第54話 拒否権なしの京都出張
日曜日の深夜。
明日から始まる京都への「特命出張」に向けた壮行会という名目で、俺のアパート『ひまわり荘』203号室は、深夜にも関わらず異様な熱気と喧騒に包まれていた。
キッチンでは、先ほど俺とのスイーツ対決に敗れ、「料理アシスタント」として軍門に下った英国メイドのS級探索者、クロエ・ヴァンデルが、完璧な姿勢で野菜をカットしていた。
「マイ・ロード! 付け合わせのクレソンの準備、およびガーリックの微塵切り、完了いたしましたわ!」
「ご苦労。……それじゃあ、メインディッシュの調理に入ろうか」
俺、鈴木悠作は、五右衛門の保冷庫からうやうやしく「それ」を取り出した。
分厚いパラフィン紙に包まれた、骨付きの巨大な肉の塊。
魔女の加藤茜が「明日の京都出張の景気づけに」と、独自の裏ルートで仕入れてきた超高級食材だ。
「さあ、見ろ。これが『特大Tボーンステーキ』……それも、専用庫で40日間ドライエイジングさせた極上品だ」
紙を開いた瞬間、リビングで騒いでいたS級探索者たちが、息を呑む音が一斉に響いた。
常温に戻されたその肉は、凄まじい存在感を放っていた。
中央のT字型の骨を境にして、片側にはきめ細やかな赤身の『フィレ』、もう片側には適度な脂が乗った『サーロイン』。二つの部位を一度に味わえる、まさにステーキの王様だ。
熟成によって余分な水分が飛び、旨味が極限まで凝縮された肉からは、ナッツやチーズを思わせる芳醇な熟成香が漂っている。
「……すっげぇ。漫画の肉みたいじゃん」
ゆき子がゴクリと唾を飲み込む。
「アミノ酸の結晶化が見られます……完璧なエイジングです。見ているだけでドーパミンが分泌されます」
瞳がメガネを押し上げながらタブレットで肉を撮影している。
「今日はこれを、『極厚トマホーク・ステーキ』にして食う」
俺は肉をまな板に置き、焼く直前に、ピンクロックソルトと、粗挽きのブラックペッパーを高い位置から満遍なく、たっぷりと振る。厚みがある分、味付けは強めでいい。
コンロに火をつけ、分厚い鉄のフライパンを煙が出るほど熱する。
そこに、少し多めの牛脂を溶かし込む。
「焼くぞ」
骨付きの極厚肉を、一気にフライパンへ投入する。
バチバチバチッ! ジューーーッ!!
部屋中に響き渡る、激しい焼き音。
強火で表面のタンパク質を一気に焼き固め、旨味の流出を防ぐ「メイラード反応」を起こす。
数十秒で肉を裏返すと、見事な焦げ茶色の焼き目がついていた。
熟成肉特有の、むせ返るような濃密な肉の香りがキッチンに爆発する。
「クロエ、ニンニクとローズマリー、タイムを」
「はいっ、マイ・ロード!」
クロエが絶妙なタイミングで、潰したニンニクと新鮮なハーブの枝をフライパンの端に投入する。
さらに、たっぷりの無塩バターを加える。
ブクブクと泡立つバターに、ニンニクとハーブの香りが移る。
俺はフライパンを少し傾け、溶けたバターと肉汁が混ざった黄金の液体をスプーンですくい、肉の表面に何度も、何度も回しかけた。
「……アロゼ、ですね」
クロエが感嘆の声を漏らす。
「ええ。オーブンを使わず、この極厚の肉の中心まで、香りを纏わせながら均一に火を通す……。マイ・ロードの手首の動き、一ミリのブレもありませんわ」
表面はカリッと香ばしく、中はレアに近いロゼ色に。
指で肉の中心を押して弾力を確かめ、最高のタイミングで火から下ろす。
すぐにアルミホイルで包み、余熱で数分間休ませる。この工程が、切った時に肉汁が流れ出さないようにするための魔法だ。
「よし。肉を休ませている間に、飲み物を作るぞ」
俺は五右衛門のワインセラーから、黒光りする重厚なボトルを取り出した。
