第61話 源蔵の手帳
玄関の重い金属製ドアを内側から閉めると、ガチャンという無骨なラッチ音が響き、直後に耳鳴りがしそうなほどの静寂が訪れた。
築40年のアパート特有の、少しひんやりとした古い木材の匂いが鼻を突く。
京都での数日間にわたる慌ただしい日々を経て、俺は練馬のアパート『ひまわり荘』の203号室へと帰還した。
時刻は午後4時。
西日が薄暗い6畳間に差し込み、空気中を漂う微小な埃をきらきらと照らし出している。
本来なら、すずやゆき子といった面々が我が物顔で居座り、何かしらの騒動を起こしている時間だ。だが、今日は彼女たちも京都での事後処理や、自身の溜まっていた依頼をこなすために各所へ飛び回っているらしく、部屋には誰もいなかった。
「……静かだ」
俺はフローリングの床に腰を下ろし、深く息を吐き出した。
背中から伝わる硬い床の感触が、今はひどく心地よい。
足元では、質量操作でバレーボールほどのサイズに圧縮されたポチと、京都の深層で拾ってきた雷獣の赤ん坊――黒い子犬が、互いの体を丸め合うようにして眠っている。時折、寝言のように「クゥン」と鳴くその無防備な姿は、張り詰めていた神経を急速に弛緩させてくれた。
「さて、荷解きでもするか」
重い腰を上げ、部屋の隅に置いた五右衛門の結び目を解く。
亜空間から着替えや日用品、そして幾つかの戦利品を取り出していく中で、ふと、俺の手が止まった。
底の方から出てきたのは、一冊の古びたノートだった。
表紙は擦り切れ、ページはひどい湿気で波打っている。
東京大迷宮の最深部、地下90階層。人類未踏の『深淵』と呼ばれる領域での激闘の最中、俺が見つけ出した師匠・源蔵の遺品だ。
あの時はスタンピードの発生源を前にして事態が切迫しており、内容を拾い読みすることしかできなかった。しかし、今は時間がある。
俺はちゃぶ台の前に座り、静かにそのページをめくった。
前半のページには、第95階層のドラゴンの尾の肉の煮込み方や、第99階層の魔王の菜園で発見した米について書かれている。ダンジョンの最深部でさえ「いかにして美味く食うか」に執念を燃やしていたあの人の姿が目に浮かぶようだ。
そこから先、当時読めなかった手帳の後半部分へとページを進める。
インクが滲み、ひときわ強い筆圧で書かれたページに目が止まった。
『幻の食材について』
タイトルが付けられたそのページには、鉛筆の荒々しい線で一枚のスケッチが描かれていた。
見渡す限りの暗い海。そして、その海溝の底に沈む巨大な古代都市のような建造物。
『海より深く、空より青い領域。アトランティスの海溝に、神話級の海鮮が眠る』
『その身は宝石の如く透き通り、脂は甘露の如し。一切れで寿命が延びると錯覚するほどの生命力に満ちている』
『だが、辿り着くには巨大な水圧と、深淵を支配するウロボロスの影が立ち塞がる。いつか必ず、俺の包丁で捌いてみせる』
ウロボロス。
つい先日、京都のダンジョンで暗躍していた巨大な犯罪シンジケートの名前だ。
師匠はダンジョンの深淵を旅する中で、すでにあの組織の存在に触れ、そしてその奥に眠る未知の海鮮食材に目を付けていたらしい。
「アトランティスの海鮮、ね……」
俺は呟き、スケッチの縁を指でなぞった。
平穏な日常と定時退社を第一に考える俺にとって、ウロボロスなどという厄介な連中とは金輪際関わりたくないのが本音だ。だが、あの食に異常な執着を持つ師匠が「甘露の如し」とまで書き残した未知の食材の存在が、料理人としての俺の脳裏に、微かな、しかし確かな火種を落としたのを感じた。
「……いや、今は目の前の飯だ」
俺は手帳をパタンと閉じ、頭を振って立ち上がった。
時計の針は午後5時を回ろうとしている。夕飯の支度にはちょうどいい時間だ。
京都では鵺のすき焼きをはじめ、味の濃い非日常的な食事ばかりだった。こういう時こそ、胃に優しく、身体の隅々にまで染み渡るような素朴な和食が食いたくなる。
作業着の袖をまくり、キッチンに立つ。
冷蔵庫と五右衛門の保冷庫から食材を取り出す。近所のスーパーの特売で買っておいた、丸々と太った長崎産の真鰺。それに、カボチャ、水煮の筍、ニラ、シラス、ナメコ、大根。
まずはカボチャの煮物からだ。
種とワタをスプーンで丁寧に取り除き、一口大に切る。ここで包丁の角を使って、すべての切り口の角を削り落とす「面取り」を行う。この一手間を惜しむと、鍋の中でカボチャ同士がぶつかって煮崩れを起こし、煮汁が濁ってしまう。
鍋に皮を下にしてカボチャを並べ、一番出汁、酒、みりん、砂糖を入れて火にかける。落とし蓋をして、煮立ったら弱火を保つ。醤油は少し遅れて加える。塩分を先に入れると表面が締まってしまい、中まで甘みが浸透しないからだ。
カボチャをコトコトと煮ている間に、メインの鰺に取り掛かる。
まな板に丸のままの鰺を置く。目が澄んでいて、腹にしっかりとした張りがある。良い鰺だ。
包丁の刃元を使い、尾の付け根から側線に沿って並ぶゼイゴと呼ばれる硬いウロコを削ぎ落とす。頭を落として腹を開き、内臓を掻き出す。流水で腹の中の血合いを歯ブラシを使って綺麗に洗い流し、キッチンペーパーで表面と腹の中の水気を完全に拭き取る。魚料理は、この水分と血の処理の徹底が味を左右する。
