第5話 魔女の骨董店
「鈴木ーっ! いるんでしょ! 開けなさい!」
錆びついたドアノブに手をかけたまま、俺は完全に硬直していた。
薄い鉄扉の向こう側から、みのりの荒々しい息遣いと、靴のつま先でドアの下部を蹴り飛ばしているドン、という鈍い音が直接伝わってくる。
言い訳を考えていたはずだった。酒を飲んで潰れていた、と。だが、この凄まじい剣幕を前にして、そんな安易な嘘が通じるはずがない。顔を合わせた瞬間、胸ぐらを掴まれ、終わりの見えない事情聴取と説教のコースに連行されるのは確実だ。
(……逃げよう)
俺は音を立てないようにドアノブからそっと手を離し、じりじりと後ずさりした。
ちゃぶ台の上に放置していたスマホと財布をひったくるようにポケットへ押し込み、昨日の魔石がカーゴポケットに入っているのを確認する。
玄関からは逃げられない。俺はキッチンの小窓を静かに開けた。
アパート『ひまわり荘』の裏手は、大通りから外れた湿った路地裏に面している。二階程度の高さなら、今の俺にとってはちょっとした段差と変わらない。
サンダルを突っ掛けただけの足で、窓枠を蹴って外へと身を躍らせる。
着地と同時に、頭上から「開けろー! 居留守は罪を重くするだけよー!」という叫び声が響いた。
悪いな。だが俺は今日、絶対にやらなきゃならないことがあるんだ。
俺は作業着のフードを目深に被り、影に溶け込むように路地裏の奥へと姿を消した。
★★★★★★★★★★★
東京大迷宮の周辺には、探索者たちを相手にする巨大な商店街が広がっている。
表通りには、大手クラン御用達の煌びやかな武器屋や、全国チェーンの素材買取店が軒を連ねているが、俺が向かうのはそこではない。
表の華やかさとは完全に断絶された、日の当たらない細い路地裏。通称『ゴブリン横丁』。
正規のルートでは扱えない出所不明のアーティファクトや、ギルドへの報告義務を無視した稀少素材が日々取引されているブラックマーケットだ。
歩きながらスマホを盗み見れば、相変わらず物騒なワードが通知欄を埋め尽くしている。
こんな状況で表の買取店に行き、F級の俺が場違いな階層主の魔石を差し出せば、その瞬間に通報されるか、ハイエナたちに囲まれるのが関の山だ。
だからこそ、口が堅く、俺の顔を知っていても余計な詮索をせず、確実に買い取ってくれる『あの店』に行く必要があった。
腐った生ゴミとカビの臭いが入り混じる路地を進み、突き当たりにひっそりと佇む古びた木造家屋の前で足を止める。
軒先に吊るされた看板には、掠れた墨文字で『加藤骨董堂』と書かれていた。
入り口には「一見さんお断り」の札。普通の客なら一歩近づいただけで回れ右をして逃げ出すような、陰気で重苦しい空気が漂う店だ。
カラン、コロン……。
錆びついたドアベルを鳴らして中に入る。
店内は埃っぽく、それでいて、どこか乾燥した甘いお香の匂いと古書特有の香りが混ざり合った独特の空気が充満していた。
天井まで積み上げられたガラクタの山。不気味な造形の仮面や、今にも血が滴りそうな古びた大剣が無造作に立てかけられている。
「……ごめんください」
俺が声をかけると、奥のカウンターの影から、ぬらりと人影が現れた。
「いらっしゃいませ……。あら?」
現れたのは、この店の陰湿な雰囲気には到底似つかわしくない女性だった。
年齢は二十代半ば。艶やかな黒髪を緩くまとめ、矢絣柄の着物に袴を合わせた大正ロマン風の装い。
透き通るような白い肌を持つこの店の主であり、魔女とも噂される加藤茜だ。
彼女は俺の顔を認識した瞬間、冷たい空気を溶かすような、柔らかな笑みを浮かべた。
「これはこれは、悠作様ではありませんか」
「よお。久しぶりだな」
「ええ、一週間ぶりですわね。……ふふっ」
茜は扇子で口元を隠し、俺の全身を舐めるように視線でなぞった。
その目が、怪しく細められる。
「また随分と……芳しい『死の香り』を纏っていらっしゃいますこと。昨晩、何かとても大きなモノを解体なさいましたわね?」
「……鼻がいいな、相変わらず」
彼女は探索者ではないが、物質に宿る「念」や「来歴」を視る特殊な鑑定眼を持っている。俺が昨日ミノタウロスを処理した際の、微かな殺気の残り香を感じ取ったらしい。
「それで、本日はどのような『ガラクタ』をお持ち込みで?」
「ガラクタじゃない。極上の素材だ」
俺は右のカーゴポケットから、重い魔石を取り出した。
ゴトリ、とカウンターの木材が軋む音と共に置かれたのは、大人の握り拳よりも二回りほど大きい深紅の結晶だ。
薄暗い店内で、そこだけが妖しく発光しているように見える。
