第70話 嵐の前の静けさ
静かな夜の庭に、ナイフの刀身を布で擦る微かな音が響く。
つい先ほどまでこの空間を支配していた、上空からの殺意も焼夷弾の焦げ臭さも、すでに夜の闇の向こうへと消え去っていた。
縁側では、徹夜明けのみのりや純子たちが、蘇生させたパエージャと、ニンニクを効かせて魔改造した特製スープを無言で、しかし凄まじい勢いで平らげている最中だった。
高級店で調理され、完全に冷めきっていた米。それを高温の油で焼き直したことで、魚介の濃厚な香りが彼女たちの空腹をダイレクトに刺激しているのだろう。
無心でスプーンを動かして胃袋を満たしていく彼女たちの姿を眺めながら、俺は冷えた黒ビールの缶を傾け、喉を潤す。
自分の手がけた料理を、誰かが旨そうに平らげる光景を見るのは悪くない。襲撃者の始末や後片付けの疲労も、少しだけ和らぐ気がした。
「前菜はあらかた片付いたみたいだな。そろそろ、本命のメインディッシュを出そう」
俺は愛用の解体ナイフを五右衛門の亜空間へと仕舞い、立ち上がってキッチンへと向かった。
奥のコンロで、弱火でコトコトと煮込んでいた深底の鍋。その蓋を開けると、醤油の焦げる香ばしさと、八角やクローブなどのエキゾチックなスパイスの香り、そして何より、暴力的なまでの豚の脂の匂いが立ち上った。
「スペアリブ、ですか?」
匂いにつられて顔を覗かせた瞳が、眼鏡を押し上げながら鍋の中を覗き込んだ。
「ああ。豚のスペアリブを、醤油、酒、みりんと一緒に煮込んだものだ。だが、水や出汁の代わりに、たっぷりの『コーラ』を使っている」
「コーラ……炭酸飲料の、ですか?」
「そうだ。コーラに含まれる炭酸と糖分が肉のタンパク質に作用して、短時間でも驚くほど肉の繊維を柔らかくしてくれる。それに、コーラ特有のスパイス感が、豚の脂の臭みを見事に消し去ってくれるんだ」
俺はトングで、骨からホロリと外れそうなくらい柔らかく煮上がったスペアリブを大皿に高く積み上げ、残った煮汁を強火でとろみがつくまで煮詰めてから、上からたっぷりと回しかけた。
照り輝く琥珀色のソースが、肉の表面を官能的にコーティングしていく。
「お待たせしたな。熱いうちにどうぞ。骨から簡単に外れるように煮込んであるから、遠慮なく手掴みでいってくれ」
大皿をちゃぶ台の中央に置くと、歓声が上がった。
みのりは躊躇なくスペアリブの太い骨を手に取り、一口かぶりつく。
繊維に沿って、ホロリと肉が骨から外れた。
「……あー、生き返るわ」
みのりは咀嚼しながら、深く息を吐いた。
「すっごい柔らかい……。コーラの甘ったるさなんて全然ないわね。むしろ、コクのある特製のデミグラスソースみたい。濃厚な脂を、スパイスの香りがスッキリと食べさせてくれる……」
彼女はそのまま黒ビールをあおり、至福の表情で天を仰いだ。先ほどまで協会への事後処理で胃をすり減らしていた彼女の顔から、ようやく「仕事人」の険が取れた。
俺は庭の隅に腰を下ろし、黒ビールの苦味を味わいながら、夜の空気を肺に吸い込んだ。
「ワフッ!」
「キュウゥ!」
足元から、元気な鳴き声が聞こえた。
視線を落とすと、質量操作でバレーボールサイズになったポチと、黒い雷獣の赤ん坊――クロが、芝生の上で転げ回って遊んでいた。
俺が五右衛門の亜空間から取り出してやった新しいオモチャ――ダンジョンの下層で拾った、ワイバーンの大腿骨を加工した硬いラバーボールの奪い合いだ。
クロが短い脚でボールに飛びつき、前足でがっしりとホールドする。その小さな体の表面には、興奮からかバチバチと青白い静電気が走っていた。
だが、ポチは慌てることなく、スッと鼻先をクロの脇腹に突っ込み、くすぐるように動かした。
「ヒャンッ!?」
驚いたクロがボールから手を離した瞬間、ポチがポイッとボールを空中に放り投げ、見事な背面キャッチを決める。
「ワフン(俺の勝ちだ、まだまだ甘いな)」
とでも言いたげに、ポチは胸を張り、クロを見下ろした。クロは悔しそうに「クゥ〜」と鳴きながら、ポチのフワフワの尻尾にじゃれついている。
兄貴風を吹かしながらも、決して本気でクロを噛んだり突き飛ばしたりはしない。ポチなりの力加減と愛情が、その仕草から伝わってくる。
「……ああっ、尊い……」
縁側でスペアリブを頬張っていたすずが、胸を押さえて悶絶している。
「あの手加減してるポチちゃんの顔……そして悔しがってるクロちゃんの短足……! 鈴木さん、あの光景は世界の宝です、早急に保護指定すべきです……!」
「アタシ、もうあの二匹の間に挟まって一生お昼寝してたいっしょ……」
ゆき子もとろけたような顔で呟いている。
その光景に目を細めつつ、俺は立ち上がってキッチンの前に戻り、食後のコーヒーの準備を始めた。
