第69話 幻の食材のヒント
換気扇の低い唸りと、ノートパソコンの冷却ファンが吐き出す微かな排熱音が、初夏の生ぬるい夜風に混ざって響いている。
アパート『ひまわり荘』の庭の隅。俺が精魂込めて設営し、完璧な温度管理を行っていたレンガと鉄網の大型BBQコンロは、役目を終えた備長炭が白い灰を被り、チリチリと静かな余熱だけを放っていた。
つい先ほどまで上空から降り注いでいた『ウロボロス』精鋭部隊の焼夷弾による火の粉と、それを放った空中の刺客たちの気配は、もうここにはない。
「……ええ、そうよ。搬送車は裏道に回して。近所からの通報には、深夜のガス管点検とでも言っておきなさい。え? 警察が嗅ぎ回ってる? ギルドの特権で圧力をかけなさい。積み込み完了後、本部の地下尋問室へ直行。骨の髄まで徹底的に吐かせるわ」
スマホを耳に当てた伊藤みのりが、手慣れた様子で、しかし有無を言わせぬ冷酷な声で指示を出している。
庭の芝生に転がっていた黒焦げの襲撃者たち――俺が関節の魔力経路を解体し、ジークが雷撃でトドメを刺した――は、彼女が手配した協会本部の特殊回収部隊によって手際よく拘束され、無言のまま黒塗りのバンへと放り込まれ、連行されていった。
縁側では、山口純子と中村瞳が、捕縛前に彼らから押収した軍用タブレットを2台のノートPCに有線で繋ぎ、凄まじい速度でキーボードを叩いていた。
「暗号化プロトコル、第7層まで突破。……相変わらず、ヨーロッパの裏社会はセキュリティのアップデートが遅いですね。この程度のファイアウォールなら、私の自作ツールで十分です。拍子抜けするくらい」
純子が冷たい目で画面の文字列を追いながら、エンターキーを軽く叩く。
「私の解析アルゴリズムを併用します。偽装されたダミーデータを弾き、最短ルートを構築。あと120秒でマザーデータに到達可能です。……彼らの生体認証ロックも、私の演算でバイパスします」
瞳が眼鏡の位置を直し、人間離れした速度で演算処理のコードを打ち込んでいく。
元裏社会のトップ狙撃手にして凄腕の情報屋と、国立大学の狂気のマッドサイエンティスト。この凶悪なタッグにより、世界的犯罪シンジケート・ウロボロスの機密情報は今まさに丸裸にされようとしていた。
俺はというと、コンロの網にこびりついた豚の脂汚れを金ブラシで無心に落としながら、ようやく訪れた平和な時間の終わりを感じていた。
昨日から手間暇かけて仕込んだバーベキューを堪能し、あとは風呂に入って寝るだけだったというのに、またしても余計な仕事が増えそうだ。
足元では、特製のドライラブをすり込んだダンジョン・ボアのバックリブを限界までたらふく食い、庭を縦横無尽に走り回って存分に遊んだポチと黒い子犬が、俺の足に寄りかかるようにして丸くなり、すうすうと幸せそうな寝息を立てている。時折、夢の中で肉を食っているのか、ポチが「むにゃっ」と口を動かし、クロは時折小さな放電を尻尾から漏らしていた。
「……出ました。ヨーロッパ本部との直通通信ログ。それと、彼らが日本に潜入し、探っていた『真の目標』のデータです」
純子の声に、みのりと加藤茜が画面を覗き込んだ。
「……太平洋?」
みのりが眉をひそめた。
画面に表示されたのは、日本から遠く離れた太平洋のど真ん中。絶海の未踏破海域の座標だった。
「島なんてないわよ、ここ。ただの海じゃない。こんな何もない場所に、ウロボロスの幹部が直々に動くほどの価値があるっていうの?」
「ええ。ですが、彼らの観測データによれば、この海底数千メートルの地点に、未知の超巨大ダンジョンが眠っているとのことです。ウロボロスはそれを『アトランティス』と呼称し、人工的に浮上させる計画を立てているようですわ」
茜が手にした扇子をパチンと鳴らす。
「海底ダンジョンの浮上……。それが目的だっていうの? 海流が変わって大災害になるわよ! また私から平穏な休日を奪う気!?」
みのりが頭を抱えて呻く。
「いいえ、彼らの真の狙いはダンジョンそのものではなく、そこに棲まう『主』のようです」
瞳がタブレットの画面をスワイプし、一枚の不鮮明な画像をモニターに映し出した。
深海の暗闇の中、うっすらと発光する巨大なシルエット。
