第55話 新幹線パニック
月曜日の朝。午前8時。
東京駅の東海道新幹線ホームは、出張に向かうビジネスマンや、これから旅行へと旅立つ観光客でごった返していた。
だが、その一角だけ、異様に浮いた集団が陣取っており、周囲には目に見えないバリケードのような空間が出来上がっていた。
「師匠! アタシ、新幹線で京都行くの修学旅行以来っしょ! テンション上がるー!」
「ゆき子ちゃん、走らないでください。他のお客様の迷惑になります」
「京都の魔力磁場……西のレイラインの観測が楽しみです。ふふふ……」
「京都の美味しいお漬物……いえ、筋肉に良さそうな湯葉をたくさん食べたいわね」
ゆき子、すず、瞳、しずか。
そして、黒スーツでビシッと決めたジークと、なぜかメイド服のままのクロエ。
S級探索者の大名行列だ。彼らが無意識に放つ強者のオーラと、異常なまでの美男美女ぶりに、周囲の乗客たちが遠巻きにヒソヒソと噂をしている。
「……目立つ。死ぬほど目立つ」
俺は、いつもの作業着の上に薄手のコートを羽織っただけの地味な格好で、深くため息をついた。
足元には、中型犬用の頑丈な魔導キャリーバッグ。
中身はバレーボール大の小型モードに圧縮されているポチだが、実重200キロ超という尋常ではない質量と、中で暴れた時の衝撃に耐えるためには、これくらい過剰に頑丈で少し大きめの入れ物が必要だったのだ。
「仕方ないでしょ。京都ギルドからの要請は『可能な限りの最高戦力』なんだから。……それより、チケット配るわよ」
伊藤みのりが、朝からすでに疲れた顔で指定席のチケットを配り始めた。
今回の移動は、協会が手配したグリーン車だ。
「えーっと、座席番号は……」
「あっ、私、11号車のA席です!」
「私は9号車ね。……ちょっとみのり、なんで私たちがバラバラの号車なのよ」
すずとしずかが不満そうにチケットを見る。
みのりも首を傾げた。
「あれ? おかしいわね。私が予約した時は、全員10号車で固まっていたはずなのに……システムエラーかしら」
「……ふふっ」
俺の背後で、かすかな笑い声がした。
振り返ると、そこには清楚な薄水色のワンピースに、白いカーディガンを羽織った山口純子が立っていた。
普段のコンビニ店員でも、裏の始末屋の顔でもない。完全に「休日のデート」を意識した、可憐な装いだ。
「悠作さん、私たちは予定通り10号車の15番、A席とB席ですね。並び席です♡」
「純子……お前、システムいじったな」
「人聞きの悪いことを言わないでください。偶然、神様が私たちを隣にしてくれただけですよ? もちろん、他の『騒がしい方々』には、静かに過ごせるように別の号車を手配してあげた……神様の慈悲です」
黒い笑顔だ。
凄腕ハッカーでもある彼女にとって、協会の予約システムをいじって、俺たち以外のメンバーを前後の号車にバラバラに弾き飛ばすなど、造作もないことなのだろう。
すずやゆき子たちが「ちょっと純子ちゃん!?」「抜け駆けっしょ!」と騒ぎ始めたが、発車のベルが鳴り響き、有無を言わさず全員がそれぞれの号車へと押し込まれていった。
新幹線が滑るように東京駅を出発した。
グリーン車の快適なシートに深く腰を沈める。
隣には、嬉しそうに俺の腕に身を寄せる純子。
そして足元には、ポチの入ったキャリーバッグ。
「……他の連中がいなくて静かなのは助かるが。純子、お前はコンビニのバイトはいいのか?」
「有給を取りました。悠作さんの出張に同行するのは、私の最優先任務ですから」
純子はニコニコしながら、小さな魔法瓶を取り出した。
「悠作さん、コーヒー淹れてきました。飲みますか? もちろん、悠作さん好みの深煎りです。朝は少し肌寒かったので、温かいものをどうぞ」
「ああ、助かる。朝早かったからな」
紙コップに注がれたコーヒーを受け取る。
一口飲むと、芳醇な香りとしっかりとした苦味が、眠気を吹き飛ばしてくれた。淹れ方も完璧だ。
「美味しいか? 悠作さん」
「ああ。美味い。お前、コーヒー淹れるのも上手いんだな」
「えへへ……。悠作さんの胃袋を満たすために、毎日練習してますから。いずれは、毎朝私が淹れるようになりたいです……一生」
さりげなく重いプロポーズを挟んでくるが、俺は聞こえないフリをして車窓の景色を眺めた。
流れる都市の風景が、次第にのどかな田園風景へと変わっていく。
純子との静かな新幹線の旅。
たまには、こういう落ち着いた時間も悪くない。
そう思っていた、その時だった。
バチッ……!
