第51話 平和な朝と不吉な特達
世界を揺るがした東京大迷宮の『スタンピード』から、数週間が経過した。
季節は巡り、初夏の爽やかな風が街を吹き抜ける時期になっていた。
木造アパート『ひまわり荘』の203号室。
そこには、休日の朝特有の、のんびりとした空気が漂っていた。
「……うん、いい天気だ。絶好の洗濯日和だな」
俺、鈴木悠作は、ベランダでシーツを干しながら、大きく伸びをした。
空は高く、青い。
最近は、アパートに常駐していたS級の居候たち――ジークやしずか、ゆき子やすずたちも、スタンピード後の事後処理や、溜まっていた自身の依頼をこなすために各地へ飛び回っており、珍しくこの部屋には俺とポチしかいなかった。
みのりも協会で激務に追われているはずだ。
「ワフゥ……(ねむい)」
足元では、ソフトボール大のサイズに圧縮されたポチが、日向ぼっこをしながら大あくびをしている。
これが本来の「平和な日常」というやつだ。
「よし、朝飯にするか。今日は誰もいないから、俺とポチの分だけでいいな」
俺は腕まくりをしてキッチンに向かった。
大人数の胃袋を満たす大量調理も嫌いではないが、自分のためだけに作る一人前の朝食というのも、格別な趣がある。
今日のメニューは決まっていた。
シンプルにして至高。朝食の王様。
「『究極の目玉焼きベーコン』だ」
俺は五右衛門の保冷庫から、一本の巨大なブロック肉を取り出した。
数週間前、深層へ向かう途中の氷結回廊で狩った『スノー・ボア』のバラ肉を、塩とスパイスに漬け込み、桜のチップでじっくりと燻製にした、自家製の特級ベーコンだ。寒冷地に生息する猪だけあって、その脂の甘みは群を抜いている。
ザクッ、ザクッ。
俺は包丁を入れ、ベーコンを厚さ2センチほどの「超厚切り」にカットする。
断面からは、ルビーのような赤身と、雪のように白い脂身が美しい層をなしているのが見える。
火にかけた鉄のフライパンに、油は引かない。
厚切りベーコンをそのまま置く。
ジワァァァァ……!
熱された鉄肌に触れた瞬間、ベーコンから上質な脂が溶け出し、パチパチと心地よい音を立て始める。
燻製のスモーキーな香りと、豚の脂の甘い匂いが、狭いキッチンに爆発的に広がった。
「ワフッ!」
匂いにつられて、ポチがキッチンマットの上にお座りをして尻尾を振り始めた。
「待ってろ。今極上にしてやる」
ベーコンの表面がカリッと黄金色に焼けたら、フライパンの端に寄せる。
そして、ベーコンから溶け出したたっぷりの脂の海に、卵を二つ、そっと落とす。
使用するのは、ダンジョン産の『コカトリスの卵』。黄身が濃いオレンジ色をしており、箸でつまめるほどの弾力がある高級品だ。
ジュワッ! パチパチッ!
脂が白身の縁をカリカリに揚げ焼きにしていく。
俺は少量の水を差し、素早く蓋をした。
ここからは秒単位の勝負だ。黄身の表面に薄く白い膜が張り、中はトロトロの半熟。これが目玉焼きの黄金律だ。
「……よし、今だ」
蓋を開ける。
湯気と共に現れたのは、カリカリに焼けた厚切りベーコンと、その旨味をたっぷり吸い込んだ、完璧な半熟目玉焼き。
粗挽きのブラックペッパーと、ほんの少しの醤油を垂らす。
炊きたての白いご飯と、豆腐とワカメの味噌汁を添えて完成だ。
「いただきます」
ちゃぶ台に座り、まずは厚切りベーコンを箸で持ち上げる。
ズシッと重い。
そのままかじりつく。
サクッ……ジュワァァァ……!
