第64話 世界的シンジケート『ウロボロス』
換気扇の低い唸り音が、網戸越しの生ぬるい風の音と混ざり合い、静まり返ったリビングに響いている。
窓を全開にしても、先ほどの「麻婆豆腐による尋問」で充満した強烈なスパイスの香りは、古いアパートの壁紙にうっすらと染み付いて残っていた。
床に転がっていた始末屋たちは、すでに協会本部の特殊部隊によって無造作に回収され、運び出されている。
残されたちゃぶ台の上には、数台のノートパソコンとタブレットが広げられ、純子とみのりが険しい表情で画面の文字列を追っていた。
「……裏は取れました。品川の第4物流倉庫。所有しているフロント企業の名は『東都海運』。表向きは東南アジアからの輸入雑貨卸ですが、裏の資金繰りの流れが完全に黒です。ダンジョン産アイテムの違法流通ルートのハブとして機能しているようですね」
純子がキーボードを叩きながら、モニターの光を反射する冷徹な瞳で報告する。
「協会のデータベースとも照合したわ。最近、東京湾沿岸部の流通網で不可解な買収や脅しが頻発していたけど、全部そこと繋がっている。……『ウロボロス』、ね。ヨーロッパを拠点にする巨大犯罪シンジケート。まさか日本にまで本格的に根を張ろうとしているなんて」
みのりがタブレットを置き、こめかみを強く揉んだ。その顔には、連日の対応による深い疲労が色濃く滲んでいる。
俺はベランダの窓際に座り、2人の報告を黙って聞いていた。
足元では西日の当たるフローリングの上で、2つの毛玉が転げ回っている。
バレーボール大の白いフェンリル、ポチ。そして、京都のダンジョンで拾ってきたソフトボール大の真っ黒な子犬、雷獣の赤ん坊だ。
ポチは先輩風を吹かすように短い尻尾を振りながら、黒い子犬の頭をペロペロと舐めている。
しかし、雷獣である黒い子犬の頭には小さな1本の角が生えており、そこから常に微弱な魔力が漏れ出ている。ポチの舌が触れるたびに「バチッ」と青白い静電気が弾け、その度にポチは「ワフッ!?」と体をビクつかせているのだが、それでも毛づくろいをやめようとしない。
黒い子犬の方も、ポチの胸元のフワフワした毛に顔を埋め、安心しきったように「キュゥ……」と喉を鳴らしている。
ポチが自分のテリトリーである座布団の端を前足でポンポンと叩いて「ここを使え」とばかりに促すと、黒い子犬は短い足でよじ登り、ポチの脇腹にぴったりとくっついて丸くなった。京都の苛酷な環境で生き抜いてきた小さな命が、こうして安全な場所で微睡んでいる姿を見ると、あの出張も無駄ではなかったと思える。
「……そういえば、悠作」
不意にみのりがこちらを向いた。
「その黒い子の名前、どうするの? ポチちゃんみたいに、何か名前をつけてあげないと。協会への『従魔登録』にも必要だし」
みのりの言葉に、部屋にいた女性陣――すず、ゆき子、しずか、瞳――が1斉にこちらを見た。
「あー……名前か」
俺はあぐらをかいた膝に肘をつき、黒い子犬のつぶらな瞳を見下ろした。
漆黒の毛並みに、金色の小さな瞳。雷を操る魔獣。
「クロ、だな」
俺が即答すると、見事なまでの静寂が数秒間、部屋を支配した。
「「「安直!!」」」
すずとゆき子、そしてみのりが同時に声を揃えた。
「師匠! もうちょっと捻りとかないわけ!? 漆黒の雷使いなんだから、『シヴァ』とか『ライトニング・シャドウ』とか!」
「ゆき子ちゃん、それも大概痛いわよ。……でも、せめて京都で拾ったんだし、『クロミツ』とか『ヤツハシ』とか、響きの可愛いのにしたらどうですか?」
「音の響きや意味合いが個体のアイデンティティ形成に及ぼす影響を考慮すると、より固有性の高い音声記号を……」
外野がピーチクパーチクと騒ぎ立てる。
だが、俺が足元の黒い子犬の頭を撫で、「お前は今日から『クロ』だ」と声をかけると、子犬はピンと耳を立てて俺の指先を甘噛みした。
「キャンッ!(クロ!)」
隣でポチも「ワフッ!(俺の弟分のクロだ!)」と誇らしげに胸を張っている。角から漏れる静電気がフローリングに落ちて小さな火花を散らしているが、2匹はそんなことはお構いなしにじゃれ合っていた。
「ほら、本人たちも気に入ってる。これで決定だ」
俺が言うと、女性陣は「まあ、本人がいいなら……」「クロちゃん……響きは可愛いわね」と、あっさりと陥落して悶絶し始めた。
「……それより」
