第67話 空からの強襲
白く灰を被った備長炭が、チリ、と微かな音を立てて熱を放っている。
アパート『ひまわり荘』の庭の隅に設営された、レンガと鉄網で組まれた大型のバーベキューコンロ。その網の中央では、本日のメインディッシュである『ダンジョン・ボアのバックリブ』が圧倒的な存在感を放ちながら、静かに「その時」を待っていた。
遠火でじっくりと燻すように火を通すことで、重量3キロを超える極上の骨付き肉の表面には、スパイスが熱反応を起こした見事な「バーク」が形成されつつあった。その内側には、スモークリングと呼ばれる美しいピンク色の層ができているはずだ。
じわじわと熱が加わることで、肉の繊維に閉じ込められていた豚の脂が溶け出し、網の下へと滴り落ちていく。
ジュワッ。
赤く燃える炭に脂が触れて爆ぜる、小気味よい音。
同時に、パプリカやガーリックなどのスパイシーな香りと、野性味あふれる脂の甘い匂いが、初夏の生ぬるい風に乗って庭全体へと広がった。
「ああっ……たまんない……」
「匂いだけで、白いご飯が何杯でもいけそうです……」
縁側に並んで座っていた伊藤みのりと山口純子が、うわ言のように呟いた。
ウロボロスの情報解析で徹夜明けとなり、朝から死んだ魚のような目をしていた二人だが、今は明確な生気と、獰猛な食欲の光がその瞳に灯っている。
その横では、山本ゆき子がハンディファンを顔に当てながら「早く、早く……」と念仏のように繰り返し、高橋すずがいつでも皿とフォークを構えられるよう手元で待機していた。
俺は、トングで肉を軽く押し、その弾力から焼け具合を慎重に確認した。
温度管理は完璧だ。あと10分弱。肉の中心温度が理想の数値に達すれば、最高の状態で切り分けることができる。
「よし。俺はちょっと煙から離れる。すず、火の番を頼めるか。絶対に触るなよ」
「はいっ! 氷結魔法でいつでも消火できるよう待機します!」
「消火するな。見張ってるだけでいい」
俺は手元の缶ビールを持ち、コンロの熱気から逃れるように、アパートの裏手にある小さな自販機スペースへと向かった。
室外機の低い唸り音が聞こえる薄暗いスペースだが、夕暮れの風が通り抜けて心地よい。火照った顔を冷ましながらビールを一口煽ると、背後から静かな足音が近づいてきた。
「……隣、いいかしら」
振り返ると、山田しずかが立っていた。
いつも背負っている冷蔵庫サイズの鋼鉄製コンテナはない。Tシャツにデニムというラフな格好で、手には冷えたスポーツドリンクのペットボトルを持っている。
「どうした。肉の番から離れていいのか」
「すずちゃんたちが目を光らせてるから、私が入る隙間なんてないわ。それに……少し、貴方と話したかったから」
しずかは自販機の横に置かれた古いベンチに腰を下ろし、隣をポンと叩いた。
俺も黙ってその隣に座る。
コンテナを背負っていない彼女は、当然だがただの長身でスタイルの良い女性だ。S級探索者としての刺々しいプレッシャーは身を潜め、どこか柔らかな雰囲気を纏っていた。
「……なんか、変な感じね」
ペットボトルのキャップを開けながら、しずかがぽつりと漏らした。
「何がだ」
「こうして、荷物も背負わずに貴方の隣に座っているのが。私、ずっと『S級のポーター』として振る舞ってきたから、ただの山田しずかとして誰かの隣にいるのって、すごく久しぶりなのよ」
彼女はスポーツドリンクを一口飲み、夕焼けに染まる空を見上げた。茜色の雲が、風に流されてゆっくりと形を変えている。
「ポーターとしての役割がないと、自分がここにいていいのか、不安になるか?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ肩をすくめた。
