第52話 英国からの刺客
日曜日の夕方。
魔女・加藤茜との神楽坂での「お茶会」を終え、俺は単身、練馬区の自宅アパート『ひまわり荘』へと帰ってきた。
茜は「明日の朝一の京都出張、遅刻は許しませんわよ」と念を押し、自分の骨董店へと戻っていった。
初夏の夕暮れ。
オレンジ色の西日が、住宅街のアスファルトに長い影を落としている。
どこかの家から、カレーを煮込むようなスパイシーで温かい匂いや、焼き魚の香ばしい匂いが漂ってきた。
「……カレーか。悪くないな。いや、京都に行く前に冷蔵庫の残り野菜を一掃しておきたいところだ」
俺は今夜の献立を考えながら、のんびりとした足取りで歩いていた。
明日は京都への特命出張。
だからこそ、今夜は自宅で心静かに、美味い飯を食って英気を養わなければならない。
要塞化されたボロアパートが見えてきた。
今朝出かけた時は誰もいなかった静かな部屋。今日も俺の帰りを待つ、可愛い愛犬の顔が脳裏に浮かぶ。
だが。
俺の「平穏な帰宅」は、アパートの門柱の前に立つ異質な存在によって、あっさりと打ち砕かれた。
「……なんだ、ありゃ」
俺は足を止め、目を細めた。
『ひまわり荘』の門柱の隣。
そこに、完璧な姿勢で直立する一人の女性がいたのだ。
目を引くのは、その服装だ。
コスプレではない。漆黒のワンピースに、純白のフリルが幾重にも重なったエプロン。頭には清楚なホワイトブリム。
完璧に仕立てられた、ヴィクトリア朝スタイルのクラシカルな『メイド服』。
彼女は透き通るような金髪を美しいシニヨンにまとめ、碧玉のような青い瞳で、まっすぐにアパートの玄関を見つめていた。
身長は160センチ半ばだろうか。
背筋はピンと伸び、両手は体の前で上品に組まれている。
夕風が彼女の金髪を揺らし、エプロンのフリルがかすかに擦れる音が響く。
まるで、名画から抜け出してきたような幻想的な美しさだった。
(……訪問販売? いや、違うな)
俺の「危機察知」スキルが、微かな、しかし鋭利な警告音を鳴らしている。
彼女から漏れ出る気配は、ただの人間のものではない。
一見すると隙だらけのようでいて、その実、あらゆる方向からの攻撃に対応できる完璧な「武の構え」。
そして、その細い体内に内包された、尋常ではない魔力密度。
S級だ。
それも、ジークやしずかに匹敵するか、あるいはそれ以上の。
俺が警戒しながら近づいていくと、彼女は足音に気づき、クルリとこちらを振り返った。
サファイアの瞳が、俺の姿を捉える。
「……お帰りなさいませ。貴方が、鈴木悠作様でいらっしゃいますね?」
鈴の音のように澄んだ、しかし氷のように冷たい声だった。
流暢な日本語だが、どこか気品のある異国の訛りが混じっている。
「……そうだが。あんたは誰だ」
「ご挨拶が遅れました」
彼女は、右足をスッと引き、両手でエプロンの端を摘まんで、優雅なカーテシーを披露した。
「私は、英国探索者協会より参りました、S級探索者。……そして、栄えある『王立メイド隊』の筆頭を務めております、クロエ・ヴァンデルと申します。以後、お見知りおきを」
「英国の……S級?」
俺は眉をひそめた。
先日のスタンピード騒動で、俺の名前が裏社会や各国の協会に知れ渡ったことは、みのりから聞いていた。
だが、まさかこんなに早く、しかも海の向こうから直接「刺客」がやってくるとは。
「その英国のS級様が、こんな日本の片田舎のボロアパートに何の用だ。……うちはメイドを雇う余裕なんてないぞ」
「ふふ。ご冗談を。……私の目的は、一つです」
クロエは組んでいた手をスッと解いた。
「『東京大迷宮のスタンピードを、たった数名のパーティで鎮圧した英雄』。……その真偽を、私のこの目で確かめるためでございます」
「英雄じゃない。俺はただの荷物持ちだ」
「ええ。資料にはそうありました。……ですが」
クロエの目が、スッと細められる。
その瞬間、夕暮れの空気が一気に凍りついた。
「本国の上層部は、貴方のことを『極めて危険なイレギュラー』と見なしております。もし貴方が、世界秩序を乱す存在であるならば……私がここで、適切に『お掃除』をさせていただく所存です」
「……お掃除ねぇ」
俺はため息をつき、首の骨をポキリと鳴らした。
定時の時間が迫っているというのに、面倒な残業が舞い込んできたものだ。
「悪いが、他所でやってくれ。俺はこれから晩飯の支度があるんでね。冷蔵庫の野菜が傷む前に使い切りたいんだ」
俺は彼女を無視して、アパートの門を通り抜けようとした。
だが、俺がクロエの横をすり抜けようとした、その瞬間だった。
シュッ!!