俺は立ち上がり、ちゃぶ台の上のタブレットに視線を落とした。
「ウロボロス、か」
その名前に、俺の脳裏の奥底で何かが引っかかっていた。ただの犯罪組織の名前ではない。もっとずっと昔、俺がまだ駆け出しの荷物持ちだった頃に、聞いたことがあるような……。
俺は自室に向かい、押し入れの奥に保管してある木箱を取り出した。
中に入っているのは、師匠である源蔵の遺品だ。古びた調理器具と、1冊の革張りの手帳。先日、京都から帰ってきた時に中身を確認した、あの手帳だ。
使い込まれた革の表紙は手の脂で黒光りしており、ページをめくると古い紙と微かなスパイスの匂いがする。
リビングに戻り、ちゃぶ台の上に手帳を置く。皆が不思議そうな顔で俺を見た。
「親父……師匠の手帳だ」
俺はパラパラとページをめくり、後半の、ダンジョンの深層に関する記述が途切れがちになっている部分を開いた。
血の滲んだ染みと、乱暴な筆跡。
そのページの下部、余白の部分に、黒のインクで走り書きのようなスケッチが描かれていた。
2匹の蛇が、互いの尾を噛み合い、無限を表す円を描いている図案。
「これ……『ウロボロス』の紋章ですね」
純子が息を呑んだ。
俺は手帳のスケッチの横に殴り書きされた文字を、ゆっくりと読み上げた。
『食い意地の張った蛇どもが動き出した。奴らの狙いは、深海に沈む古代都市アトランティスの浮上だ。あそこの海鮮は極上だが、奴らに独占させるわけにはいかない。世界の根源だかなんだか知らんが、俺の飯の邪魔をする奴は、俺が叩き斬る』
その横には、源蔵が昔よく言っていた口癖のメモもあった。『世界を救うより、目の前の極上の食材をどう調理するかが先決だ』。
いかにもあの食い意地の張ったオッサンらしい書き込みだ。だが、その乱暴な筆跡の裏に、どれほどの覚悟が隠されていたのか。
「……師匠は、過去に奴らと接触していた」
俺は手帳を閉じた。
源蔵がなぜ最深部へ向かい、そして帰ってこなかったのか。その理由の1端が、ここにあるのかもしれない。単なるスタンピードの阻止だけではなく、その裏で暗躍するウロボロスの野望を食い止めるために。
「アトランティス……? 神話級の海底ダンジョンよね? それを浮上させるって、どういうこと……?」
みのりが混乱したように青ざめた顔で呟く。
「わかりません。ですが、品川の物流網を裏から乗っ取ろうとしていることと、無関係とは思えませんね」
純子がタブレットの画面と手帳を交互に見比べながら、慎重に言葉を紡いだ。
リビングの空気が、重く冷たく沈み込んだ。
得体の知れない世界規模の組織の思惑。見え隠れする師匠の因縁。
S級探索者であるジークが、静かに剣の柄に手をかける音が聞こえた。
「……難しい話は後だ」
俺は手帳を木箱にしまい、大きく背伸びをした。
「さっき俺は1人で定食を食って軽く済ませたが、お前らは麻婆豆腐の試食しかしてないからな。胃が荒れてるだろうし、夕飯は優しい味で作ってやる」
俺がエプロンを手に取ると、張り詰めていた空気がわずかに弛緩した。
「ゆ、悠作さん……この状況でご飯ですか?」
すずが呆れたように言うが、俺は振り返らずにキッチンへ向かった。
「腹が減っては戦はできん。それに、美味い飯を食えば、大抵のことはどうでもよくなる」
俺が冷蔵庫から取り出したのは、京都の帰りに市場で仕入れておいた巨大な『魔鎧鯛』の切り身とアラだ。
強固な鱗を持つが、その下の白身は極上の旨味と甘みを秘めている。魔鎧鯛の鱗を柳刃包丁の背で丁寧にすき引きしていく。ガリッ、ガリッと硬質な音が響く。この鱗も洗って素揚げにすれば美味いツマミになるが、今日は出汁と身を純粋に味わうために省く。
「……見事な包丁さばきですね」
純子がいつの間にかキッチンの入り口に立ち、俺の手元を見つめていた。
「ただの慣れだ。……頭の方は冷やして、今度煮付けにする」
まずはアラを熱湯にサッとくぐらせて霜降りにし、血合いや汚れを冷水で丁寧に洗い落とす。これを怠ると、出汁に生臭さが出てしまう。
綺麗になったアラに軽く塩を振り、魚焼きグリルで表面に焦げ目がつくまで香ばしく焼き上げる。
「いい匂い……。お魚の脂が焼ける、すごくいい匂いがします」
すずが鼻をヒクヒクさせながらキッチンを覗き込んできた。
「ここから出汁を取る。昆布と一緒に水から火にかけ、沸騰直前で昆布を引き上げる。あとはアクを取りながら、じっくりと鯛の旨味を抽出するんだ」