豆を手挽きのミルでゆっくりと挽く。ガリガリという低く落ち着いた音が、部屋の空気を少しだけ引き締める。
食欲を満たした純子と瞳は、すでにちゃぶ台の上に広げられたノートPCの前に戻っていた。休む間もなく、先ほどの襲撃者たちから回収したデバイスの解析を再開しているのだ。
「……おかしいですね」
瞳が、タブレットの波形データを眉をひそめて睨みながら口を開いた。
「太平洋の特定海域で、気象庁が『ただのノイズ』として処理した異常な地殻変動のデータがあります。でも私の演算式では、この魔力上昇と海流の変化は、決して自然現象じゃない……。何かが、海の底から押し上げられているような……」
純子も、ハッキングしたデバイスの画面を指差しながら、不穏な推測を口にする。
「品川の第4倉庫の件、ログを辿ると奇妙なダミー会社ばかりを経由しています。……ただの密輸ルートの確保にしては、あまりにも広域で大掛かりすぎます。まるで、もっと途方もなく巨大な計画の準備段階のような……」
未知のデータと、繋がらない点と点。
だが、長年裏社会に触れてきた彼女たちの勘が、その先に潜む巨大な悪意の輪郭を捉えようとしていた。
俺は無言で、ドリップポットから静かにお湯を注ぎ落としていた。
コーヒーの粉がふわりと膨らみ、芳醇な香りが立つ。
淹れたてのコーヒーを入れたマグカップを三つ持ち、縁側へと戻る。一つをみのりの横に置き、もう二つを純子と瞳のPCの横にそっと置いた。
「……太平洋? 何を企んでいるのよ、あいつら」
みのりが額に手を当て、呻くように言った。
「海に潜む何かを狙っているのかしら。だとしたら、規模が大きすぎて……嫌な予感しかしないわ」
部屋の空気が、一気に重くなった。
世界的な犯罪シンジケート『ウロボロス』の得体の知れない動き。全貌が見えないことへの不気味さが、じわじわと俺たちの間に広がっていく。
「みのり」
俺は自分のマグカップを持ち、西の夜空を見上げながら、極めて真面目なトーンで口を開いた。
「俺、来週から有給取っていいか?」
ピタリ、と。みのりがマグカップに伸ばしかけた手が止まった。
「……は?」
「いや、S級になってからこっち、強制出張だの防衛戦だの、全く休めてないだろ。そろそろ有給休暇ってやつを消化しないと、労働基準法に引っかかると思うんだ。山奥の静かな温泉宿で、二週間くらいポチとクロを連れて療養したい」
俺の切実な訴えに対する、協会の担当職員である伊藤みのりの回答は、極めて短く、冷酷だった。
「却下よ」
「なんでだ」
「S級に有給制度なんてないわよ! 個人事業主なんだから!」
みのりが立ち上がり、俺の胸元を指差した。
「あんた聞こえてなかったの!? ウロボロスが海の向こうで何かとんでもないことを企んでるかもしれないのよ! 東京の防衛線を守ったS級のあんたが、こんな不穏な時期に温泉宿で療養なんて許されるわけないでしょ!」
「知るか。海の問題なら海上自衛隊か、海の向こうのヒーローたちに任せておけ。俺はただの荷物持ちだ。世界がどうなろうと、俺の知ったことじゃない」
俺はコーヒーを一口啜り、静かに言い切った。
「俺は、定時で帰って、美味い飯を食って、寝る。その平穏を乱すようなデカいトラブルには、一切関わりたくない」
それが、俺の譲れない線だ。
深層の巨大な海鮮――あれほどの魔力を持った食材を解体し、味わってみたいという料理人としての純粋な欲求はある。だが、それに付随する「世界を救う」だの「犯罪組織との全面戦争」だのという面倒なタグは、絶対に背負いたくない。
「……逃がさないわよ」
みのりが、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
「あんたのその平穏は、世界が正常に機能していてこそ成り立つものよ。……それに、茜さんが言ってた『幻の食材』、本当に他の誰かに取られてもいいの?」
痛いところを突かれた。
俺は無意識に眉間に皺を寄せ、舌打ちを噛み殺した。
「……有給の申請書は、月曜の朝イチでデスクに出しておく」
「シュレッダーにかけてやるわ」
短い応酬。
だが、互いにそれが本気ではないことも、すでに巻き込まれていることも理解している。
俺は苦笑し、マグカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。
「ポチ、クロ。そろそろ片付けて家に入るぞ」
足元の小さな二つの毛玉に声をかけると、彼らは嬉しそうに短い尾を振って、俺の後に続いた。
見上げた東京の夜空を、分厚い雲がゆっくりと覆い始めていた。
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