空気を裂く鋭い音。
俺は反射的に上体を反らした。
コンマ数秒前まで俺の首があった空間を、銀色の閃光が通り抜けていく。
それは、クロエのスカートの隠しポケットから射出された、純銀製の『バタフライナイフ』だった。
「……ほう。今の凶刃を、その無造作な歩法のまま躱しますか」
クロエが感嘆の声を漏らす。
だが、彼女の攻撃はそれで終わりではなかった。
彼女はメイド靴の踵を鳴らし、バネが弾けるような速度で俺の懐へと踏み込んできた。
両手には、銀色に輝くナイフが合計四本。
「では、これはどうでしょう!」
銀の雨が降る。
急所――目、喉、心臓、大動脈。
そのすべてを同時に貫こうとする、美しくも冷酷な刃の乱舞。
それはまさに、プロフェッショナルの暗殺術だった。
「……チッ」
俺は舌打ちをし、最小限の動きでナイフの軌道を躱していく。
右へ半歩、左へ一歩。首を数ミリ傾け、肩を引く。
彼女のナイフは俺の作業着をかすめるが、皮膚には決して届かない。
――スキル【虚空殺】・回避術式。
「素晴らしい……! やはり、噂は真実でしたか。その脱力しきった体捌き、まさに達人の領域。ですが!」
クロエがさらに踏み込む。
ナイフを持った右手が囮となり、彼女の左足が俺の膝関節を砕きにきた。
殺しはしないが、無力化する。そんな冷徹な計算が見える一撃。
俺がその蹴りを捌こうと、重心を移した時だった。
「ワフゥゥゥゥッ!!」
突如、アパートの屋根の上から、白い毛玉が降ってきた。
「……なっ!?」
クロエが驚愕に目を丸くする。
俺の帰りを待っていた愛犬のポチだ。
バレーボールサイズのままのポチは空中で体を丸め、まるで砲弾のような勢いで、クロエの顔面に向かって突撃した。
「犬……!? いえ、この濃密な魔力は……!」
クロエは咄嗟にナイフをクロスさせ、ポチの突撃を防御しようとする。
だが、ポチの動きは彼女の予測を完全に裏切った。
ヒラリ。
空中で、ポチがまるで無重力空間にいるかのように、ふわりと軌道を変えたのだ。
その動きは、まさに『チョウのように舞う』という表現がふさわしかった。
真っ白な毛並みが夕日を受けて輝き、空中を優雅に滑空し、クロエの放ったナイフの切っ先をギリギリで躱していく。
「消えた……!?」
クロエがナイフを振るった先には、すでにポチの姿はない。
ポチはクロエの頭上を飛び越え、その背後に回り込んでいた。
そして。
「キュンッ!」
可愛い鳴き声とは裏腹に。
ポチは、クロエの膝の裏に向かって、小さな前足を真っ直ぐに突き出した。
トンッ。
柔らかな肉球による、絶妙な力加減の打撃。
それはただのタッチではない。フェンリルの魔力が針のように極限まで凝縮された、文字通り『ハチのように危険な』一撃だった。
「あっ……!」
クロエの口から、メイドらしからぬ小さな悲鳴が漏れた。
膝の腱にピンポイントで魔力を流し込まれ、彼女の足から一瞬にして力が抜ける。
完璧だった彼女の姿勢が崩れ、クロエはたまらずその場に膝をついた。
ガクンッ。
アスファルトにメイド服のスカートが円を描いて広がる。
「ワフッ!(パパをいじめるな!)」
ポチは着地すると同時に、俺の足元に駆け寄り、クロエに向かってドヤ顔で胸を張った。
バレーボールサイズの小さな体で、S級のメイドを威嚇している。
その姿の、なんと愛らしく、そして頼もしいことか。
「……よしよし、いい子だポチ。留守番えらかったな」
俺はポチを抱き上げ、フカフカの頭を撫でた。
ポチは嬉しそうに尻尾をプロペラのように振り、俺の手をザリザリと舐めてくる。
最近、ポチの戦闘IQがうなぎ登りだ。俺の動きを見て、人体の急所の突き方まで学習しているらしい。
「ば、馬鹿な……。私ともあろう者が、このような愛らしい子犬の……一撃で……!?」
膝をついたクロエが、信じられないものを見る目でポチを見上げている。
彼女のプライドが、音を立てて崩れ去っていくのが見えた。
「子犬じゃない。フェンリルだ。……まあ、今はコンパクトモードだがな」
