第65話 休日のバーベキュー準備
換気扇の低い唸りと、ノートパソコンの冷却ファンが吐き出す微かな排熱音。
日曜日の朝、午前8時。アパート『ひまわり荘』の203号室には、徹夜明け特有の重く澱んだ空気が滞留していた。
ちゃぶ台の上には、空になったコーヒーカップがいくつか転がり、昨夜の『ウロボロス』に関する資料が散乱している。画面には、海外口座を経由した複雑な資金洗浄のダミー会社の相関図が表示されていたが、その繋がりは途中で幾重にも途切れていた。
画面を睨み続けていた伊藤みのりが、限界を迎えたように深く息を吐き、キーボードに突っ伏した。
「……ダメ、頭が回らない。末端のダミー会社が多すぎて、本丸の資金ルートが特定できないわ……」
「お疲れ様です、みのりさん。私も、通信ログの解析は一旦ここで区切ります。これ以上は追跡してもノイズが多くて」
隣で目をこすりながら、山口純子がタブレットの電源を落とした。彼女の目元にも薄く隈が浮き、普段の隙のない美少女スマイルは完全に鳴りを潜めている。
部屋の隅で、俺、鈴木悠作は黙ってその様子を眺めていた。
窓を開ける。生ぬるい初夏の風が流れ込み、部屋にこもっていたコーヒーの酸化した匂いや、電子機器の熱っぽさを少しだけ薄めた。
「……一旦、忘れろ」
俺は窓際に立ったまま、短く言った。
みのりが顔を上げ、恨みがましい目を向けてくる。
「忘れろって……あんた、事の重大さわかってる? 相手はあの『蛇の目』を吸収した巨大組織よ。もしかしたら、もう次の刺客がこのアパートの周辺に……」
「腹が減ってる時に難しいことを考えても、良い結論は出ない。それに、徹夜明けの脳みそじゃ、ろくな判断ができないだろ。昨日の夜に決めた通り、今日は庭にコンロを出して肉を焼くぞ」
俺は背中の五右衛門に手を突っ込み、ストックされている食材のリストを頭の中で弾き出した。
昨夜は鯛めしを食ったが、あれからずいぶん時間が経っている。頭脳労働で糖分を消費し尽くした彼女たちの胃袋は、すでに次の強力な燃料を求めているはずだ。
「炭の残りが少なかったから、ちょっとホームセンターまで買い出しに行ってくる。お前らはシャワーでも浴びて、少し寝てろ」
俺がそう宣言すると、奥のふすまが勢いよく開き、派手なジャージ姿の山本ゆき子が飛び出してきた。
「おっ、ついにBBQっしょ! 早起きした甲斐があったー! アタシも行く、買い出し!」
「私もお供するわ。重い荷物があるなら、私の出番ね」
いつの間にか起きていた山田しずかが、腕を組みながらゆき子の後ろに立っていた。相変わらず、無地のタンクトップからは鋼のような上腕二頭筋が覗き、朝から漲るエネルギーを隠しきれていない。
「わかった。ゆき子としずかは付き合え。……みのりと純子は、少し休んどけ。肉が焼けたら呼ぶ」
「……もう、あんたってば、本当にマイペースなんだから。わかったわよ、お言葉に甘えるわ」
みのりが苦笑交じりに背伸びをした。純子も「ありがとうございます、悠作さん。楽しみにしてますね」と、少しだけ表情を和らげた。
重苦しかった部屋の空気が、肉を焼くという単純かつ強力な予定によって、ほんの少しだけ日常のそれに引き戻されたのを感じた。
★★★★★★★★★★★
日曜日の朝のホームセンターは、家族連れやDIYに勤しむ客でそこそこ賑わっていた。
俺たちはアウトドア用品のコーナーへ向かい、巨大なカートを押しながら必要なものを物色していく。
「師匠〜! この『七色に光る魔法の着火剤』ってやつ、めっちゃ面白くない!? あと、この異常に長いマシュマロ焼き用の串も買おうよ!」
「いらん。着火剤に変なケミカル品を使うと、肉に不自然な匂いが移る。着火剤は普通のパラフィン系でいい。マシュマロは普通の竹串で十分だ」
ゆき子が持ってきた謎のアウトドアグッズを棚に戻させ、俺は一番オーソドックスな木炭の箱を指差した。
「しずか、その10キロ入りのオガ炭、2箱頼む。火の持ちがいいからな」
「2箱? 遠慮しなくていいのよ、悠作。あそこのパレットに乗ってる業務用30キロを3袋くらい、まとめて運んであげるわ」
しずかが、フォークリフトで運ぶような巨大な炭の袋の山に片手をかけようとする。
「やめろ。うちは焼き肉屋じゃないんだ。10キロ2箱で十分だ」
「……そう? まあ、あなたがそう言うなら」
しずかは少し不満そうに、10キロの段ボール箱を片手で軽々と持ち上げ、カートの中にポンと置いた。箱の底が抜けるのではないかとヒヤヒヤしたが、彼女の力加減は正確無比だった。
必要な炭と網、トング、紙皿などを揃えた後、ふとペット用品のコーナーが目に入った。
俺の足元では、小型モードに圧縮されたポチと、京都から連れ帰った黒い子犬のクロが、並んで尻尾を振っている。
最近、この二匹はアパートの柱を齧ったり、スリッパを振り回したりと、破壊的なエネルギーを持て余しているようだった。
「お前らにも、何か買ってやるか」
俺は犬用の玩具が並ぶ棚を物色した。普通のフリスビーや音の鳴るぬいぐるみでは、秒で粉砕されるのは目に見えている。
