第68話 料理人の逆鱗
火の粉が雨のように降り注ぐ中。
「チィッ……!」
俺は舌打ちと共に、足元に置いてあった大きめの鉄製フライパン――ダッチオーブンの蓋代わりにも使う極厚のやつだ――を掴み、網の上のバックリブに覆い被せるようにかざした。
カンッ、バラバラッ!
フライパンの分厚い鉄底で、魔力を帯びた焼夷弾の火の粉が弾け飛ぶ。
だが、すべてを弾ききれたわけではない。俺が対応するコンマ数秒前、ほんの1粒の火の粉が、俺の死角を突いて、完璧に計算されたスパイスの膜――「バーク」の端に触れてしまった。
ジュッ……。
備長炭が爆ぜる心地よい音とは明らかに違う、嫌な焦げ臭さが鼻を突く。
たった1粒。肉の端の、ほんの数ミリ。
だが、3キロの肉の完璧な調和に、致命的な異物が混入した瞬間だった。
「あ」
背後で、縁側に避難したみのりが間の抜けた声を漏らした。
彼女にも見えたのだろう。俺がどれだけこの肉の温度管理に心血を注ぎ、徹夜明けのこいつらの胃袋を満たすために最高の状態に仕上げようとしていたかを。
「……おい」
俺はフライパンを握る手に力を込めた。持ち手の木製部分が、ギリッと不吉な音を立てて軋む。
頭上の上空では、まだホバーリングしている『ウロボロス』の精鋭部隊が、次弾の装填を行っている不快な機械音が響いている。
「俺の肉を……焦がしたな」
普段のダンジョン探索でどれだけ強力な魔物に遭遇しようと、決して波立つことのない俺の感情が、明確な怒りへと沸点を超えた。
「純子」
振り返らずに短く呼ぶと、縁側の影からカチャリと金属の硬質な音が返ってきた。すでに彼女は愛用の対物ライフル『ブラック・ウィドウ』を構え、スコープを覗き込んでいる。
「上空、3機。風防には強固な魔導コーティングが施されています。ですが、出力ノズルの排気口なら貫けます」
「1秒でいい。足を止めろ」
「了解」
純子の声に迷いはない。彼女はすでに「日常を壊す者」に対する暗殺者のスイッチを入れている。
だが、その足元では、「ワフッ?」「キュウ?」と、降ってくる火の粉に怯えるどころか、落ちてきた火の粉を空中でパクっと食べようとしているアホな毛玉が2匹いた。ポチとクロだ。
雷獣の赤ん坊であるクロに至っては、火の粉を電気だと勘違いしている節すらある。
「みのり、茜! その犬どもを家の中に放り込め! 毛が焦げる!」
「わ、わかったわよ!」
「ほら、おいでなさい!」
みのりと茜が、2匹の首根っこを掴んで室内に転がり込む。
その直後、純子の対物ライフルが火を噴いた。
ドンッ、ドンッ、ドンッ!