「ウロボロスの生体研究データによると、神話級の水棲魔物……だそうです」
「ふーん。まあ、海が荒れるなら海上保安庁か、自衛隊の潜水艦部隊でも出動させればいいさ。俺には関係ない」
俺は灰を片付けながら、欠伸混じりに答えた。
陸地のスタンピードならまだしも、海のど真ん中など知ったことではない。定時退社と日々の晩酌を脅かさない範囲の危機なら、どうぞご勝手に、だ。
「……それが、関係あるかもしれませんよ、悠作さん」
純子が、画面のテキストデータを読み上げながら、妙に艶っぽい声を出した。
「この魔物の細胞サンプルを解析したウロボロスの研究員のメモが残っています。『その身は深海の冷水に鍛えられ、透き通るような美しい白身でありながら、大トロを凌駕する濃厚な脂を蓄えている。加熱すれば、伊勢海老のような強烈な甘みと、驚異的な弾力を発揮する……』」
ピタッ。
俺の手から、金ブラシが滑り落ちた。
コンクリートの床に金属がぶつかる高い音が響く。
「……なんだと?」
俺はゆっくりと振り返り、純子のモニターを凝視した。
深海の冷水に鍛えられた透き通る白身。大トロの脂。伊勢海老の甘みと驚異的な弾力。
それは、海鮮の頂点を極めたような、暴力的なまでのキラーワードの羅列だった。脳内でその食材がまな板の上に乗った姿が、鮮明なイメージとして浮かび上がる。
『だ、旦那ァ……! それ、もしかして……!』
背中の風呂敷――五右衛門がブルブルと震える。
俺は急いで五右衛門の収納スペースから、古びた革製の手帳を取り出した。
かつて地下90階層で回収した、俺の師匠・源蔵の遺品。その後半のページ、世界中の未知の食材について書かれた部分を猛スピードでめくる。古ぼけた紙の匂いが鼻を突く。
『太平洋の底。神話の海に、究極の海鮮あり。あらゆる魚介の旨味を凝縮した幻の食材。いつか釣り上げて、最高の舟盛りにしてやる』
記述が、完全に一致した。
俺は手帳をバタンと閉じ、五右衛門の腹に押し込んだ。
「……みのりちゃん」
「な、なに?」
俺の極めて低く、真剣な声に、みのりがビクッと肩を揺らす。
「その『アトランティス』とかいう海鮮市場……いや、海底ダンジョンの討伐隊が編成されるなら、俺をねじ込め。最前列でな」
「はあ!? さっき関係ないって言ったじゃない!」
「状況が変わった。ウロボロスだか何だか知らないが、俺の『幻の食材』を独り占めしようとするなら、容赦はしない」
「切り替え早っ! さっきまでの無気力どこ行ったっしょ!」
山本ゆき子が呆れたようにツッコミを入れるが、俺の耳にはすでに入っていなかった。頭の中は、その巨大な未知の海鮮をどう捌き、どう調理するかというシミュレーションで完全に埋め尽くされている。
「……ですが悠作様。海鮮のお話の直後に恐縮ですが」
茜が、縁側の端に置かれた大きな紙袋を指差した。
「BBQのお肉はすべて消化してしまいましたし、皆様、徹夜明けでそろそろ小腹が空くお時間ではありませんこと? 私が銀座の馴染みの店から、手土産としてお持ちした『パエージャ』がございますの。すっかり冷めてしまいましたが」
「パエージャか。上等だ。海鮮への予行演習にはちょうどいい」
俺は紙袋を受け取り、部屋のキッチンへ向かった。
取り出したのは、直径40センチはある本格的なパエージャパン。
エビ、ムール貝、イカ、アサリがふんだんに乗った、黄金色の豪華なパエージャだ。
だが、高級店の持ち帰りとはいえ、作られてから数時間が経過し、完全に冷めきっている。米は水分を吸って少しべちゃっとしており、魚介の香りも飛んでいた。
これをそのまま電子レンジで温めるなど、料理への冒涜だ。
「……蘇生させるぞ」
俺はキッチンの三口コンロのうち、最も火力の強いバーナーに火をつけた。
パエージャパンをそのまま直火にかける。
まずは弱火。全体に均一に熱が回るのを待つ。耳を澄ませ、米に含まれた水分の飛ぶ音を聞き分ける。
米の間にこもっていた余分な水分が蒸発し、微かに湯気が立ち始めたところで、俺はオリーブオイルのボトルを手に取った。
鍋肌から、上質なエキストラバージン・オリーブオイルをツーッと一回しする。
そして、火力を一気に『強』に引き上げた。
チリチリチリッ!