澄み切った黄金色の出汁が取れたら、土鍋の出番だ。
研いでおいた米を土鍋に入れ、冷ました鯛出汁、薄口醤油、酒、少量の塩を加える。
そして、その上に分厚く切った魔鎧鯛の切り身を贅沢に並べる。分厚い身は薄っすらと桜色がかかっており、指先で触れるだけで上質な脂が溶け出してくるのがわかる。
「火にかける。最初は強火。沸騰したら弱火にして15分。最後に10秒だけ強火にしてお焦げを作り、火を止めて10分蒸らす。……この時間は絶対に蓋を開けるなよ」
土鍋の蓋の穴から、シュンシュンと白い蒸気が勢いよく吹き出し始めた。
醤油と出汁の焼ける香ばしい匂いが、キッチンからリビングへと広がり、先ほどまでの重苦しい空気を完全に塗り替えていく。
足元では、ポチとクロが並んでお座りをして、涎を垂らしながら土鍋を見上げていた。
「……よし、炊き上がったぞ」
俺は分厚いミトンで土鍋を掴み、ちゃぶ台の中央に置いた。
全員の視線が、土鍋の蓋に釘付けになる。
「開けるぞ」
パカッ。
蓋を開けた瞬間、豊かな湯気と共に、鯛の芳醇な香りと、米の甘い匂いが立ち上った。
「「「おおおおっ……!!」」」
つやつやと光るご飯の上に、ふっくらと蒸し上がった鯛の白身が鎮座している。
俺はしゃもじで鯛の身を粗くほぐし、骨に注意しながらご飯と底のお焦げをさっくりと混ぜ合わせた。最後に、刻んだ木の芽をたっぷりと散らす。
熱で木の芽の爽やかな香りが広がり、空腹の胃袋を強く刺激する。
サイドメニューとして、残りの鯛出汁で作ったシンプルな潮汁も椀に注いだ。
「土鍋の『魔鎧鯛めし』と、潮汁だ。食え」
「「「いただきます!!」」」
全員が茶碗を手に取り、無言で鯛めしをかき込んだ。
「んっ……美味しい!」
ゆき子が肩を揺らして喜びを露わにした。
「鯛の身がほろほろで、お米に味がめっちゃ染みてるっしょ! お焦げのカリカリしたとこが香ばしくて、無限に食べられる!」
鯛の旨味が、米の1粒1粒に限界まで染み込んでいる。土鍋で炊いた米特有の、外側はピンと張りがあり、内側はもっちりとしたアルデンテの食感。
噛み締めるほどに、鯛の濃厚な脂の甘みと、薄口醤油のキリッとした塩気が口の中で混ざり合う。
「木の芽の香りが素晴らしいわね。先ほどの激辛麻婆豆腐で火照った舌と胃袋を、この爽やかな刺激と深い出汁の旨味が、優しく撫でてくれるみたい……」
しずかが目を閉じ、潮汁を1口飲んで深く息を吐いた。S級の強靭な肉体も、この温かい椀の前では完全に脱力している。
「見事な陣形です、マスター。白身の淡白さを出汁の重厚さで補い、香りで隙をなくす。これぞ完璧なる攻防1体の食!」
ジークもすでに茶碗を空にし、おかわりを要求している。
出汁の温かさが、体の芯から疲労と緊張を溶かしていくのがわかった。
師匠の因縁。得体の知れない犯罪組織。
どれだけスケールが大きくなろうと、俺のやることは変わらない。
「おかわり、まだ土鍋にあるぞ。全部平らげろ」
俺は自分用の茶をすすりながら、空になった土鍋の底のお焦げを削り取ってポチとクロの皿に分けてやった。
「品川の第4物流倉庫の件だけどな……」
俺が口を開くと、食べていた皆の手が止まり、真剣な顔でこちらを見た。
「まあ、乗り込むかどうかは、ギルドの上層部と相談してからだ。俺たちはただの末端だからな」
俺があっさりと告げると、すずが「えっ、行かないんですか?」と拍子抜けしたような声を出す。
「ああ。今日はもう疲れたし、明日はせっかくの休日だ。面倒事は偉い人たちに任せて、飯を食ったら寝るぞ。……天気が良ければ、庭でBBQでもやりたいくらいだ」
俺の言葉に、S級の面々は顔を見合わせ、毒気を抜かれたように肩をすくめた。
「……そうね。私たちが焦っても仕方ないわ」
みのりが苦笑し、残っていた潮汁を飲み干す。
「師匠らしいっしょ。じゃあ明日の休み、肉買いに行こ!」
ゆき子が明るい声を上げると、釣られたようにポチとクロが「ワフッ」「キャン!」と短い声で応えた。
俺は空になった土鍋を流し台に運び、スポンジに洗剤をつけた。
「BBQ用の買い出しは午前中に行くぞ。遅れた奴は置いていくからな」
背後から「えー!」「早起きします!」という賑やかな声が返ってくる。
俺は蛇口をひねり、こびりついたお焦げを水でゆっくりと洗い流し始めた。




