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第71話 世界会議、東京開催

 初夏の朝。澄んだ空気が肺を満たし、遠くから聞こえる鳥のさえずりが心地よい。

 俺は、近所の河川敷をゆっくりと歩いていた。

 足元の芝生は朝露をいっぱいに含んでキラキラと輝き、吹き抜ける風にはほんのりと若葉の匂いが混じっている。


 リードの先では、2つの小さな毛玉――白いポチと、その影を一生懸命に追いかける黒いクロが、草むらを楽しそうに跳ね回っている。

 すれ違うジョギング中の人や、犬の散歩をしている近所の住人たちが、不思議そうに、そして微笑ましそうに2匹を眺めて通り過ぎていく。無理もない。どう見ても普通の犬種には見えない丸々としたフォルムと、不自然なほどの愛嬌を振りまいているからだ。特にクロは頭に小さな一本角が生えているため、よく「珍しい犬種のミックスですか?」と聞かれる。俺はその度に「ええ、まあ」と愛想笑いで誤魔化すしかなかった。


「ほら、あまり遠くに行くなよ。草むらには虫がいるからな」


 俺の呼びかけに、2匹は短い尻尾を振りながら振り返った。

 ポチは最近すっかり兄貴風を吹かせており、クロが少しでも遅れると、立ち止まって鼻先で優しくツンツンと背中を押してやる。クロもそんなポチを慕っていて、短い手足で一生懸命にポチの影を追いかけていた。


 ふと、クロの目の前を紋白蝶がひらひらと横切った。


「キュウッ!」


 クロの小さな角から、パチッと青白い静電気が弾ける。狩猟本能が刺激されたのか、クロは蝶を追いかけて不器用なジャンプを繰り返した。

 だが、当然届かない。

 するとポチが「任せろ」とばかりに前に出て、見事な跳躍を見せた。空中で蝶を傷つけないように鼻先で軽くタッチし、ふわりと着地……するはずが、朝露で滑って見事にスッテンコロリンと転がった。


「ワフゥ……」


 泥だらけになったポチが、少し恥ずかしそうに俺を見上げる。クロはそんなポチを見て「すごい!」とばかりに周囲をバチバチと跳ね回っている。


「怪我はないか? 帰ったらシャワーだな」


 俺はしゃがみ込み、2匹の頭を交互に撫でた。

 ポチの滑らかな白い毛と、クロの少し硬質な黒い毛。手のひらから伝わる温もりが、俺の心を穏やかにしていく。

 平穏な朝だ。長年、薄暗いダンジョンの底で泥にまみれてきた俺にとって、こういう何気ない日常の散歩こそが何よりの宝物だった。

 ずっとこのまま、美味しいご飯を作って、定時に布団に入る生活を続けたい。

 だが、長年培ってきたポーターとしての勘が、この平穏が長く続かないことを告げていた。


 アパート『ひまわり荘』に戻ると、予想通り、玄関前に見慣れたスーツ姿の女性が立ち尽くしていた。

 探索者協会の担当職員、伊藤みのりだ。

 彼女の目の下にはくっきりとクマがあり、手には分厚いファイルが抱えられている。どう見ても徹夜明けの姿だ。


「……おはよう、悠作。それにポチちゃん、クロちゃんも」


 みのりは2匹を見ると一瞬だけ顔をほころばせたが、すぐに重苦しい仕事用の顔に戻った。


「朝からお疲れ様。また何か面倒事を持ってきたような顔だな」


 俺が鍵を開けながら言うと、みのりは肩を落として、肺の空気をすべて吐き出すように息を漏らした。


「ええ、特大のやつをね。中に入っていいかしら。立ち話で済む内容じゃないの」


 俺はみのりをリビングに通し、冷蔵庫から冷たい麦茶を出してグラスに注いだ。足元の脱衣所では、五右衛門が展開した専用の小型バスタブで、ポチとクロが大人しくシャワーを待っている。


「それで、特大の面倒事ってなんだ」


 麦茶を一口飲んでから、みのりは抱えていたタブレットをテーブルに置いた。

 画面には、世界地図と、各国の主要なS級探索者たちの顔写真が並んでいる。


「来週、東京で『S級探索者世界会議』が開催されることになったわ。各国のギルドトップと、世界を代表するS級たちが一堂に会する非常事態よ」


 世界会議。

 その言葉の響きだけで、俺は頭痛がしてくるのを感じた。


「先日、海上に浮上した古代ダンジョン『アトランティス』の件、それから世界的シンジケート『ウロボロス』の不穏な動き。世界各国も危機感を強めているの。これらをどう対処するか、各国の利害を調整するためのトップ会談ね」