鍋底でオイルが熱され、米と具材を焼き上げる小気味よい音が弾ける。
パエージャの命は、『ソカレ』と呼ばれるカリカリとした部分だ。冷めて水分を吸った米を、高温の油で再び焼き固めることで、失われた香ばしさと食感を復活させる。
サフランの魅惑的な香りと、エビやムール貝など甲殻類の焼ける匂いが、一気にキッチンに蘇った。
「スープも用意するか」
俺は棚から、買い置きしていた市販の『レトルトの野菜スープ』を取り出した。
温めるだけで手軽に食べられる便利なものだが、今のこの濃厚でパンチのあるパエージャに合わせるには、味が優しすぎて単調だ。
小鍋にスープを開け、火にかける。
ここからが魔改造だ。
生のニンニクを一片、おろし金で細かくすりおろして鍋に投入する。
チューブのニンニクでは出せない、フレッシュで暴力的な香りがトマトスープの熱の中で爆発する。
さらに、粗挽きのブラックペッパーをこれでもかとガリガリ削り入れ、味の輪郭をバシッと引き締めるための岩塩をひとつまみ。
最後に、仕上げのエキストラバージン・オリーブオイルを数滴垂らして火を止める。
単なるレトルトスープが、胃を直接殴りつけるような、パンチの効いた『闘うスープ』へと変貌した。
「できたぞ。熱いうちに食べてくれ」
ちゃぶ台の上に、鍋ごと温め直した黄金色のパエージャと、湯気を立てる赤い野菜スープが並べられた。
「「「いただきます!」」」
徹夜明けの空腹を満たすべく、全員がスプーンを手に取り、パエージャの鍋底を引っ掻く。
ガリッ。
スプーン越しに伝わる、完璧なソカレの感触。
「……んんっ!!」
高橋すずが目を丸くした。
「カリッカリです! レンチンしただけの持ち帰りの味じゃない……! お米の一粒一粒に、魚介の旨味がギュッと濃縮されて、底の焼き目が香ばしくて最高です!」
「エビもプリプリっしょ! サフランの香りが鼻から抜けて、箸が止まんないっしょ!」
ゆき子がムール貝の殻をトング代わりに使って、次々と米をすくい取っていく。
ジーク・ヴァイスは野菜スープを口に含み、ハッと息を呑んだ。
「……このスープ。ただのレトルトだと思っていたが、生ニンニクの鮮烈な香りと、黒胡椒の鋭い刺激が、パエージャの油分を見事に洗い流してくれる……! 攻めと守りが完璧に計算された、兵法のごとき采配!」
「旨味の相乗効果と、香辛料による味覚のリセット……見事な再構築です。これなら、深夜のお腹にも完璧に適応します」
瞳もタブレットを置き、夢中でスプーンを動かしている。
俺はパエージャのソカレを削り取りながら、静かに息を吐いた。
この魚介の旨味の、遥か先。
太平洋の底に眠るという、神話級の海鮮。
「……待ってろよ、アトランティス」
俺はスープを飲み干し、まだ見ぬ極上の食材をどう捌くか、五右衛門の奥に仕舞ってある包丁の手入れを静かに始めた。
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いつも本作をお読みいただき、ありがとうございます。
『実力S級』第1巻が、2026年9月4日に発売されます。
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詳しい書籍情報については、活動報告をご覧ください。
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