「……っ!!」
表面の香ばしい焦げ目の奥から、濃厚な肉汁が奔流となって溢れ出す。
燻製の香りが鼻に抜け、脂の甘みが舌の上で溶ける。市販の薄いベーコンでは絶対に味わえない、圧倒的な「肉の暴力」だ。
すかさず、ご飯をかき込む。
豚の脂と塩気が、熱々の白米とこの上なく合う。
そして、主役の目玉焼きだ。
箸でオレンジ色の黄身を突く。
トロン、と黄金色のマグマが流れ出す。
それをベーコンに絡め、ご飯の上でバウンドさせて口に運ぶ。
「……最高だ」
コカトリス卵の濃厚なコクが、スノー・ボアの塩気をまろやかに包み込む。
白身の縁のカリカリとした食感が、素晴らしいアクセントになっている。
これ以上の贅沢があるだろうか。
いや、ない。俺の求めていた平穏は、まさにこの一口の中に集約されている。
ポチも、自分用の皿に顔を突っ込んで、夢中でハフハフと食べている。
穏やかな日曜日の朝。
時計の針は午前9時を回ったところ。
食後のコーヒーを淹れて、このまま昼寝でもしよう。
そう思っていた、その時だった。
ピンポーン。
無機質なインターホンの音が、静かな部屋に響いた。
「ん? 宅配便か?」
俺はコーヒーカップを置き、玄関のモニターを確認した。
そこに映っていたのは、探索者協会の制服を着た配達員だった。
表情は硬く、手には赤い封筒を持っている。
「……嫌な予感がする」
俺の「危機察知」スキルが、微弱だが確かな警鐘を鳴らした。
ドアを開けると、配達員はビシッと敬礼をした。
「鈴木悠作様ですね! 協会本部より、特別書留です! サインをお願いします!」
「……受け取り拒否は?」
「できません! 受領確認が取れない場合、協会長が直々にこのアパートを訪問する手はずとなっております!」
脅迫か。
俺はため息をつき、渋々サインをして赤い封筒を受け取った。
リビングに戻り、ペーパーナイフで封を切る。
中に入っていたのは、金色の箔押しがされた重厚な羊皮紙。
『特命出張依頼』
そのタイトルを見た瞬間、俺は迷わず羊皮紙を二つ折りにし、そのままゴミ箱へ放り投げようとした。
「見なかったことにしよう」
特命出張。
それは、S級探索者に対する「絶対強制」の依頼だ。定時退社を愛する俺にとって、最も縁遠い言葉である。
だが、俺の手がゴミ箱に到達する直前。
「……それは感心しませんわね、悠作様」
背後から、鈴を転がすような、しかし恐ろしく圧の強い声が響いた。
俺が振り返ると、そこには、いつの間にか部屋に侵入していた魔女――加藤茜が、紫色の座布団の上に優雅に正座していた。
「茜……お前、また勝手に結界を通り抜けてきたな」
「あら、このアパートのセキュリティシステムは私が設計しましたのよ? バックドアくらい用意してありますわ。……それより、その赤い封筒」
茜はパチンと扇子を広げ、口元を隠して三日月のような目をした。
「協会からの特達……。中身は『京都・百鬼夜行ダンジョンにおける異常事態の調査』ではありませんこと?」
「……なんでお前が知ってるんだ」
「情報屋を舐めないでいただきたいですわね。京都のダンジョンで、ここ数日『強力な妖の魔物』が異常発生しているのです。地元のS級だけでは手が回らず、本部からの応援として、スタンピードを解決した悠作様に白羽の矢が立った……というわけですわ」
茜の言葉に、俺は頭を抱えた。
「断る。京都なんて遠すぎる。俺は今日、近所のスーパーでトイレットペーパーの安売りに行く予定があるんだ」
「無駄ですわ。この特命依頼を無視すれば、協会からの支援は打ち切られます。それに……悠作様、当店の『五右衛門』の分割払いに加え、アパートの要塞化工事費やオーダースーツ代など、追加ローンも合わせてまだ数千万円ほど残っておりますわよね?」
茜がいやらしい笑顔で電卓を叩く。
ピピピッ、と無慈悲な電子音が鳴る。
「今回の出張依頼、成功報酬は金貨1000枚。……これを受ければ、借金は大幅に減りますわよ?」
「……くそっ。金を盾にされると弱い」
俺はゴミ箱の上の手を引っ込め、赤い封筒を机に置いた。
どうやら、俺の平穏な休日はここで終了らしい。
「ふふっ、物分かりが良くて助かりますわ。……ということで、京都への出発は明日の朝一となりますが」
茜は扇子を閉じ、スッと立ち上がった。
そして、トントンと着物の裾を直す。
今日の彼女は、いつもの矢絣柄の着物ではなく、艶やかな薄紫色の小紋を着ており、帯も金糸の入った高級なものを締めていた。
髪も、いつもより少し華やかに結い上げられている。
「今日は日曜日。出発までには、まだ一日ありますわね」
「ああ、そうだな。……だからトイレットペーパーを買いに……」
「悠作様」
茜が、スッと俺の腕に触れた。
その指先は冷たく、そして白檀のようないい香りがふわりと漂った。
「出張の情報提供料と、アドバイスの代金……。本日は『特別払い』で相殺して差し上げますわ」
「……特別払い?」
「ええ。たまには、私とお出かけしませんこと? もちろん、エスコートは悠作様にお願いしますわ。……いわゆる、デート、というやつですわね」
茜が、小悪魔のように微笑んだ。
俺はポカンと口を開けた。
あの「金が全て」の守銭奴魔女が、デートに誘ってきた?