足元のキャリーバッグから、小さな放電音がした。
「……ん?」
俺が視線を落とすと、キャリーバッグの通気口から、黒いモヤのようなものが漏れ出しているのが見えた。
同時に、グリーン車内の照明が、チカチカと明滅を始める。
「悠作さん、これ……」
「……魔力漏れだ」
俺は舌打ちをした。
バッグの中で、ポチが「クゥ〜ン、クゥ〜ン」と苦しげな声を上げている。
先日の深層での巨大化、そして強引なサイズ圧縮。
その反動が、ここに来て現れたのだ。
ポチの体内で暴走する魔力が、抑えきれずに外へ漏れ出している。
ジリリリリッ!
新幹線の車両の奥から、嫌な警告音が鳴り始めた。
最新の新幹線は魔導駆動で動いている。車内に高濃度の魔素が充満すれば、計器が狂い、最悪の場合は緊急停止、あるいは脱線事故を引き起こしかねない。
「マズいな。このままじゃ新幹線が止まるぞ」
「私がポチの頭を撃ち抜いて気絶させましょうか?」
「やめろ。余計に暴走するわ」
純子が物騒な提案をするのを止め、俺はキャリーバッグのチャックを少しだけ開けた。
中から、尋常ではない熱気が吹き出してくる。
ポチは丸くなり、ガタガタと震えていた。その体毛は逆立ち、青白いスパークが全身を覆っている。
「……腹が減って、魔力制御のエネルギーが足りてないんだな」
俺には原因が分かっていた。
育ち盛りのフェンリルが、あれだけのエネルギーを使ったのだ。朝ごはんだけでは、とても足りるはずがない。
腹が減れば、人間だってイライラして制御が効かなくなる。魔獣ならなおさらだ。
「飯を食わせて、体内の魔力回路を落ち着かせるしかない」
俺は背中に置いた五右衛門の口を開いた。
「純子。少し匂いが出るが、我慢してくれ」
「悠作さんの匂いなら大歓迎ですが?」
「飯の匂いだよ」
俺が五右衛門から取り出したのは、木箱に入った特大の弁当箱だった。
この京都出張の道中、ただの駅弁で済ませるつもりは毛頭なかった。
今朝、早起きして仕込んでおいた、俺たちの昼食用の秘密兵器。
「『特製・深層肉のすき焼き弁当』だ」
パカッ、と木箱の蓋を開ける。
その瞬間、グリーン車の車内に、暴力的なまでに食欲をそそる香りが爆発的に広がった。
醤油の焦げた香ばしさ。
ザラメ糖の深く甘い匂い。
そして何より、極上の和牛が放つ、濃厚な脂の香り。
「っ……!!」
隣にいた純子が、思わず息を呑み、口元を押さえた。
彼女のヤンデレな瞳が、弁当箱の中身に釘付けになる。
弁当箱の中には、白く輝く炊きたての銀シャリ。
その上に、これでもかというほど敷き詰められた、茶色く輝く肉の絨毯。
使っているのは、五右衛門の『内部時間加速機能』で一週間分の熟成を終えた『エンシェント・マンモスの霜降り肉』の端材だ。
端材とはいえ、そのサシの入り方は芸術的で、割り下の色が染み込んでもなお、桜色の美しさを保っている。
脇には、タレをたっぷりと吸い込んだ焼き豆腐、ネギ、そして結び白滝が添えられている。
「……悠作さん、これ、犯罪的な匂いがします……」
「そうだろう。……ほらポチ、食え」
俺は弁当箱の端から、マンモスの肉を何枚か箸でつまみ、キャリーバッグの中のポチの口元へと運んだ。
ガブッ!!
