第58話 妖鳥と京野菜
京都『百鬼夜行ダンジョン』の薄暗い竹林に、硬質な破砕音が連続して響き渡った。
パリッ、パパパパンッ!
それは、鋼鉄よりも硬いと言われる大百足の甲殻が、本体から次々と剥がれ落ちる音だった。
俺は、安物のサバイバルナイフを指先で弄りながら、深く息を吐いた。
刃には、魔物の体液すら一滴も付着していない。
「よし。綺麗な甲殻だ。これだけあれば、上質な『甲殻出汁』がたっぷりとれるぞ」
俺がナイフを鞘に収めると、足元で蠢いていた十数匹の巨大な大百足たちが、一斉に動きを止め、泥に沈んだ。
関節の隙間を魔力の流れに沿って正確に断ち切られた百足たちは、絶命の痙攣すら起こすことなく沈黙している。苦痛を感じる暇すら与えない、俺なりの「完璧な締め」だ。
『へへっ、旦那の包丁捌きは相変わらず芸術的でヤンスねぇ!』
俺の腰に巻きついていた五右衛門が、スルスルと風呂敷を伸ばし、剥がれ落ちた巨大な甲殻を次々と亜空間へと飲み込んでいく。
「な……ば、馬鹿な……」
その光景を後方で見ていた京都ギルド特務部隊の隊長、一条が、扇子を取り落として呆然とへたり込んでいた。
彼の部下たちも、先ほどまで自分たちを死の淵まで追い詰めていた異常発生の魔物たちが、一瞬にして「出汁の材料」に変えられた現実を受け入れられず、石像のように固まっている。
京都エリートの自尊心が、根底から完全にへし折られた顔だった。
「さて、一条さん。怪我がないなら先を急ぎましょう」
俺は一条を見下ろし、淡々と言った。
「退路を塞いでいた魔物は片付けました。このままではお昼ご飯の時間が遅れてしまいますからね」
「お昼……ご飯……?」
一条の目が虚ろに泳ぐ。
「さあさあ、行きますぞマスター! 雷光の如く進みましょう!」
ジークが空気を読まずに快活に笑う。
「鈴木さん、私の氷で道を作りますね!」
すずが杖を振り、竹林の足元の泥濘を薄い氷で覆って歩きやすくしてくれた。
俺たちは、放心状態の京都ギルドの面々を半ば引きずるようにして、さらに竹林の奥へと足を踏み入れた。
★★★★★★★★★★★
進むにつれて、周囲の空気が露骨に重さを増していった。
青白い石灯籠の光が届かない深い闇。
鼻を突くのは、雨上がりのような湿った土の匂いと、大気が焦げるようなオゾンの刺激臭だ。
「……待ってください、計測データがバグってます! 魔力磁場が……局所的にねじ切れてるっ!? なにこれ、あり得ない質量……前方に特S級クラスの固有生体反応が来ます!」
タブレットを叩く瞳の指先が震え、声が上ずっていた。
同時に、上空の黒い雲が渦を巻き、ゴロゴロと不気味な雷鳴が轟く。
バサァァァァッ!!
突風が吹き荒れ、太い竹が次々と薙ぎ倒された。
その奥から姿を現したのは、黒雲を纏った巨大な怪鳥だった。
翼を広げれば10メートルは下らない巨体。
顔は猿のように赤く歪み、胴体は丸々と太った狸。鋭い爪を持つ四肢は虎のそれで、長くうねる尻尾は、毒牙を剥き出しにした巨大な蛇だった。
「ひっ……! 鵺だ……! 伝承に語られる最悪の妖鳥が、なぜこんな階層に!?」
一条が悲鳴を上げ、後ずさりした。
京都の探索者にとって、鵺は恐怖の象徴だ。雷を操り、あらゆる攻撃を分厚い毛皮と脂肪で弾き返す、厄災そのもの。
「全員、退避ィィッ! 勝てる相手ではありません!」
一条が部下たちに撤退を叫ぶ。
だが、俺の足は一歩も後ろへは下がらなかった。
「……鵺、ねえ」
俺は目を細め、その巨大な魔物をじっくりと観察した。
猿の顔? 虎の脚? 蛇の尻尾?