サイレンサーで極限まで殺された、くぐもった重低音。
空中で不規則にホバリングし、次の絨毯爆撃を狙っていた3つの影が、排気口のピンポイントに特殊弾を撃ち込まれ、ガクンと体勢を崩した。
「上出来だ」
俺は熱を帯びたフライパンを左手に持ったまま、庭の踏み石を強く蹴った。
――【虚空殺】。
空中に漂う微細な魔力溜まりを足場にして、虚空を蹴り上げる。重力という枷を外し、物理法則から外れた軌道で一気に上空へと跳躍する。
「なっ、下から!? 迎撃しろ!」
体勢を崩しながらも、リーダー格らしき男が通信機越しに叫んだ。
彼らが身につけているのは、軍事用の最新鋭フライトユニットと、全身を覆う重厚な強化外骨格。だが、どんなに硬い装甲だろうと、俺には関係ない。
「死ねぇっ!」
右側の男が腕のガトリングを向けてくる。
俺は左手のフライパンを盾のように構え、迫り来る魔弾をパーンッ! とテニスの要領で弾き返した。極厚の鉄と魔力が衝突し、強烈な火花が散る。
弾き返した衝撃を利用して空中で鋭くターンし、そのまま1番手前の男の懐に滑り込んだ。
右手には、使い古したサバイバルナイフ。
「関節が、甘い」
ヒュンッ。
音すらない一閃。
強化外骨格の肩の可動域。装甲が重ならない、わずか数ミリの隙間。
そこにナイフの刃先を滑り込ませ、駆動系の魔力ケーブルと人工筋繊維を正確に「切断」する。
「がっ……!? 腕が……動か……!」
男が驚愕する間もなく、俺はすでに次の部位へ刃を走らせていた。
膝の関節、フライトユニットの接続ジョイント。
人を斬るのではない。ただの機械のパーツを分解し、無力化するだけだ。
「次」
男のユニットが沈黙し、重力に引かれて落下し始めるのを尻目に、俺は空中で体勢を反転させ、2人目、3人目へと肉薄する。
『バカな、空中で軌道を――』
言葉の途中で、2機目のフライトユニットのメインスラスターがナイフで削ぎ落とされる。
『撃て! 構わん、撃て!』
3機目が自暴自棄に散弾を乱射する。
俺は落下する2機目の装甲を蹴って加速。魔弾の雨をフライパンで弾きながら、あっという間に3機目の背後に回り込んだ。
「うるさい」
首筋の装甲の隙間に、ナイフの柄を力強く叩き込む。
神経束への強烈な物理的衝撃。
『あ……』
白目を剥いて意識を刈り取られた男が、そのまま空の彼方へ……とはいかない。
住宅街のど真ん中でこんな数百キロもある鉄の塊を墜落させたら、家屋が潰れて大惨事になる。
俺は気を失った3人を空中で手早くまとめ、左手のフライパンで彼らのフライトユニットの補助スラスターをガツンと叩いて強制起動させた。
推力ベクトルを下向きから斜め上向きに強引にずらし、落下速度を相殺する。
ズズズンッ……!
庭の隅、BBQコンロから離れた芝生の上に、3人の装甲兵が重なるようにして墜落した。
気絶したまま、ピクピクと痙攣している。
俺は最後に、ふわりと音もなく彼らの隣に着地した。
刃には1滴の血もついていない。命を奪うことすらない、完璧な「空中解体」だ。
「……はぁ」
短く息を吐き、ナイフを鞘に収める。
左手のフライパンは、魔弾を弾いた衝撃と熱で少し歪んでしまっていた。
「愛用品だったんだがな……。後でこいつらに弁償させよう」
そう呟きながら振り返ると、縁側からみのりと純子が、信じられないものを見るような顔で俺を見ていた。
「……あんた、フライパン片手に空飛んで、精鋭部隊を3秒でバラしたわよ。いくらなんでも人間やめすぎじゃない?」
「流石は悠作さん……フライパン捌きも世界一ですね♡ あの装甲兵になりたいです……」
呆れるみのりと、頬を染めて謎の感動をしている純子。
その足元、開け放たれた網戸の隙間から、2つの毛玉が転がり出てきた。
「ワフッ! ワフワフッ!」
「キュウッ!」
ポチとクロだ。
彼らは上空での戦闘など全く気にしていなかったようで、先ほどクロが引きちぎったケブラー繊維のロープの残骸を咥え、引っ張り合いをして遊んでいる。
ウー、と唸りながら本気でロープを引っ張るポチ。
負けじと小さな体を踏ん張るクロ。
2匹の周りには小さな魔力のスパークが散り、無邪気な遊びがちょっとした災害レベルになりかけている。
「お前らなぁ……」
俺はひしゃげたフライパンを置き、2匹の首根っこを軽く摘み上げた。