三枚下ろし。
背ビレの少し上に沿って刃を入れ、中骨の上を滑らせていく。カリカリカリ……と、刃先が骨の節に触れる微かな振動が手に伝わってくる。
腹骨を包丁を寝かせて薄くすき取り、頭側から皮の手がかりを作り、手でツーッと引っ張って剥ぐ。
現れたのは、銀色に輝く皮下脂肪と、血合いの美しい赤。
骨抜きを手に持ち、身の中央を走る血合い骨を、指先で確認しながら一本一本丁寧に抜いていく。身を崩さないよう、骨の生えている斜めの角度に向かって引き抜くのがコツだ。
そぎ切りにして皿に盛り付け、おろしたての生姜と、小口切りにしたネギをたっぷりと添えた。
続いて、煮込み卵とじ。
平鍋に一番出汁を張り、薄口醤油、みりん、酒で味を調える。
薄切りにした筍を入れ、火にかける。フツフツと湧いてきたところに、シラスをひとつかみ放り込む。シラスから出る程よい塩分と海鮮の旨味が、出汁に確かな深みを与える。
ざく切りにしたニラを加え、ニラの鮮やかな緑色が鮮烈な香りを放ち始めた瞬間に、軽く溶いた卵を外側から中心に向かって円を描くように回し入れる。
卵は決してかき混ぜない。縁の方が固まり、中心が半熟のトロトロの状態になったところで火を止め、蓋をして1分。余熱だけでふんわりと仕上げる。
最後に、ナメコの味噌汁だ。
温めた鰹出汁にナメコを入れ、合わせ味噌を溶き入れる。味噌の香りが飛んでしまわないよう、沸騰する直前、ナメコ特有のトロミが汁全体に回ったところで火を止める。
作り置きの大根の浅漬けを小鉢に盛れば、完成だ。
「よし、できたぞ」
ちゃぶ台の上に、ご飯と3品のおかずが並んだ。
炊飯器から立ち上る、炊き立ての白飯の甘い香り。
足元では、いつの間にか目を覚ましたポチと黒い子犬が、犬用の皿に盛られた味付けなしの茹で鶏と野菜の前で行儀よくお座りをして、涎を垂らしながら俺の合図を待っている。
「いただきます」
ポチたちに「よし」と声をかけ、俺は手を合わせた。
まずはナメコの味噌汁を一口。
ズズッ。
……熱い汁が胃の粘膜に触れ、張り詰めていた神経がじんわりと解きほぐされていく。ナメコの素朴な土の香りと味噌の深いコクが、疲労した身体に優しく染み込んでいく。
次に、鰺の刺身。
生姜醤油に少しだけ浸し、白飯にワンバウンドさせてから口に放り込む。
噛んだ瞬間、青魚特有の強い旨味と、皮下脂肪の甘みが口の中で弾けた。それを生姜の辛味がキリッと引き締め、臭みは一切感じさせない。
すかさず、醤油の染みた白飯をかき込む。最高の相性だ。
カボチャの煮物は、箸を入れると抵抗なくスッと切れた。
口に含むと、ホクホクとした食感と共に、醤油と砂糖の素朴で懐かしい甘じょっぱさが広がる。面取りをしたおかげで角が一切崩れておらず、煮汁も澄んで美しい。
そして、筍、ニラ、シラスの煮込み卵とじ。
レンゲで大きくすくい上げ、そのまま口へ。
「……美味い」
思わず独り言が漏れた。
筍のシャキシャキとした小気味よい食感。ニラのパンチのある香りと甘み。シラスから出た磯の塩気。それら全てを、出汁をたっぷりと吸い込んだ半熟卵がトロリと優しくまとめ上げている。
計算された塩味と旨味のバランスが、白飯の消費速度を否応なしに加速させる。
大根の漬け物のパリポリとした食感で口の中をリセットし、再び鰺へ。
一人だけの静かな部屋で、咀嚼音と、ポチたちが餌を食べるガツガツという音だけが響いている。
京都での派手な戦闘や、高級食材も悪くはない。
だが、結局のところ、俺にとっての一番の贅沢は、自分で丁寧に下ごしらえをしたこの何気ない和食なのだ。
食事を終え、食器を手早く洗って水切りカゴに伏せる。
急須に深蒸し煎茶の茶葉を入れ、ポットの熱湯を一度湯呑みに移して少し温度を下げる。こうすることで、茶葉の渋みを抑え、甘みと旨味を引き出すことができる。
適温になったお湯を急須に注ぎ、少し待ってから湯呑みに注ぎ分ける。最後の一滴――最も旨味が凝縮されたゴールデンドロップまでしっかりと絞り切る。
温かい湯呑みを両手で包み込み、ズズッと茶を啜る。
深い緑色の液体から、青々とした茶葉の香りと、まろやかな甘み、そして微かな渋みが喉を落ちていく。食後の口の中を完璧に洗い流してくれた。
「ふぅ……」
俺は息をつき、ちゃぶ台の端に置いたままにしてあった源蔵の手帳に再び目をやった。
アトランティスの遺跡と、未知の海鮮食材のスケッチ。
これから先、S級探索者として、否応なしにあの手帳に記されたような未知の領域や、面倒な連中と関わることになるのだろう。
だが、もしあの手帳に書かれている海鮮食材が本当に存在するのなら。
それを自分の包丁で捌き、味わってみたいと思うのもまた、料理人としての嘘偽りのない本心だった。
まあ、先のことを今考えても仕方がない。
明日は早起きをして、今日の鰺の中骨をコンロでこんがりと炙って出汁を取り、朝茶漬けにでもしよう。
俺は空になった湯呑みを盆に下げ、静かに立ち上がった。




