第59話 深層でのすき焼き鍋
京都『百鬼夜行ダンジョン』の深部。薄暗い竹林の空き地は、先ほどまでの血生臭い戦闘の余韻を完全に払拭し、極めて芳醇で暴力的な香りに支配されていた。
「よし、準備はいいな」
俺は、作業着の袖をまくり上げ、携帯用の魔導コンロの上に分厚い鉄製のすき焼き鍋を置いた。
まな板の上には、先ほど「解体」したばかりの巨大な妖鳥『鵺』の胸肉が、美しいルビー色の断面を見せて並んでいる。厚さ数ミリにスライスされたその肉は、赤身の中に細かく上質なサシが入り込み、室温の空気にあてられただけで脂がじんわりと溶け出し始めていた。
「これだけ立派な肉だ。普通のすき焼きじゃもったいない」
俺は五右衛門の保冷庫から、道中で仕入れていた「戦利品」を次々と取り出した。
第57階層付近でポチが拾ってきた『魔力松茸』。俺が足を引っかけた『聖護院化け大根』。
そして、鵺を仕留めた直後、倒壊した竹林の奥でポチと黒い子犬が掘り出してきた、巨大な『化け九条ネギ』だ。大人の腕ほどの太さがあり、切ると中からトロリとした甘い粘液が溢れてくる、極上のネギである。
「鴨肉とネギ。これ以上ない組み合わせだ」
コンロの火力を上げる。
油は引かない。代わりに、鵺の分厚い皮から切り出した純白の脂身を鍋肌に擦り付ける。
ジワァァァ……!
熱された鉄肌の上で、鵺の脂が一瞬にして液化する。
驚くべき融点の低さだ。同時に、野鳥特有の深いコクのある香りが、フワリと立ち上った。
「まずはネギからだ」
斜め切りにした巨大な化け九条ネギを、脂の海へ投入する。
ジュゥゥゥゥッ! という盛大な音と共に、ネギの表面に焦げ目がついていく。上質な脂をたっぷりと吸い込み、ネギの青臭さが甘く香ばしい匂いへと変化していく。
しんなりとしたところで、主役の肉を広げ入れる。
チリチリッ、と肉の端が縮む。
鮮やかな赤身が、一瞬にして淡いピンク色へと変わり、表面に脂が浮き上がる。
完全に火が通る直前。俺はあらかじめ合わせておいた『割り下』を一気に回し入れた。
ジュワアァァァァァァッ!!
醤油の塩気、みりんの風味、そしてザラメ糖の深く重厚な甘さが、熱せられた鉄鍋の上で焦げ、爆発的に拡散する。
醤油と砂糖、そして肉の脂が焦げる暴力的な匂いが、問答無用で食欲の中枢を抉ってくる。
肉の横には、スライスした魔力松茸をたっぷりと敷き詰める。甘辛い醤油の匂いに負けない、強烈で高貴な松茸の香りが加わった。
「できたぞ。熱いうちに卵にくぐらせて食え」
手元の器には、鮮やかなオレンジ色をしたコカトリスの卵を溶いてある。
「「「いただきます!!」」」
俺の号令と共に、待機していたS級探索者たち(と愉快な仲間たち)が一斉に箸を伸ばした。
ジークが、肉とネギをまとめて掴み、溶き卵にたっぷりと絡めて口に放り込む。
「……おおおおおっ!!」
ジークは大きく目を見張り、言葉にならない雄叫びを上げた。
「なんと濃厚な! 鵺の脂は決して重くなく、むしろ透き通るような甘みがある! それが醤油とザラメの濃い味を纏い、卵のまろやかさで完璧に調和している! さらにこのネギ! 中から溢れるトロトロの甘い汁が、肉の旨味を何倍にも引き上げているぞ!」
相変わらず食レポが饒舌すぎる男だ。
「師匠、これヤバい! 松茸の香りが鼻から抜けて、脳みそとろけそうっしょ!」
ゆき子も身悶えしながら、次々と肉を口に運んでいる。
「……素晴らしいわ。この良質なタンパク質と、松茸のビタミン、ネギのアリシン。疲労した筋繊維が急速に修復されていくのを感じるわ……」