「キュン!?」
「今危なかったんだぞ。火の粉食おうとしてたろ、バカ犬ども」
少し低めの声で叱ると、2匹はビクッと体を震わせた。俺の顔を見て「ヤバい、本気で怒られた」というように耳をペタンと伏せる。
そして、空中でジタバタするのをやめ、されるがままにだらんと手足を伸ばした。
「反省してるのか?」
「……クゥン」
「……キュウ」
申し訳なさそうに上目遣いで見てくる2匹。
フェンリルと雷獣のくせに、叱られた子犬そのものの顔をするのは卑怯だ。
ため息をついて縁側に下ろしてやると、2匹はそそくさと部屋の隅っこに移動し、重なり合うようにして丸くなった。
よほど遊び疲れていたのか、それとも怒られて拗ねたのか。
数秒後には「スースー」と、静かで規則正しい寝息が聞こえ始めた。
「……切り替えの早い奴らだ。まあ、怪我がなくて何よりだが」
さて、と。俺は気を取り直してBBQコンロに向き直った。
火の粉による被害はフライパンの防御で最小限に抑えたが、やはり肉の端、数ミリほどが黒く炭化してしまっている。
俺はナイフを抜き直し、その焦げた部分だけをミリ単位の精度で薄く削ぎ落とした。
「あーあ、せっかくのバークが」
「……悠作。それ、まだ食べられるわよね?」
背後から、みのりが切実な声で聞いてくる。
彼女の目は、気絶している襲撃者たちには一切向いていない。ひたすら網の上の肉にロックオンされている。
「安心しろ。中まで火は通ってる。リカバリーは可能だ」
俺は小瓶を取り出し、特製のドライラブ(粉末スパイス)を焦げを削ぎ落とした部分に指で優しくすり込んだ。
パプリカパウダー、ガーリック、黒胡椒、そしてブラウンシュガーなどを独自に配合したそのスパイスが、肉の温度で再び熱反応を起こす。
そして、ハケで薄くオイルを塗り、表面の温度を再び均一に引き上げていく。
ジワァッ……と、再び香ばしい匂いが立ち上り始める。
「よし。……切り分けるぞ」
分厚い骨付き肉の間に刃を滑り込ませる。
表面はカリッと香ばしく、内側には見事なピンク色のスモークリングが形成されていた。
骨からホロリと外れそうなほど柔らかい肉の断面から、閉じ込められていた肉汁がキラキラと溢れ出す。
「うわぁ……!」
「なんて美しい断面……!」
みのりと純子が、おしぼりで手を拭きながらちゃぶ台に陣取った。着替えを終えてリビングに戻ってきたゆき子も、「マジか! 匂いヤバい!」と目を輝かせている。
俺は切り分けたバックリブを大皿に盛り、彼女たちの前に置く。
「手掴みでいけ。熱いから気をつけろよ」
「いただきますっ!!」
女性陣は無言で骨を掴み、野獣のように肉に喰らいついた。
「んんっ……!!」
みのりが目をひん剥き、口元を脂でテカらせながら身悶えする。
「やばい! なにこれ、めちゃくちゃ柔らかい! スパイスがガツンと来るのに、豚肉の脂が甘くて……!」
「美味しい……っ! 噛まなくても口の中で解けていきます! 悠作さんの指ですり込まれたスパイスが、最高のエッセンスになってます……!」
相変わらず純子の感想はどこかズレているが、味に満足していることは間違いない。
「うっま!! なにこれ、焦げを落としたのにスパイスの香りがお肉の中まで染み込んでて最高っしょ!」
ゆき子も骨にしゃぶりつきながら絶賛している。
「豚の脂の甘みがガツンと来て、もう手が止まんないっしょ!」
俺も1本手に取り、かぶりつく。
……うん。焦げを削ぎ落としたリカバリーも完璧だ。
スモーキーな香りと、ダンジョン・ボア本来の野性味。ブラウンシュガーのほのかな甘みとパプリカの風味が、絶妙なバランスで口の中で弾ける。
「美味いな」
俺は満足してビールを煽った。
キンキンに冷えた炭酸が、スパイスで熱くなった喉を爽快に洗い流していく。
その横で、茜が扇子を揺らしながら、庭に転がっている気絶した男たちを見下ろしていた。
「……それにしても、ウロボロスの精鋭部隊を一瞬でゴミクズにしてしまいましたわね。彼らを差し向けた幹部が知ったら、顔面蒼白になるでしょうに」
「知るか」
俺は2本目のバックリブに手を伸ばしながら、吐き捨てるように言った。
「俺の休日を邪魔し、あまつさえ俺の肉を焦がそうとした罪は重い。……どこの幹部か知らないが、残業代はきっちりむしり取ってやる」




