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第60話 鴨川ディスタンス

 地下100階層からの帰路は、巨大化したポチの背に乗って垂直の縦穴を一気に駆け上がるという、往路と同じく嵐のような行程だった。

 そして――。


 夕闇が迫る京都。

 百鬼夜行ダンジョンの入り口である巨大な赤い鳥居を抜け、俺たちはついに地上の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「はぁ……。ようやく終わったな」


 生ぬるく湿った初夏の風が頬を撫でる。土の匂いに混じって、遠くから夕立の後のようなアスファルトの匂いが漂ってきた。

 鳥居の前では、京都ギルド特務部隊の一条とその部下たちが、泥だらけの純白スーツのまま立ち尽くしていた。


「……鈴木悠作、殿」


 一条が歩み寄り、深く頭を下げた。

 その顔には、出会った時の高慢さは欠片も残っていない。だが、単に媚びへつらうような顔でもなかった。エリートとしての矜持を完全に打ち砕かれ、圧倒的な実力差を骨の髄まで理解した者の、諦念と敬意が入り混じった複雑な表情だった。


「この度は、我々の窮地をお救いいただき、感謝いたします。……我々京都ギルドのプライドは、貴方によって完全にへし折られました。貴方のその、戦いと食に対する異常なまでの執念……一生忘れることはないでしょう」

「それはどうも。……事後処理は任せてもいいか?」

「ええ。我々の命に代えても。……皆様は、どうか京都の夜をお楽しみください」


 一条たちは再び頭を下げ、足早に去っていった。

 これで俺の出張としての業務は完了だ。

 あとは明日の新幹線で東京に帰るだけである。


「さて、と。宿舎の町家に戻る前に、少し鴨川で風に当たっていくか」


 俺の提案に、仲間たちは歓声で応えた。

 四条大橋から少し下った、鴨川の河川敷。

 初夏の夜の鴨川沿いには、等間隔に座るカップルや、缶ビールを片手に語り合う若者たちの姿がポツポツと見られる。

 俺たちは周囲の喧騒から少し離れた芝生に陣取り、五右衛門に展開させたレジャーシートの上に腰を下ろした。


「マイ・ロード! 宴の準備でしたら、このクロエにお任せくださいませ!」


 メイド服のクロエが、五右衛門のポケットから携帯用魔導コンロや食器類をテキパキと取り出し、完璧なテーブルセッティングを始めている。

 彼女の手際は、一流レストランの給仕そのものだ。


「助かるよ、クロエ。……お前、すっかりうちのサポート役が板についてきたな」


 俺が苦笑交じりに言うと、クロエはピタリと動きを止め、姿勢を正して俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「マイ・ロード。私、決意いたしましたわ。今回の京都出張が終わりましたら、英国探索者協会には『長期休暇』を申請し、そのまま東京の『ひまわり荘』に滞在いたします」

「……はい?」

「貴方の専属料理アシスタント兼メイドとして、生涯お仕えする所存でございます!」


 ビシッと宣言するクロエ。

 俺が頭を抱えるより早く、周囲の女性陣が反応した。


「ちょっと! アパートの定員はもうオーバーしてるっしょ!」


 ゆき子が立ち上がる。


「そうです! これ以上ライバルが……いえ、居候が増えるのは困ります!」


 すずも慌てている。


「……筋肉のメンテナンスなら私ができるわ。メイドは不要よ」


 しずかが腕を組む。


 だが、クロエは涼しい顔で扇子を広げる人物――加藤茜を振り返った。


「ご安心くださいませ。すでに茜様と交渉し、ひまわり荘の屋根裏部屋を私の私室として増築する手はずが整っておりますわ。資金は私の個人資産から一括でお支払いしましたので」