選んだのは、大型闘犬用と書かれた『耐荷重1トンのケブラー繊維入りロープ』と、『絶対にパンクしない特殊強化ゴムボール』だ。少々値は張ったが、数日で壊されるよりはマシだろう。
★★★★★★★★★★★
アパートに帰り着くと、中庭にあたるスペースでは、すでにクロエがメイド服姿で完璧な掃き掃除を終えていた。
物干し竿が邪魔にならない位置へ片付けられ、簡易的なテーブルと椅子が、風向きを計算された絶妙な配置で並べられている。
「おかえりなさいませ、悠作様! 設営準備は完了しております。煙が近隣へ行くのを防ぐための風除けも設置済みですわ!」
「おう、ご苦労さん」
俺は買ってきたコンロを組み立て、炭を配置していく。
その間、ポチとクロには買ってきたばかりの玩具を与えた。
「ほら、お前らのおもちゃだ。これで遊んでろ」
俺がゴムボールとロープを投げると、二匹は目を輝かせて飛びついた。
まずはクロが、赤い特殊強化ゴムボールに食らいつく。
「キャンッ!」
小さな角を持つ黒い子犬がボールを噛みしめた瞬間、パァン! という甲高い破裂音が響いた。
『絶対にパンクしない』はずの特殊ゴムは、雷獣の赤ん坊の鋭い牙と、無意識に漏れ出た微弱な雷撃によって、一瞬にしてただの黒いゴムの破片へと成り果てた。
「……あー」
クロが「あれ?」という顔で、口から落ちたゴムの破片を見つめている。
一方、ポチはロープの端を器用に咥え、得意げに尻尾を振っていた。クロが破片を諦め、ロープの反対側に噛み付く。
「ワフゥ!(引っ張り合いだ!)」
「グルルル……!(負けないぞ!)」
二匹の綱引きが始まった。
ポチが四つ足でグッと踏ん張る。地面の土がメキッと音を立てて抉れ、小さなクレーターができる。
クロが負けじと後退りする。その小さな体の表面に、バチバチと青白い火花が散り、空気が焦げるような匂いが漂う。
ギリィッ……メキャッ!
嫌な音がした直後、ケブラー繊維で編み込まれたはずのロープが、中央から見事に千切れ飛んだ。
反動でポチとクロが後ろにひっくり返る。
「ワフッ?」
「クゥン……」
二匹は起き上がり、真っ二つになったロープを交互に見比べた後、しょんぼりと耳を伏せて俺を見上げてきた。
「……5分もたなかったな」
俺は苦笑しながら二匹の頭を撫でてやった。
普通の犬なら一生遊べる頑丈な玩具でも、フェンリルと雷獣の力には耐えられなかったらしい。怪我がなかっただけ良しとしよう。
「師匠ー! コンロできた? お腹ペコペコなんだけど!」
縁側から、着替えたゆき子が顔を出した。その後ろには、少し寝癖のついたみのりと、髪を後ろでラフに束ねた純子の姿もある。
少しだけ仮眠をとれたのか、先ほどまでの重い空気は消え、代わりに明確な食欲が彼女たちの顔に浮かんでいた。
「今から火を熾すところだ。ちょっと待ってろ」
俺は着火剤に火をつけ、組み上げた炭の下に忍ばせた。
パチパチと音を立てて、炭が赤く染まり始める。白い煙が立ち上り、木炭特有の香ばしい匂いが庭に広がった。
「火熾しなら、私の剣で一瞬で――」
「やめろジーク。お前の雷撃を入れたら炭が木端微塵になる。おとなしく座って待ってろ」
いつの間にか黒いシャツ姿で庭に降り立っていたジークを制止し、俺は五右衛門の保冷スペースから、今日のためのメイン食材を取り出した。
分厚いパラフィン紙を剥がすと、そこには巨大なブロック肉が鎮座していた。
『ダンジョン・ボア』のバックリブ。背中側の骨付き肉だ。赤身と脂身のバランスが良く、炭火でじっくり焼くBBQには最適な部位である。
まずは下処理だ。骨の裏側についている薄い膜の端にナイフの先を滑り込ませ、ペーパータオルで滑らないように掴み、一気に剥がし取る。これを残すと焼いた時に硬くなり、スパイスの味も中まで染み込まない。
次に、あらかじめボウルで調合しておいた『ドライラブ』を、肉の表面にたっぷりとすり込む。
パプリカパウダーの鮮やかな赤、ブラウンシュガーのコクのある甘み、粗挽きの黒胡椒、ガーリックパウダー、オニオンパウダー、そして隠し味のエキゾチックなクミン。
甘さとスパイシーさが混ざり合った香りが、まだ焼いてもいないのに食欲を強烈に刺激する。
「うわぁ……すごい匂い。これ、絶対美味しいやつだ」
「……脳の報酬系が直接刺激されています。この香りだけで、ご飯が食べられそうです」
縁側に座り込んだすずと瞳が、堪えきれないように涎を飲み込む音をさせた。
炭の火力が安定し、全体が白く灰を被った状態になったのを確認する。
コンロの片側に炭を集め、もう片側には炭を置かない『ツーゾーン・ファイア』を作る。直火で表面を香ばしく焼いた後、火の無い方へ移して蓋をし、じっくりと中まで火を通すためだ。
「よし、焼くぞ」
網の最も熱い部分に、スパイスを纏った巨大なバックリブを乗せた。
ジュワァァァァァァッ!!
肉の脂が落ち、熱せられた炭に当たって爆ぜる。
立ち上る白い煙と共に、スパイスが焦げる圧倒的なまでに食欲をそそる香ばしさが、アパートの庭を完全に満たした。
「……最高」
みのりが冷えた缶ビールのプルタブを開け、プシュッという小気味よい音を響かせた。
炭火の爆ぜる音と、肉が焼ける匂いだけが、初夏の庭に広がっていく。