熟成肉の暴力的なまでの旨味と香りに合わせるには、生半可な酒では太刀打ちできない。
必要なのは、肉の脂を包み込む強烈なタンニンと、それに負けない果実味だ。
「カリフォルニア州ナパ・ヴァレー産の『カベルネ・ソーヴィニヨン』だ」
コルクを抜き、デキャンタに移して空気に触れさせる。
グラスに注ぐと、グラスの底が見えないほど深く、濃いガーネット色の液体が揺れた。
カシスやブラックベリーの濃密な香りに、樽熟成由来のバニラやシガーのニュアンスが混ざり合う。
「できたぞ」
俺はアルミホイルを開き、休ませていたTボーンステーキをカッティングボードに乗せた。
よく研がれたナイフで、骨に沿って肉を切り離し、さらに一口大に切り分ける。
スーッ……。
抵抗なく刃が沈む。
断面から現れたのは、見事なまでに美しいルビー色のグラデーション。
肉汁は一滴も溢れ出ず、すべて細胞の中に留まっている。
「味付けはシンプルに、ガーリックチップと岩塩、あるいは粒マスタードで食え」
「「「いただきます!!」」」
深夜零時を回っているというのに、S級探索者たちの食欲には関係ないらしい。
全員が一斉に極厚の肉切れに群がった。
しずかが、岩塩を乗せたサーロイン部分を口に運ぶ。
「……ッ!!」
彼女の大きな瞳が、限界まで見開かれた。
「な、何よこれ……! 噛んだ瞬間、肉の繊維から爆発的な旨味が溢れてくる! 熟成された香りが鼻を抜けて、脂の甘みと完璧に調和しているわ……!」
「うまっ! こっちのフィレ肉、歯がいらないっしょ! 唇で噛み切れちゃうくらい柔らかい!」
ゆき子も身悶えしながら肉を頬張る。
すずは両手で頬を押さえ、うっとりと天井を仰いだ。
「……美味しいです……。生きててよかったです、鈴木さん。このお肉なら、私、無限に食べられます……!」
クロエも、ナイフとフォークを震わせながら呟いた。
「信じられません……。この焼き加減、エイジングされた素材の引き出し方……英国王室の料理長すら凌駕していますわ。マイ・ロード、一生ついていきます!」
口の中が濃厚な赤身肉の旨味で満たされたところで、重厚な赤ワインを流し込む。
「くぅぅぅぅぅっ!!」
みのりがグラスをドンッと机に置き、最高にだらしない顔で息を吐いた。
「っかー! 効くわねこれ! ワインの力強い渋みが、お肉の脂を綺麗に洗い流して、口の中にブドウの甘い余韻だけを残してくれる……。お肉、ワイン、お肉の無限ループよ。これ、めちゃくちゃ危険なお酒じゃない?」
「ああ。フルボディの赤だからな。飲みすぎると明日起きれないぞ」
俺も自分のグラスを傾け、肉を齧った。
Tボーンステーキの圧倒的な旨味と、ナパ・カベルネの野性味あふれる果実味。
完璧なマリアージュだ。
「……筋肉の隅々まで、超回復のエネルギーが行き渡るのを感じるわ」
しずかがうっとりとしている。
「悠作さんの焼いたお肉……私の血肉になるんですね♡」
純子がおかしなベクトルで興奮している。
足元では、小型モードのポチが、自分用のステーキを掃除機のように吸引し、「ワフッ!(もっと!)」と皿を叩いている。骨ごと噛み砕く音が頼もしい。
五右衛門も『旦那の料理は世界一でヤンス!』と念話で騒いでいる。
平和な、そして最高に贅沢な深夜の宴。
俺は肉を味わいながら、この至福の時間がいつまでも続けばいいと心から思った。
だが。
世の中は、そう甘くはない。
「……さて。お腹も膨れたし、景気づけも済んだことだし」
みのりが、赤ワインのグラスを片手に、スッと表情を仕事モードに切り替えた。
彼女は手元のタブレットを操作し、空間にホログラムの地図を投影した。
「明日の朝一から始まる、京都への特命出張。……その詳細なブリーフィングを始めるわよ」