「ええ。とても有意義な取引でしたわ。ついでにアパート全体の防音設備もグレードアップさせておきましたの。……もちろん、悠作様のローンに少しだけ手数料を上乗せして」


 茜が悪びれもせず微笑む。

 俺の許可なしに、勝手に家の増築が決まっている。俺の疲労感はピークに達しつつあった。

 だが、嘆いていても腹は膨れないし、借金は減らない。


「……勝手にしろ。とりあえず、飯にするぞ」


 俺は袖をまくり、コンロの前に座った。

 今日は肉じゃない。深層での激戦と、すき焼き、かき氷と続いた胃腸を、優しく労わるようなメニューが必要だ。


「京都の夜風には、これだ。『湯豆腐と熱燗』で行く」


 土鍋にたっぷりの水を張り、五右衛門の保冷庫で保管していた利尻昆布の分厚い一枚を沈める。

 火にかけ、水に昆布の旨味がじんわりと溶け出すのを待つ。沸騰させてはいけない。昆布のぬめりや雑味が出ない、80度手前の絶妙な温度をキープするのだ。

 そこへ、昨日買い出しで手に入れていた大豆の味が濃い『亀山豆腐』を、大きめの奴に切って静かに滑り込ませる。


 鍋の底から小さな気泡が上がり、豆腐がゆらゆらと揺れ始める。

 決してグラグラと煮立たせない。豆腐の滑らかな食感を損なわないための、静かな時間。


「薬味は、これだ」


 手元の器に、自家製のポン酢を注ぐ。そこに、道中で手に入れた『化け九条ネギ』の青い部分を極薄の小口切りにしてたっぷりと乗せ、ピリリと辛いもみじおろしを添える。


「お酒の用意もできていますわ、マイ・ロード」


 クロエが、錫のちろりにお酒を注ぎ、隣の鍋で丁寧に湯煎してくれていた。

 温度は上燗。熱すぎず、純米酒のふくよかな米の香りが最も引き立つ温度帯だ。


「よし。食うぞ」


「「「いただきます」」」


 少し肌寒い夜風の中で、湯気を立てる土鍋を囲む。

 俺は穴あきお玉で豆腐をすくい、ポン酢の器に入れた。

 たっぷりの九条ネギと一緒に、崩さないように口に運ぶ。


「……あぁ」


 思わず、深い吐息が漏れた。

 熱々の豆腐が、舌の上でほろりと崩れる。

 濃厚な大豆の甘み。昆布の奥ゆかしい旨味。

 それが、柑橘の酸味が効いたポン酢と絡み合い、もみじおろしのピリッとした辛さが全体を引き締める。

 そして、化け九条ネギの圧倒的な香りと甘みが、豆腐のシンプルな味に強烈な輪郭を与えていた。


「美味しい……。お肉もいいですけど、こういうホッとする味が、今は一番嬉しいですね」


 すずが、ふーふーと息を吹きかけながら豆腐を口に運び、目尻を下げる。


「マジ染みるわー。……なんか、アタシおっさんみたいじゃん」


 ゆき子が、お猪口に注がれた熱燗をクイッと飲み干し、息を吐いている。


「……五臓六腑に染み渡るわね。連戦でこわばっていた筋肉が、内側からじんわりと解れていくみたい」


 しずかは温かい湯豆腐を少しずつ噛み締めながら、深く息をついた。


「ただの豆腐とネギだというのに、なんという奥深さ……! 薬味の鮮烈な香りが、豆腐の甘みをここまで引き立てるとは」


 ジークも驚いたようにポン酢の器を見つめ、次々と豆腐を口に運んでいる。


「……おかわり、もらえますか?」


 瞳がそっと小鉢を差し出してきた。


 足元では、元のサイズに戻ったポチと、新しく家族になった黒い子犬が、冷ました豆腐に少しだけ出汁をかけたものを並んで食べている。

 フガフガと音を立てながら、仲良く器を舐め回している姿が微笑ましい。


「……美味いな」


 俺は熱燗を口に含んだ。

 米の豊かな香りと、じんわりとしたアルコールの熱が、喉から胃へと落ちていく。

 緊迫したダンジョンでの疲れが、京都の川のせせらぎと共に、ゆっくりと洗い流されていくようだった。


★★★★★★★★★★★


 宴会が盛り上がる中、俺はそっと立ち上がり、レジャーシートの端から少し離れた川岸の芝生に腰を下ろした。

 静かな水面を眺めながら、缶の緑茶で一息つく。

 すると、背後からかすかな足音が近づいてきた。


「……隣、いいかしら」


 振り返ると、伊藤みのりが立っていた。

 彼女は自分の缶ビールを手に、俺の隣に座った。

 俺たちの間には、人が一人入れるくらいの隙間が空いている。いわゆる「鴨川等間隔」のルールに則った、絶妙な距離感だ。


「お疲れ。京都出張、これで本当に終わりね」


 みのりが缶ビールを掲げる。

 俺も緑茶の缶をコツンと合わせた。


「ああ。色々と想定外だったが、肉も手に入ったし、まあ悪くない残業だったよ」

「ふふっ。一条さんたち、帰る頃にはすっかり大人しくなってたわよ。こっちで口裏合わせて、報告書は適当に丸めといたから。あんたの活躍は秘密のままよ」


 みのりがビールを一口飲み、夜風に髪を揺らす。

 その表情は、日頃の激務による疲労感はあるものの、どこかスッキリとしていた。


「あんたのおかげで、また一つ始末書が減ったわ。……ありがとね、悠作」


 彼女は少し照れくさそうに、俺の顔を見ずに言った。

 俺は川面に映る街灯の光を眺めながら、軽く肩をすくめた。


「礼を言われる筋合いはないさ。俺はただ、自分の夕飯を守っただけだ。それに……」


 俺は彼女の横顔をチラリと見た。

 普段はツッコミ役として声を張り上げている彼女だが、こうして静かに座っていると、年相応の落ち着いた大人の女性の魅力がある。


「東京に帰ったら、また美味いもん作ってやるよ。出張の手当も入るはずだしな」

「……ええ。期待してるわ。でも、しばらくはお肉じゃなくて、胃に優しいお魚とかにしてよね」


 みのりがふっと微笑み、少しだけ体の重心をこちらに傾けてきた。

 肩と肩が触れ合いそうな距離。

 周囲のカップルたちに混じって、俺たちもほんの少しだけ、特別な雰囲気に包まれようとした。


 ――その瞬間。


 ピカッ。


 対岸の暗い茂みから、一瞬だけ、レンズの反射光が鋭く煌めいた。


「……っ」


 俺の背筋に、氷のような悪寒が走る。

 ただの光ではない。あれは間違いなく、高倍率のライフルスコープの光だ。


(……純子か)


 夕食の輪に混ざらず、周囲の警戒に回っている山口純子。

 彼女のスコープが、俺とみのりのこの絶妙な距離感をミリ単位で計測し、無言の圧力をかけてきているのが、肌で感じられた。


『悠作さん、ソーシャルディスタンスを保ってくださいね♡』という幻聴が聞こえた気がした。


「……どうしたの、悠作?」


 みのりが不思議そうに俺を覗き込む。


「いや……なんでもない。ちょっと夜風が冷えてきたなと思って」


 俺は引き攣った苦笑いを浮かべ、みのりとの間に、そっと安全な隙間を作った。


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