俺はポチを抱いたまま、クロエを見下ろした。
彼女は膝の痺れが取れないのか、すぐには立ち上がれないようだ。
「……で、お掃除の件だが。まだ続けるか?」
「…………」
クロエは悔しそうに唇を噛んだが、やがてスゥッと深く息を吸い込み、表情を冷徹なメイドのそれに戻した。
そして、ゆっくりと立ち上がり、乱れたスカートの埃を払う。
「……いいえ。私の負けでございます」
クロエは、深々と頭を下げた。
「貴方の、いかなる殺気にも動じない絶対的な『静』の体捌き。そして、この神獣を飼い慣らす器の大きさ。……私が単独で挑んで勝てる相手ではないと、理解いたしました。無礼な振る舞い、どうかお許しください」
「わかればいい。帰ってくれ」
俺が背を向けてアパートに入ろうとすると、クロエは慌てたように声を上げた。
「お待ちください! 私は敗北いたしました! 英国メイドの掟に従い、敗者は勝者に仕えなければなりません!」
「は? なんだその変な掟」
「それに……」
クロエは顔を赤らめ、少しモジモジとしながら、ポチを見つめた。
「そ、その……愛らしいワンちゃんのモフモフを……いえ、生態を、もう少し近くで観察させていただきたく……ッ!」
どうやら、クロエもポチの可愛さにやられたクチらしい。
冷徹な暗殺メイドの仮面の下は、ただの犬好きのようだ。
「……はぁ。どいつもこいつも」
俺はため息をついた。
ジークといい、このクロエといい、S級の連中は一度負けるとすぐにストーカー化する。
「……入るなら入れ。ただし、夕飯の準備の邪魔はするなよ」
俺がそう言うと、クロエの顔がパァッと明るくなった。
「はいっ! ありがとうございます、ご主人様!」
「マイ・ロードって呼ぶな。名前で呼べ。あと、うちはメイドを雇う金はないぞ」
「では、悠作様! 私、お食事の準備はお手伝いいたしますわ。こう見えても、英国王室認定のメイド料理資格を持っておりますので」
クロエは意気揚々と、俺の後に続いて『ひまわり荘』の敷地内へと足を踏み入れた。
だが、玄関のドアを開けた瞬間。
「……へ?」
クロエの足が止まった。
ボロアパートの外観からは想像もつかない、最新鋭の生体認証ロック。
そして、天井から響く電子音。
『お帰りなさいでヤンス、旦那! ……おや、また新しいメス豚を拾ってきたでヤンスか?』
「なっ……!? 家が喋りましたわ!?」
「気にするな。ただの喋る風呂敷だ」
さらに、リビングの奥からは、今朝出かけた時には誰もいなかったはずの住人たちの騒がしい声がする。
「あっ、悠作帰ってきた! おかえりー! 明日から京都行くってマジ!? アタシらで壮行会しなきゃっしょ!」
「鈴木さん、お疲れ様です! みのりさんから聞きましたよ。京都への特命出張なんてずるいです、私にも護衛させてください! あ、その女の人、誰ですか?」
「……見慣れない筋肉ね。プロテインは足りているかしら。京都の前に、私と特訓して重心の確認をしていくべきよ」
ゆき子、すず、しずか。
そして、部屋の隅で「京都の魔力磁場のデータが取れますね……同行します」とタブレットを叩く瞳と、「私が手配したんだから、壮行会の準備くらい手伝いなさいよ。出張費の手続きも終わってるわよ」とソファでふんぞり返っているみのり。
どうやら、神楽坂で別れた茜からみのりへ情報が渡り、それがこの暇を持て余したS級たちに一瞬で共有されたらしい。
クロエは、部屋の中にひしめくS級美女たちの高密度なオーラに当てられ、完全にフリーズしてしまった。
「な、なんですかここは……。日本のS級探索者が、なぜこんな狭い部屋に密集しているのですか……!?」
「俺が聞きたいよ」
俺は肩をすくめ、キッチンへと向かった。
明日は京都への特命出張。
だが、その前に、この英国からの刺客に「日本の夕飯」の洗礼を浴びせ、そしてこの騒がしい居候たちに野菜を片付けさせなければならないらしい。
俺の定時退社後の平穏は、今日もまた、騒がしい来客たちによって遠ざかっていくのだった。