「なるほどな。世界の命運を決める重要な会議ってわけだ。ジークやしずかたちには伝えておくよ」


 俺は立ち上がり、キッチンへ向かおうとした。


「待ちなさい。悠作、あんたも参加するのよ」


 みのりの鋭い声に、俺は足を止めた。


「俺は行かない。S級の資格は持っているが、ただの荷物持ちだ。世界平和の議論なんて、柄じゃない。俺には夕飯の支度という重要な任務があるんだ」

「会議に出席しろとは言っていないわ」


 みのりは立ち上がり、俺の肩をガシッと掴んだ。その手には、すがるような力が込められている。


「各国のS級探索者たちはね、皆、実力もプライドも規格外なの。彼らを一つの場所に集めたらどうなると思う? 前回なんて、食事の肉の焼き加減が気に入らないって理由だけで、アメリカのS級と中東のS級が乱闘騒ぎを起こして、会場のホテルが半壊したのよ。それに加えて、フランスの代表は現地の水の味が気に入らないとストライキを起こしかけるし、中国の代表は香辛料の配合が気に食わないと魔力を暴走させて厨房を吹き飛ばしかけたわ」

「……まるで子供だな」

「そう、力を持った子供なのよ。だからこそ、彼らを『大人しく』させる必要があるの」


 みのりは真剣な瞳で俺を見つめた。


「悠作。あんたに、今回の世界会議の『ケータリング総責任者』を任せたいの」

「……ケータリング?」

「そう。美味しい食事は、国境もプライドも越える。会議の空気が悪くなった時、極上の料理があれば、彼らの振り上げた拳を下ろさせることができるかもしれない。各国のVIPたちの複雑な味覚と要望を完璧に満たし、かつ、いざという時に彼らを物理的にも制圧できる実力を持った料理人。……世界中を探しても、あんたしかいないのよ」


 俺は腕を組んだ。

 確かに、空腹は怒りを増幅させる。美味い飯があれば、大抵の人間は大人しくなるものだ。

 だが、各国のS級を満足させる料理を、連日用意するとなれば、それはもはや戦争だ。

 定時退社など夢のまた夢になる。


「断る。割に合わない」


 俺が即答すると、部屋の奥からスッと影が伸びた。


「あら、受けておいた方がよろしくてよ、悠作様」


 いつの間に侵入していたのか、和装の魔女・加藤茜が扇子を揺らしながら立っていた。


「茜。また勝手に入ってきて」

「世界会議の厨房。そこは、各国の首脳陣やS級たちの思惑、そしてウロボロスに関する情報が最も飛び交う『最高の傍受地点』ですわ。悠作様が厨房を仕切ってくださるなら、私ども情報屋としてもこれ以上ない好都合」


 茜は悪戯っぽく微笑み、電卓を取り出した。


「もちろん、報酬は弾みます。それに、今回のお仕事を引き受けていただければ、アパートの結界維持費と五右衛門のローンの利子、3ヶ月分を免除させていただきますわ」

「……」


 ローンの免除。その言葉に、俺の心が大きく揺らぐ。


「お願い、悠作。私からも頼むわ。日本のギルドの面子もかかっているの。あんたの料理なら、絶対に世界を黙らせることができる」


 みのりの真剣な訴えを聞きながら、俺の脳裏をよぎったのは、京都の百鬼夜行ダンジョンで手に入れた『魔力京野菜』の数々、そして太平洋の深海に眠る新鮮な海鮮類のイメージだった。さらに、五右衛門の亜空間ストレージに豊富にストックされている『スノー・ボア』の極上肉。