しずかはプロテインの観点から絶賛しつつ、大根の分厚い輪切りを豪快に齧っている。
俺も自分の取り皿に肉を移し、一口食べた。
美味い。鴨肉特有のしっかりとした弾力がありながら、噛むほどに旨味が滲み出してくる。
松茸の香りと甘辛いタレの相性も抜群だ。
「ワフッ! ワフン!(俺にも! 早く!)」
「キュン!(お肉!)」
足元では、いつものサイズに戻ったポチと、先ほど家族に加わったばかりの黒い子犬が、並んでお座りをし、尻尾をブンブンと振って催促している。
俺は味付けを薄くした肉を冷ましてから、それぞれの皿に入れてやった。
ポチは先輩風を吹かせて「ゆっくり食えよ」とばかりに黒い子犬の頭を舐めてやっているが、いざ肉を目の前にすると、一瞬で自分の分を平らげてしまった。
賑やかな宴の輪から少し離れた場所で、京都ギルド特務部隊の隊長、一条とその部下たちが、呆然とその光景を見つめていた。
数十分前まで自分たちを恐怖のどん底に突き落としていた伝説の妖鳥が、今は極上のすき焼きとなって鍋の中でグツグツと煮えているのだ。
彼らの常識は完全に崩壊し、言葉を失っている。
「……おい、一条さん。あんたたちも食うか?」
俺が声をかけると、一条はビクッと肩を震わせた。
「ば、馬鹿なことを……! 妖鳥の肉を食らうなど、正気の沙汰ではありません! それに、我々京都の探索者は、任務中にそのような野蛮な食事は……」
「そうか。まあ、無理には勧めないが」
俺は肩をすくめ、自分の手元に新しい肉を補充した。
だが、すき焼きの香りは残酷だ。
極度の緊張から解放され、空腹状態にある彼らの胃袋に、甘辛い醤油と肉の焦げる匂いが容赦なくダメージを与えていく。
一条の隣にいた若い隊員の一人が、ゴクリ、と大きな音を立てて生唾を飲み込んだ。
「あ、あの……隊長。少しだけ、毒見ということで……」
「何を言っている! 誇りを捨て――」
「どうぞ。卵、足りてますか?」
すずがニコニコと笑いながら、一条の前に器と箸を差し出した。
一条の視線が、湯気を立てる琥珀色の肉に釘付けになる。
数秒間の沈黙。そして、彼の理性を、抗いようのない食欲が打ち破った。
一条は震える手で箸を受け取り、肉を一切れ口に運んだ。
「…………ッ」
彼の口元が微かに震え、手から扇子が滑り落ちた。
「な、なんだこれは……。ただの魔物の肉のはず……! なのに、なぜこんなに美味いんだ……ッ! 臭みが一切ないどころか、化け九条ネギの甘みと混ざり合って……こんな、こんな野蛮な食事が……美味いなどと……!」
彼は信じられないものを見る目で鍋を凝視し、混乱したように呟き続けた。
だが、箸の動きは止まらない。
無心になって二口目、三口目と肉を口に運び、卵を絡め、理性をかなぐり捨てるように食べ始めた。
部下たちもそれに続き、あっという間に京都組は「パジャマの荷物持ち」が作ったすき焼きの虜になってしまった。
彼らの京都エリートとしての矜持は、完全に胃袋に敗北していた。
★★★★★★★★★★★
昼食が終わり、皆が満腹感と魔力酔いで心地よい睡魔に身を任せている頃。
俺は少し離れた岩陰に腰を下ろし、冷たいお茶を飲んで一息ついていた。
すき焼きの塩気と甘さで満たされた後は、サッパリとしたものが欲しくなる。
「鈴木さん。お隣、よろしいですか?」
不意に横から声がかかった。
振り返ると、高橋すずが少しはにかんだような笑顔で立っていた。
彼女の手には、冷気を放つガラスの器が二つ握られている。
「ああ、構わないぞ。みんなは寝てるのか?」