ポチの目がカッと見開き、瞬にも止まらぬ速さで肉に喰らいついた。
そして、ハフッ、ハフッ! と咀嚼する。
「クゥーン……(う、うまい……!)」
ポチの全身を覆っていた青白いスパークが、嘘のようにスゥッと収まった。
極上のアミノ酸と糖分が、枯渇していたポチの魔力回路に急速にエネルギーを供給し、暴走をピタリと止めたのだ。
車内の明滅が収まり、新幹線の警告音も鳴り止んだ。
「……ふぅ。これで一安心だな」
俺は胸を撫で下ろした。
新幹線パニックは、特製弁当によって未然に防がれたのだ。
「……悠作さん。私も、制御が効かなくなりそうです」
隣を見ると、純子が潤んだ瞳で俺を見つめていた。
朝からコーヒーしか飲んでいない彼女にとって、この匂いは拷問に近いだろう。
「まあ、ポチも落ち着いたし、少し早いが昼飯にするか。……食うだろ?」
「はいっ! いただきます!」
俺は木箱の半分を純子に向けた。
そして、五右衛門の保冷スペースから、小さなタッパーを取り出す。
「すき焼きといえば、これがないとな」
タッパーの中には、出汁醤油に漬け込んだ『温泉卵』が入っている。
これを、弁当の肉の海の中央に落とす。
オレンジ色の黄身が、とろりと肉に絡みつく。
「さあ、食え」
純子が割り箸を割り、震える手で、卵が絡んだマンモス肉を、ご飯と一緒に持ち上げた。
そして、小さな口を大きく開けて、パクリと頬張る。
「……んんんっ!!!」
純子が目を見開き、両手で頬を押さえた。
「美味しい……! お肉が、口に入れた瞬間に溶けました……! 醤油のしょっぱさとザラメの甘さが、お肉の濃厚な脂を完璧に引き立ててます! そして、この卵のまろやかさ……!」
彼女は夢中で咀嚼し、嚥下した。
ご飯が進んで仕方がないという様子で、二口目、三口目とかき込む。
「冷めているお弁当なのに、どうしてこんなに柔らかいんですか!?」
「熟成肉だからな。それに、脂の融点が極端に低いから、冷めていても口の中の体温だけで脂が溶け出すように調理してある」
俺も自分の分を食べる。
甘辛い割り下と、マンモス肉の野性味溢れる旨味。
ネギの甘みと、出汁を吸った豆腐の食感が、最高のアクセントになっている。
「……美味いな」
「はい……! 悠作さんと、新幹線の中で、同じお弁当をつつく……。私、今、世界で一番幸せな女です」
純子が、ポッと頬を染めて俺を見上げた。
その瞳には、射殺すようなヤンデレの光はなく、ただ純粋な好意だけが溢れている。
車窓からは、雪を被った富士山が美しく見えていた。
美味い駅弁と、隣で嬉しそうに笑う美女。
そして足元で「もっと食わせろ」と大人しくなった愛犬。
「……まあ、出張も、たまには悪くないか」
俺は残りの肉を口に運びながら、そう小さく呟いた。
ポチの魔力漏れというトラブルはあったが、結果的に純子との穏やかなデートを楽しむことができた。
だが、この平和な時間が続くのも、京都駅に到着するまでのことだ。
これから向かう『百鬼夜行ダンジョン』には、厄介な魔物と、もっと厄介な「プライドの高い京都のS級エリート」たちが待ち構えている。
「定時で片付けて、夜は美味い湯豆腐でも食いたいもんだな」
俺は空になった弁当箱を片付けながら、これから始まる面倒事に思いを馳せ、静かに闘志を燃やすのだった。