そんな装飾はどうでもいい。
俺の目を釘付けにしたのは、その怪鳥の『胴体』だった。
空を飛ぶために極限まで発達した、分厚く弾力のある胸肉。
そして、冷たい上空の空気に耐えるために蓄えられた、皮下組織の豊潤な脂肪層。
巨大な翼が羽ばたくたびに漂ってくる、野性味がありながらも上品な脂の香り。
「……あれは、どう見ても『巨大な鴨』だ」
俺の呟きに、隣にいたしずかが「え?」と素っ頓狂な声を出した。
「悠作、あれが鴨に見えるの? どう見てもキメラだけど……」
「師匠、蛇の尻尾生えてんじゃん。鳥ですらないかもよ?」
ゆき子もドン引きしている。
だが、俺の目には、立派な肉付きをした鴨の親玉にしか見えなかった。
「ちょうどいい。さっき撃ち落とした鴨肉だけじゃ、全員の腹を満たすには少し物足りないと思っていたところだ。特大の追加食材だな」
今日の昼飯のメインディッシュが決まった。
「お前らは手出し無用だ。……鴨肉は、仕留める時のストレスで肉質が硬くなる。俺が一瞬で締める」
ギャアアアアァァァッ!!
鵺が耳をつんざくような咆哮を上げ、俺めがけて急降下してきた。
凄まじい風圧が竹林を薙ぎ払い、俺の前髪を激しく揺らす。
虎の爪が迫り、蛇の尾が毒牙を剥いて背後から襲いかかる。
さらに、全身から青白い雷撃が無数に放たれ、焦げたオゾンの匂いが鼻を突いた。逃げ場は完全に塞がれている。
「死ぬ気か! 避けろォッ!」
一条が絶叫する。
――スキル【虚空殺】。
俺は息を止め、重力を手放したようにフワリと跳躍した。
視界が極限までスローモーションになる。
迫り来る雷撃の軌道を、僅かな肩の傾きと首の捻りで全て紙一重で躱す。
虎の爪の隙間をすり抜け、俺は鵺の懐――豊満な胸肉の直下へと潜り込んだ。
逆手に構えたナイフが閃く。
狙うのは、脳へ繋がる延髄と、全身に血を送る大動脈の交差点。
分厚い脂肪と筋肉の層を透視するように見極め、肉を傷つけず、瞬時に血を抜きながら絶命させる、解体の極意。
ズッ……。
刃が吸い込まれるような、くぐもった音が響いた。俺の手首に、硬い骨を断ち切った確かな感触が残る。
俺の着地と同時に、鵺の巨体が空中でピタリと硬直する。
そして、羽ばたきを止めた怪鳥は、ドスゥゥゥンッ! と凄まじい地響きを立てて竹林に墜落した。
「……完璧な血抜きだ。これで肉に臭みは回らない」
俺はナイフの血を振り払い、満足げに頷いた。
一条たちは、もはや悲鳴を上げる気力すら失い、口をパクパクと開閉させている。
「五右衛門、収納しろ。……今日の昼は『鴨南蛮』か、あるいは『鴨のロースト』だな。帰り道で美味そうなネギを探さないと」
『合点でヤンス! よだれが止まらないでヤンスねぇ!』
五右衛門が巨大な鵺の死骸をペロリと飲み込む。
その時だった。
「クゥーン……」
鵺が墜落した衝撃で薙ぎ倒された竹の奥、怪鳥の『巣』らしき枯れ草の山から、微かな鳴き声が聞こえた。
「ん? なんだ?」
俺が近づくより早く、俺の足元で「ワフッ!」と鳴いたポチが、一目散に巣の方へと駆けていった。
新撰組のダンダラ羽織をパタパタと揺らしながら、ポチは枯れ草の山に鼻先を突っ込み、フンフンと匂いを嗅ぐ。
すると、枯れ草の中から、ポチよりもさらに一回り小さな『黒い毛玉』が、転がり出るように飛び出してきた。