「はい。ジークさんも一条さんたちも、お腹いっぱいで動けないみたいです。……あの、これ」
すずは俺の隣にちょこんと座り、器を一つ差し出した。
中に入っていたのは、雪のように真っ白でフワフワの氷。その上には、濃い緑色の抹茶シロップと、茹でた小豆が添えられていた。
「かき氷か?」
「はい。私の氷魔法で空気中の水分を凍らせて、極限まで薄く削ってみました。シロップは、昨日茜さんの店で買っておいた宇治抹茶の特製品です。……すき焼きの後に、冷たいデザートはどうかなって」
すずが少し上目遣いで、俺の反応を窺ってくる。
俺は受け取り、スプーンで一口すくって口に入れた。
「……美味い」
氷は口に入れた瞬間にフワリと溶け、嫌な冷たさを全く残さない。
ほろ苦い抹茶の風味が、すき焼きの濃い後味を、すっきりと洗い流してくれた。
甘さ控えめの小豆もいいアクセントになっている。
「これはいいな。お前の氷魔法、冷凍庫だけじゃなくかき氷機としても一流だ」
「ふふっ、ありがとうございます。鈴木さんにそう言ってもらえるのが、一番嬉しいです」
すずは嬉しそうに目を細め、自分の分のかき氷を口に運んだ。
静かだ。
遠くでポチと黒い子犬がじゃれ合う微かな音と、竹の葉がこすれる音しか聞こえない。
薄暗いダンジョンの深層だというのに、彼女の隣にいると、不思議と穏やかな空気に包まれる。
「……こうしていると、なんだか不思議ですね」
すずが、スプーンを見つめながらポツリとこぼした。
「不思議?」
「はい。ここ、世界でもトップクラスに危険なダンジョンの奥深くなんですよね。なのに……鈴木さんと二人で並んでかき氷を食べていると、まるで休日の公園でデートしているみたいに感じちゃって」
すずの頬が、ほんのりと薄紅に染まる。
彼女はチラリと俺の横顔を見て、少しだけ肩を寄せてきた。
氷の魔法剣士である彼女の体温は低いはずなのに、触れ合った肩からは、じんわりとした温もりが伝わってくる。
「……デート、か」
俺は抹茶の氷を溶かしながら、苦笑した。
「周りには化け物の残骸が転がってるし、少し離れたところからは純子のライフルのスコープがこっちを睨んでる気がするがな」
「あはは……。純子ちゃんには内緒ですよ?」
すずが声を立てて笑う。
その笑顔は、テレビや配信で見せる「氷剣の女帝」の完璧な作り笑いではなく、年相応の、純粋で無防備な女の子の素顔だった。
「鈴木さん」
「ん?」
「私……貴方の後ろをついて歩くの、すごく好きです」
すずは膝を抱え、遠くの赤い鳥居を見つめた。
「みんな、私を『A級筆頭』とか『S級候補』ってもてはやすけど……本当は、いつも気を張ってて、怖くて仕方なかったんです。でも、貴方の背中を見ていると……どんな困難でも、最後には美味しいご飯が待ってるんだって、心から安心できるんです」
彼女の言葉には、嘘偽りのない真っ直ぐな信頼が込められていた。
俺は少し照れくさくなり、頭を掻いた。
「買い被りすぎだ。俺はただ、定時に帰って飯が食いたいだけのおっさんだぞ」
「ふふっ。そういうところが、ズルいんですよ」
すずは俺の肩にコツンと頭を乗せた。
微かなシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
冷たい氷菓と、隣の温かな体温。
危険なダンジョンの真ん中で過ごす、短いけれど甘い休憩時間。
まあ、たまにはこういう「残業の合間のデート」も悪くない。
俺は空になった器を置き、彼女の髪に少しだけ触れた。