「ただの豪勢な料理じゃない。彼らの疲労を抜き、魔力を安定させ、そして『争う気をなくさせる』ほどの一皿だ」


 俺の足元では、五右衛門のバスタブから出てきたポチとクロが、「どうするの?」とでも言いたげに見上げていた。シャワーを浴びて濡れた毛並みが、少しばかり哀愁を誘う。


「……仕方ないな」


 俺は短く息を吐いた。


「引き受ける。だが、厨房のルールは俺が全権を握る。食材の調達からメニューの決定まで、一切の口出しは無用だ。それでいいな?」


 みのりの顔がパァッと明るくなる。


「もちろんよ! ありがとう、悠作!」


 俺はすぐさま、頭を料理人モードへと切り替えた。

 テーブルに置かれた各国のS級たちのリストを手元に引き寄せ、彼らの出身国、属性、魔力体質、そして過去の滞在記録から、味覚の傾向を頭の中で素早く弾き出す。


「アメリカ代表は、豪快な肉料理を好むが、彼らは筋肉量の多さゆえに胃腸に負担をかけやすい。消化酵素を含んだパパイヤやパイナップルを使った特製のマリネ液で『スノー・ボア』の肉を漬け込み、極上の柔らかさに仕上げる必要があるな。イギリス代表のクロエは……あいつは放っておいても勝手に俺の飯を平らげるからいいとして。フランスの代表は味覚が繊細だ。現地の水に文句を言うなら、富士の湧水と深層の『魔力京野菜』から引いた極上のコンソメで黙らせる。中国の代表には、香辛料の暴走を抑え込むための、まろやかな『化け九条ネギ』の白湯スープを合わせよう。中東の代表には、砂漠の熱を癒やす清涼感のあるミントとヨーグルトのソースだ」


 リストを見つめながら、俺の脳内では世界地図と食材が見事にリンクし、何十種類ものレシピが同時並行で組み上がっていく。

 炎属性の魔法使いには、体にこもった熱を優しく逃がすスパイスと柑橘類のソース。氷属性の剣士には、内側から芯を温め、筋肉の強張りをほぐすような煮込み料理。


 作業中、ポケットのスマホが短く震えた。

 画面を見ると、純子からのメッセージだった。


『悠作さん、世界会議の会場となるホテルの周辺地図と、最適な狙撃ポイントを割り出しておきました♡ 各国の代表の動線も完全に把握済みです。もし悠作さんの料理に文句をつける不届き者がいれば、私が即座に『排除』しますね。もちろん、証拠は残しませんから安心してください』


 俺はため息をつき、『気持ちだけ受け取っておく。周囲の警戒だけ頼む』と返信してスマホを伏せた。相変わらず仕事が早いが、物騒すぎる。ケータリングの前に暗殺騒ぎを起こされてはたまらない。


 気を取り直し、俺は愛用の包丁をシンクに用意し、そこに置いた砥石に向かった。

 シュッ、シュッという静かで規則的な音が、部屋に響く。

 この音を聞くと、心が不思議と落ち着くのだ。どんなに厄介なモンスターが相手でも、食材と向き合う時だけは純粋な料理人でいられる。


「師匠ー! ただいまー!」


 玄関のドアが勢いよく開き、山本ゆき子がすずやしずかたちを引き連れて賑やかに帰ってきた。


「うわっ、師匠すっごい気迫! 今日のお昼、そんなに気合い入ったメニューなの!?」


 ゆき子が目を輝かせる。


「悠作、重心が完全に安定しているわね。……何か大仕事の前触れかしら」


 しずかが俺の後ろ姿から鋭く見抜く。


 俺は包丁の刃先を布で丁寧に拭い、振り返った。


「ああ。少しばかり、厄介な客がたくさん来る予定でな。これから数日、俺は仕込みで忙しくなる。悪いが、昼飯は各自で適当に済ませてくれないか」

「ええーっ! 師匠のご飯抜きとか無理っしょ!」

「鈴木さん、私もお手伝いします! 氷魔法で食材の保冷なら任せてください!」

「……栄養価と摂取カロリーの計算なら、私が担当します」


 騒がしい居候たちが、一斉にキッチンに集まってくる。

 瞳までタブレットを取り出して加勢する構えだ。


「ワフン!」

「キュウ!」


 足元では、乾いたタオルで体を拭かれたばかりのポチとクロも、尻尾を振ってやる気をアピールしている。

 俺は小さく笑みをこぼした。


「手伝ってくれるなら助かる。だが、俺の厨房は厳しいぞ」


 ゆき子たちが賑やかに袖をまくり、ポチとクロも嬉しそうに吠える。

 俺は研ぎ終えたばかりの包丁を手に取り、まずは明日からの壮大な仕込みのために、静かに目の前の食材をまな板へと並べ始めた。

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【発売のお知らせ】


いつも本作をお読みいただき、ありがとうございます。


『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されました!


Web版をもとに加筆・修正を行い、書き下ろしなども収録しています。


本作とは別の作品になりますが、ご興味がありましたらぜひチェックしていただけると嬉しいです。


『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿』第1巻、発売中です!


詳しい書籍情報は活動報告をご覧ください。

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