頭に小さな一本の角が生えた、真っ黒な子犬のような魔獣だ。雷獣の赤ん坊だろうか。鵺の巣にあったということは、非常食として捕らえられていたのかもしれない。
ポチの鼻先と、黒い子犬の鼻先が、ゴツンとぶつかった。
その瞬間。
「ワフゥッ!?」
「キャンッ!?」
バチッ! と静電気でも起きたかのように、二匹は同時に飛び上がり、見事に同じリアクションで後ろにひっくり返って尻餅をついた。
「……なんだあれ」
俺は思わず吹き出しそうになった。
「きゃあああああっ!! なにあの生き物たち! 可愛すぎます!!」
「ヤバいヤバい! 兄弟みたいじゃん! 尊すぎて心臓止まるっしょ!」
すずとゆき子が、たまらず悲鳴を上げて悶絶し始めた。
「あんなに小さくて……脆そうな命……。私が少しでも力んだら、折れてしまいそう……」
しずかが大きな両手を見つめながら、おずおずと目を潤ませている。
尻餅をついたポチは、すぐに立ち上がり、ブルブルと頭を振った。
そして、おずおずと見上げてくる黒い子犬に対し、ポチはコホンと咳払いをして、小さな胸を思い切り張った。
「ワフン!(俺が兄貴だ。安心しろ!)」
「キュン……(あにき……)」
黒い子犬が、トテトテと歩み寄り、ポチのダンダラ羽織の裾にすりすりと身を寄せた。
ポチは得意げに鼻を鳴らし、前足で子犬の頭をポンポンと叩いてやっている。
完全に先輩風を吹かせている。自分だってついこの前まで赤ちゃんだったくせに。
「……悠作さん。あのデータ外の魔獣、どうしますか? 非常に興味深い生態系です」
瞳が目を輝かせながら問いかけてくる。
「どうするって……」
俺が頭を掻いていると、ポチが黒い子犬を連れて俺の足元にやってきた。
そして、俺のズボンの裾をくわえて引っ張り、上目遣いで訴えかけてくる。
「ワフッ、クゥ〜ン……(パパ、こいつも連れて帰ろう? 俺の飯を分けるから!)」
必死な懇願。
黒い子犬も、俺を見上げてプルプルと震えている。
その二つのつぶらな瞳に見つめられて、断れる人間がいるだろうか。
「……美しい。弱き者を庇護するその精神。まさに騎士の鑑ですぞ、ポチ殿!」
ジークが涙ぐみながら一人で感動している。
「……はぁ。食費と予防接種代がかさむな」
俺は深くため息をつきながら、しゃがみ込んで二匹の頭を撫でてやった。
黒い子犬の毛並みは、ポチのフワフワ感とはまた違う、少しツヤのある柔らかい手触りだった。小さな角の周りを撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。
「仕方ない。うちの居候ネットワークに追加だ。……今日からお前もうちの家族だぞ」
「キュ〜ン!」
「ワォォォン!(やったー!)」
二匹の毛玉が、俺の足元で喜びに跳ね回る。
また一つ、騒がしい火種を抱え込んでしまった気がするが、まあ定時退社後の癒やしとしては悪くない投資だろう。
「さて、一条さん」
俺は、いまだに腰を抜かしている京都ギルドの隊長を振り返った。
「鵺は片付けました。新しい家族も増えたことですし、少し早いですけど、お昼ご飯にしませんか? 極上の鴨のローストができますよ」
俺の言葉に、一条はもはや声も出せず、ただカクカクと操り人形のように首を縦に振るしかなかった。
俺は五右衛門にコンロとスキレットの準備を指示し、手に入れたばかりの巨大な鴨肉をどう味付けするか、頭の中でスパイスの配合を組み立て始めた。