明日は嵐か、いや、もうすでに特命出張という嵐が来ているが。
「……行き先は? まさか闇オークションの護衛とかじゃないだろうな」
「失礼な。今日は純粋なプライベートですわ。……神楽坂に、美味しい甘味処を見つけましたの」
甘味。
その言葉に、俺の料理人としてのアンテナがピクリと反応した。
「……仕方ないな。情報料のツケを払うためだ。付き合うよ」
一時間後。
俺たちは、石畳が続く神楽坂の路地裏を歩いていた。
休日の神楽坂は、和の風情とモダンな空気が入り混じり、多くの人で賑わっている。
その中でも、薄紫の着物に身を包み、優雅に歩く茜の姿は、すれ違う人々の視線を釘付けにしていた。
「……お前、目立ちすぎだ」
「あら、私は普通に歩いているだけですわよ。悠作様が隣にいるから、余計に視線を集めているのではありませんこと?」
茜がくすくすと笑う。
俺はいつもの作業着を避け、無難な黒のシャツとスラックスという格好だったが、身長が190センチ以上あるため、どうしても目立ってしまう。
美女と大男。周りから見れば、不釣り合いなカップルに見えるだろう。
「ほら、着きましたわ。ここですの」
茜が立ち止まったのは、黒塀に囲まれた、隠れ家のような和カフェだった。
暖簾をくぐり、通されたのは中庭が見える静かな個室。
「ここ、予約が数ヶ月待ちの店だぞ。どうやって取ったんだ」
「情報屋のコネクションを舐めないでいただきたいですわね。……さあ、注文しましょう」
俺たちが頼んだのは、この店の看板メニューである『極上・濃茶パフェ』と『本葛きり』だ。
運ばれてきたパフェは、芸術品だった。
鮮やかな緑色の抹茶アイス、白玉、小豆、そして金箔が添えられている。
茜は目を輝かせ、小さなスプーンを手に取った。
「いただきますわ」
茜が抹茶アイスを一口食べる。
その瞬間、彼女の顔から「商人」の仮面が剥がれ落ち、年相応の、純粋にスイーツを楽しむ女の子の表情になった。
「……んんっ……! 抹茶の苦味がとても深く、それでいて小豆の甘さが上品に引き立てていますわ……。冷たさが口の中で溶けて、幸せが広がりますの……」
「そうか、そりゃよかった」
俺は自分の『くずきり』を黒蜜につけて啜った。
ツルリとした喉越しと、氷水で締められた本葛の強い弾力。
黒蜜のコクのある甘さが、歩き疲れた体に染み渡る。
「……美味いな」
「ええ。最高の休日ですわ」
茜はパフェを崩さないように、丁寧に食べ進めている。
その姿を見ていると、アパートに借金を取り立てに来る時の冷徹な魔女と同一人物とは思えなかった。
「……なあ、茜」
「何ですの?」
「京都の件。本当は、ただの魔物発生じゃないんだろ?」
俺が静かに問うと、茜の手がピタリと止まった。
彼女はスプーンを置き、中庭のししおどしが「コーン」と鳴る音を聞きながら、ふぅと息を吐いた。
「……さすが、悠作様。鋭いですわね」
茜の瞳に、再び「情報屋」としての鋭い光が戻る。
「ええ。京都の異常発生……その裏には、スタンピードの時に暗躍していた『蛇の目』の残党、いえ、彼らを吸収した世界的シンジケートが絡んでいるという情報がありますわ」
「……面倒なことになりそうだな」
「ですが、美味しい食材もたくさんいるはずですわよ? 悠作様の腕の見せ所ですわ」
茜が小悪魔のように微笑む。
俺は残りのくずきりを飲み込み、渋々と頷いた。
「わかったよ。きっちり仕事はこなすさ。……その代わり、今日のデート代は経費で落とさせてもらうぞ」
「あら、それはダメですわ。デートの費用は、殿方が払うのがマナーというものですわよ?」
茜が扇子で口元を隠し、コロコロと笑う。
結局、彼女の掌の上で転がされているような気がする。
だが、この静かなお茶の時間と、彼女が見せた無防備な笑顔は、悪くない情報料だった。
明日から始まる、京都での激動の出張。
俺の定時退社を脅かす新たな嵐の予感を前に、俺たちは少しだけ、甘く平穏な時間を味わったのだった。