空気が、一瞬にして引き締まった。
俺はフォークを置き、ため息をついた。
「……やっぱり、タダ飯じゃなかったか」
「当たり前でしょ。これはS級指名依頼よ」
みのりが投影した地図には、日本の古都・京都の中心部が赤くハイライトされていた。
「行き先は、京都の地下に広がる『百鬼夜行ダンジョン』。……東京大迷宮とは全く異なる生態系を持つ、和風の特殊ダンジョンよ」
「和風?」
「ええ。出現するのはオークやゴブリンじゃなくて、妖怪や怨霊の類。物理攻撃が効きにくい厄介な敵が多いわ」
茜が、扇子をパチンと鳴らして補足した。
「数日前から、その『百鬼夜行ダンジョン』の深層で、極めて強大な妖の魔力反応が異常発生しているのですわ。地元の京都ギルドのエリートたちだけでは手が回らなくなり、本部に応援要請が来た……というのが表向きの理由ですわね」
「表向き?」
俺が聞き返すと、茜は三日月のような目で妖しく微笑んだ。
「ええ。私の情報網によると、その異常発生の裏で、世界的犯罪シンジケート『ウロボロス』が暗躍しているという噂がありますの。……先日、悠作様が首領を討ち取り、完全に壊滅させた『蛇の目』……その残党やネットワークを丸ごと吸収した、さらに巨大な組織ですわ」
ウロボロス。
その名を聞いて、純子の目がスナイパーのそれに変わり、ジークが剣の柄に手をやった。
「面倒くさいな……」
俺は心底嫌そうな声を出した。
「世界規模の犯罪組織だか何だか知らないが、俺はただのポーターだぞ。S級の資格は取っちまったが、最前線で妖怪とドンパチやる気なんて毛頭ない。……ジークとしずか、あとすずがいれば十分だろ。俺は東京で留守番してる」
俺がそう言って立ち上がろうとすると、みのりが「待ちなさい」と肩を掴んできた。
「だから、あんたの役職は『特別荷物持ち』よ。前線には立たなくていいから」
「荷物持ち?」
「そう。S級の彼らが全力で戦えるように、後ろから荷物を管理して、必要ならこうして『美味い食糧』を供給して部隊の士気を維持する。……これなら、あんたの信条にも反しないでしょ?」
みのりがジト目で俺を見る。
「それに、あんたには『拒否権』はないわよ?」
「……なんでだ」
「茜さんへの借金、どうやって返すつもり?」
ピピピッ。
背後で、茜が無慈悲な音を立てて電卓を弾いた。
「悠作様。アパートの要塞化リフォームの追加ローンと、先ほどの『熟成Tボーンステーキ』の代金。……明日の出張手当で相殺させていただきますわよ?」
「……肉代、自腹かよ」
俺はガックリと肩を落とした。
あの悪魔的な熟成肉は、罠だったのだ。美味い飯には裏がある。
「……わかったよ。荷物持ちとして、後ろで大人しくしてるからな。絶対に前には出ないぞ。定時になったらホテルに帰って寝るからな」
「はいはい、それでいいわ。……明日は朝一で東京駅から新幹線に乗るわよ。遅刻厳禁だからね」
みのりがパンッと手を叩いて会議を締めくくった。
「ワフッ!(俺も行く!)」
ポチが俺の足元でピョンピョンと跳ねている。
「……ポチも連れて行く。留守番させると拗ねるからな」
「新幹線にフェンリルを乗せる気!? ……まぁ、そのコンパクトサイズなら、大型犬用のキャリーケースに入らなくもないけど……」
みのりが再び胃元を押さえた。
こうして、嵐のような深夜の肉宴は終わり、翌朝からの京都出張が決定した。
世界規模の組織だろうが、大妖怪だろうが知ったことではない。
「定時で帰るために、さっさと荷物持ちの仕事を終わらせてやる」
俺は空になったスキレットを洗いながら、明日からの騒がしい旅路に思いを馳せ、深く溜息をつくのだった。