「最初はそう思ってたわ。でも、今は違う。貴方のおかげで、荷物を下ろして深呼吸する時間も悪くないって、そう思えるようになったの」
しずかは少しだけ照れたように微笑み、俺の顔を覗き込んだ。
「……ねえ、悠作。お肉を食べ終わったら、少しだけ二人で夜の散歩に行かない? 駅前のスーパーまで明日の朝食の買い出しに行くって言ってたでしょ。私が付き合うわ。荷物持ちとしてじゃなくて……その、ただの同行者として」
それは不器用な彼女なりの、精一杯の誘いだった。
「買い出しにただの同行者ってのも変な話だが……まあ、いいさ。アイスでも奢ってくれるならな」
俺が答えると、しずかはフッと吹き出し、心底嬉しそうな笑顔を見せた。
「ええ、もちろんよ。S級の稼ぎを舐めないで」
並んで座る肩と肩の距離が、ほんの少しだけ縮まった気がした。
初夏の夕暮れ、心地よい風。完璧な肉の焼き上がりを待つ、静かで穏やかな時間――。
「……あらあら。せっかくの甘い雰囲気を壊してしまうようで、心苦しいですわね」
ふと、甘い香水と、少しだけ危うい気配が鼻先を掠めた。
いつの間にか、和装の魔女・加藤茜が自販機の陰に立っていた。手にした扇子で口元を隠し、艶やかな微笑みを浮かべている。
「何の用だ。肉ならまだ焼けてないぞ」
「いえ、お肉の前に少しだけ耳に入れておきたいことがありまして。しずか様も、聞いておいて損はないかと」
しずかがスッと表情を引き締め、S級の顔に戻る。茜は声を潜め、口を開いた。
「みのりさんたちが追っていた品川の物流倉庫の件……裏で糸を引いている幹部の一人が、数日前にヨーロッパから日本に入国した記録を確認しましたの」
「……幹部が直接か。ただの残党狩りじゃ済まなくなりそうだな」
「ええ。彼らは『蛇の目』が残した地下ルートを完全に掌握しようとしています。そして、その過程で、かつて『蛇の目』を壊滅させた貴方の存在に、間違いなく気づいているはずですわ」
茜の言葉に、俺は缶ビールの残りを飲み干した。
平穏な日常を脅かす、目障りな火種。それが海を越えて本格的にやってきたというわけだ。
「面倒なことになりそうだな」
俺がため息をついた、その時だった。
足元で丸くなっていたポチと、黒い子犬が、同時に弾かれたように立ち上がった。
二匹は上空を見上げ、首の毛を逆立てて低く、重い唸り声を上げている。
「……茜、しずか、下がれ」
俺は空のビール缶を握り潰し、腰のサバイバルナイフに手を伸ばした。
しずかは即座に迎撃態勢をとり、茜も無言のまま後方へ跳んで距離を取る。
ヒュオオオオォォォォンッ!
空気を切り裂く、異質な風切り音が庭に降り注いだ。
見上げた夕暮れの空。赤く染まった雲の切れ間から、複数の黒い影が猛スピードで降下してきていた。
魔導グライダーによる空挺降下だ。全身を特殊な黒の装甲服で覆った、五人の部隊。その胸元には、蛇が輪を描く『ウロボロス』の紋章が刻まれている。
先ほど茜が口にしていた火種そのものが、今まさに頭上に迫っていた。
『ターゲット確認。熱源反応、庭のバーベキューコンロ周辺に密集。……焼き払え』
上空から、無機質で冷徹な通信音声が漏れ聞こえた。
降下部隊の先頭にいる男が、巨大な筒状の魔導火炎放射器を真っ直ぐに下へ向けて構える。銃口の奥で、圧縮された魔力がオレンジ色の極光となって膨れ上がるのが見えた。
その射線の先にあるのは、俺ではない。
俺が昨日から念入りに下味をつけ、今まさに完璧な状態に仕上がろうとしている、極上のバックリブだ。
「……おい」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、地の底を這うように冷たかった。
「その肉に手を出したら、どう落とし前をつける気だ」
ゴォォォォォォォォッ!!
