第十七話 火、再び。そして教室の風
月曜日。
桐生高校の教室に、窓から差し込む朝の光が机を白く照らしている。
紬は、英語の授業中にふと自分の右手を見た。石鹸で何度も洗ったけれど、爪の間にわずかに残った黒いオイルの線が、昨日のガレージでの格闘を思い出させる。
「ねえ、紬。次の休み、いよいよエンジンかけるんでしょ?」
休み時間、前の席に座る真波が振り返って小声で聞いてきた。
「うん。昨日の放課後にヘッドまで組み終わったから。あとは源さんに立ち会ってもらって、火を入れるだけ」
「うわぁ、緊張するね。私もバイト終わったらすぐ行くから!」
周囲のクラスメイトたちが夏休みの予定や試験の文句を話している中、二人だけの会話はどこか秘密の作戦会議のようで、紬の胸を少しだけ熱くした。
かつての紬にとって、学校はただ通り過ぎるだけの場所だった。
けれど今は、放課後のガレージという「目的」があるだけで、退屈な授業も心地よい予走のように感じられた。
放課後、夕立の気配を含んだ風の中を、紬は一目散にガレージへと向かった。
つなぎに着替え、源さんの到着を待つ。やがて、聞き慣れた軽トラのエンジン音が近づいてきた。
「よう。準備はできてるな?」
源さんは軽トラから降りると、紬が組み上げたエンジンを無言で一瞥した。
トルクレンチの締め忘れはないか。ガスケットは正しく挟まっているか。
その鋭い視線に、紬は息を呑む。
「……よし。オイルとガソリンは入れたな。キックしてみろ」
源さんの言葉に、紬は震える手でキーを回した。
真波も合流し、ガレージの隅で祈るように手を合わせている。
一回目、キックペダルを踏み抜く。手応えはあるけれど、エンジンは目覚めない。
二回目、三回目。
(起きて……お願い……!)
四回目。渾身の力を込めて踏み下ろした瞬間。
――トトトトトトッ……!
ガレージの冷たいコンクリートを震わせて、乾いた、けれど力強い排気音が響き渡った。
「かかった……!」
真波が飛び上がって喜ぶ。紬は、ハンドルに伝わってくる心地よい微振動に、思わず目頭が熱くなった。バラバラになっていた金属の塊に、再び命が宿った瞬間だった。
「ふん、まあまあの音だな」
源さんは少しだけ口角を上げると、ポケットから古い布を取り出して手を拭いた。
「だが、ここからが本番だ。一度熱を入れて、冷まして、また増し締めしろ。海までの道は、その『信用』の上に成り立ってるんだからな」
「はい、源さん!」
紬の返事は、今までで一番大きかった。
その日の夜、紬はヘルメットを被り、直したばかりのCL50で桐生の街をゆっくりと流した。
夜風を切りながら聞くエンジンの音は、前よりもずっと澄んで聞こえた。
教室で交わした真波との約束。マスターがくれた応援のフレンチトースト。源さんの厳しい指導。
バラバラだった自分の毎日が、エンジンの部品のように一つに組み合わさっていく。
(行こう、海へ)
テールランプの赤い光が、夜の桐生に小さな軌跡を描いていった。




