第十二話 坂道の咆哮、湯畑のエメラルド
吾妻の街を抜け、国道292号線――通称「草津道路」に差し掛かると、景色は一変した。
「ここからが正念場だよ、紬!」
それまでの緩やかな登りは影を潜め、急勾配のカーブが牙を剥く。50ccの非力なエンジンにとって、標高1200メートルを目指すこの道は、まるで巨大な壁のようだった。
紬は左足でシフトペダルを蹴り込み、二速に落とした。
エンジンの回転数が跳ね上がり、CL50が悲鳴に近い咆哮を上げる。時速は二十キロまで落ち、自転車と変わらないような速度で一歩ずつ、アスファルトを噛み締めるように進む。
ふと横を見ると、真波も必死の形相でカブに跨っていた。タスマニアグリーンの車体が、重い荷物を背負って小刻みに震えている。
(頑張って……あと少し……!)
紬はハンドルを握りしめ、心の中で愛車に語りかけた。
大型バイクなら一瞬で通り過ぎるこの坂を、彼女たちは全身で、エンジンの熱を感じながら登っている。追い越していく車からの視線を感じるが、今の紬にはそんなことはどうでもよかった。
自分の手で、この坂を乗り越える。その一事だけが、今の彼女の世界のすべてだった。
やがて、硫黄の匂いが風に乗って届き始めた。
鼻を突く独特の香りに、紬の胸が高鳴る。最後の急カーブを曲がり切った瞬間、視界がパッと開けた。
「……着いたぁ!」
真波の叫び声が響く。
目の前に現れたのは、もうもうと立ち上る白い湯煙と、観光客で賑わう草津の温泉街。
二台のバイクは、注がれる視線を浴びながら、ゆっくりと坂を下り、街の中心部――「湯畑」へと辿り着いた。
スタンドを立て、エンジンを切る。
チチチッ、チチッ……。
限界まで熱せられたエンジンが、冷えていく音を立てる。紬はヘルメットを脱ぎ、乱れた髪をそのままに、エメラルドグリーンに輝く湯処を見つめた。
「紬、やったね! 本当に来ちゃったよ、私たち!」
真波がヘルメットを抱えたまま、紬の肩を叩く。
「うん。……本当に、来たんだね」
紬は自分の手が、まだエンジンの微かな振動で痺れていることに気づいた。けれど、その痺れは、何にも代えがたい「証」のように思えた。
夕暮れの湯畑。ライトアップされた木枠を流れる湯の花が、幻想的な美しさを放っている。
一泊二日の小さな旅。けれど、桐生のガレージを出発した時とは、世界の見え方がまるで違っていた。
一人暮らしの寂しさも、学校での所在なさも、この長く険しい坂道の向こう側に置いてきたような、そんな清々しい気分だった。
「ねえ、真波。……温泉、入ろっか」
「賛成! その前に、湯けむり饅頭も食べなきゃ!」
二人は並んで歩き出す。
その後ろには、夕陽を浴びて静かに誇らしげに佇む、銀色のCL50と緑のカブがあった。
紬が手に入れたのは、単なる移動手段ではない。
どんな高い山だって、自分の意志で越えていけるという、揺るぎない自信だった。