俺の警告など意に介さず、上空から摂氏数千度に達する極太の魔力炎が吐き出された。
庭の空気が一瞬にして沸騰する。縁側にいたみのりたちが、突如として降り注いだ異常な熱波にハッと息を呑み、顔を腕で覆った。
だが、その炎が地上に届くより早く、俺はコンロの前に立ち塞がっていた。
ナイフを抜く。
――封印解除。【虚空殺】・奥義【無尽解体】。
空中の「見えない線」をなぞるような、静かで正確な一閃。
俺の刃が空間を滑った瞬間、頭上から降り注いでいた猛烈な炎の滝が、まるで透明なガラスの天井に衝突したかのように、真っ二つに割れて左右の空間へと散らされた。
「なっ……炎を、斬った……!?」
上空の男が驚愕の声を上げる。俺は炎を構成する魔力の結節点と、燃焼に必要な酸素の供給経路を「解体」しただけだ。
しかし。
炎そのものは斬り裂き、直撃は免れたものの、相手は殺戮に長けた精鋭部隊だった。
『甘い! 2番機、3番機、散弾を撃ち込め!』
分断された炎の奥から、後続の部隊が小型の魔導焼夷弾をパラパラと絨毯爆撃のようにばら撒いた。
俺のナイフの射程外から放たれた無数の火の粉が、コンロの周囲に降り注ぐ。
俺はナイフを振るって空中の焼夷弾を次々と叩き落としたが、その着弾によって生じた強烈な爆風と、超高温の熱波までは斬ることができなかった。
ボフゥッ!!
熱風がコンロを包み込む。
俺は背を向けて肉を庇おうとしたが、間に合わなかった。
「…………あ」
俺の口から、間の抜けたような声が漏れた。
ゆっくりと振り返り、網の上を見る。
そこには、残酷な現実があった。
昨日から手塩にかけて育て、完璧なキツネ色の「バーク」を形成していたバックリブの表面。
それが、上空からの想定外の輻射熱と火の粉を浴びたことで、無惨にも真っ黒に炭化し、ボロボロの灰となって崩れ落ちていた。
閉じ込められていたはずの肉汁は無駄に蒸発し、絶妙なバランスで配合したスパイスの香りは、ただの焦げ臭い煙へと変わって空に消えていく。
俺の、肉が。
「アタシの肉を焦がす気っしょ!!」
縁側から、ゆき子が激怒して飛び出そうとした。
純子が対物ライフルを取り出そうとし、ジークが腰の剣に手をかける。
だが、彼らの動きは次の瞬間にピタリと止まった。
「……待て。動くな」
ジークが、額に冷や汗を浮かべながらゆき子の肩を掴んで制止した。
彼の視線は上空の敵ではなく、コンロの前に立ち尽くす俺の背中に向けられている。
「……あれは、俺たちが手を出していい領域じゃない」
庭の温度が、急激に下がっていくような錯覚。
いや、錯覚ではない。俺の中から無意識に漏れ出した冷たく重い殺気が、初夏の生ぬるい空気を物理的に凍らせていた。
ポチとクロでさえ、俺の背中から放たれる異常なプレッシャーに怯え、縁側の下へと身を隠している。
俺はナイフを、カチャリと静かに鞘に収めた。
こんな小さな刃物では、今のこの腹の底から湧き上がる真っ黒な感情を処理しきれない。
俺は背中の五右衛門に手を突っ込み、ひとつの調理器具を引き抜いた。
柄から先端まで全てが分厚い鋳鉄で打たれた、重厚で巨大な黒光りするスキレット。
それを右手にだらりと下げたまま、俺はゆっくりと上空を見上げた。
夕焼け空を我が物顔で飛び回る、黒い装甲の五人。
俺の平穏を脅かし、あまつさえ、俺が心血を注いだ極上の肉を炭に変えた、万死に値するゴミども。
「……落とす」
俺の口からこぼれたのは、ただそれだけの、短い宣告だった。