「……ほう」
茜の瞳の奥に、刹那、鋭い光が灯った。
彼女は白手袋をはめると、恭しく魔石を手に取った。ルーペを取り出し、あらゆる角度から光を当て、結晶の密度を確認する。
「素晴らしい……。19階層のエリアボス、ミノタウロス・ジェネラルの心臓核。しかも、傷一つない完璧な抽出。魔力の純度は、そう……Sランク相当と見て間違いありませんわ」
「いくらになる」
「そうですわねぇ。通常の裏取引ルートであれば、800万ってところかしら」
妥当な数字だ。この魔石があれば、新しいリュックを買い、さらに向こう半年は働かずにビールと良い肉を楽しめるだろう。
だが、茜の口角が吊り上がったのを見て、俺は嫌な予感を覚えた。
「悠作様、私もこれでもトレンドには敏感ですのよ?」
茜はルーペを置き、カウンターの下から自身のスマホを取り出した。
画面には、例の配信切り抜き動画が再生されている。
「『パジャマの英雄』。今、世界で最もホットな人物。そんな方が持ち込んだ『初仕事の証拠品』となれば、単なる素材としての価値を超えたプレミアムがつきますわ。コレクターなら倍を出しても欲しがるでしょうね」
「は……? なんだその動画。カイトのデマじゃなくて、俺の映像がそのまま流れてるのか?」
俺は茜のスマホを覗き込み、完全に絶句した。
画面の中では、俺がミノタウロスを解体する様子が、信じられないほど鮮明な主観映像で再生されている。俺自身が、顔の半分から下と、特徴的なナイフの動きを全世界に垂れ流していたのだ。
あの壊れかけのドローン……カイトが手切れ金代わりに投げ捨てていったあのガラクタが、まさか俺のポケットの中で生配信を続けていたというのか。
「あら、ご自身の世界デビューをご存知ありませんでしたの? 悠作様のそのいつも通りの冴えないお顔、いくら画質が荒くても見間違えるはずがありませんもの」
茜はコロコロと鈴を転がすように笑う。やはり、この女には誤魔化しが利かない。
「ですが、悠作様。動画を拝見しましたけれど……随分と身軽な格好で戦っていらっしゃいましたわね」
茜の視線が、俺の背中に向けられる。そこには、いつも背負っていた巨大なリュックがない。
「あの大きな荷物はどうなさいましたの? お知り合いのパーティに預けてきたのか、それとも……何らかの事情で『手放す羽目になった』のかしら」
「……痛いところを突くな」
俺の正体隠蔽において、大量の物資を不自然なく運べるリュックは必須アイテムだ。しかし、カイトたちに奪われた以上、早急に代わりの品を調達しなければならない。
「やはり、新しい入れ物をお探しで? 高性能な収納具は数千万、あるいは億単位の価格がつきますが……」
「この魔石を売った金で、そこそこの安物を買えればいい。どうせまた目立たないように荷物を運ぶだけだ」
「そこで、一つご提案がありますの」
茜はカウンターの下から、一つの木箱を取り出した。
封印のお札が幾重にも貼られた、見るからに曰く付きの代物だ。
「これをお譲りしましょうか」
「……嫌な予感しかしないんだが」
「ご安心を。性能は折り紙付きですわ。容量は実質無限、重量軽減100%、さらには自律行動機能付き。最新の軍用モデルにも匹敵するオーパーツです」
茜が封印を解き、箱を開ける。
中に入っていたのは、一枚の古ぼけた、どこにでもあるような布だった。
緑色の地に白い唐草模様が描かれた、大きな風呂敷だ。
「……風呂敷かよ」
「ただの風呂敷ではありません。『万能包み・五右衛門』。戦国時代の伝説的な大泥棒が愛用していたとも言われる、唯一無二の魔導具ですわ」
「へえ。で、呪いの内容は?」
「ほんの少し、性格に難があるだけです」
茜が風呂敷の端をつまみ上げると、信じがたいことが起きた。
風呂敷の結び目が勝手にうねうねと動き出し、布の皺が、狡猾そうな人の顔を形作ったのだ。
『――ケッ! 眩しいでヤンスねぇ! いきなり起こすんじゃねえでヤンスよ!』
風呂敷が喋った。
しかも、やたらとガラが悪い江戸っ子のような口調だ。
「……喋るのかよ」
「ええ。意志を持つ魔導具ですわ。自分でアイテムを選別して収納してくれますし、持ち主以外が触れれば指を噛みちぎる盗難防止機能も備えています。今の悠作様には、これ以上ない逸品ではありませんか?」
『おいおい、姐さん! 今度の主人はこの冴えないおっさんかよ! 貧乏臭ぇツラしてんなぁ!』
「……おまけに口も悪いな」
俺は眉をひそめた。静かに暮らしたい俺にとって、背後で騒ぎ立てる道具は最大の懸念材料だ。
「お断りだ。もっと普通の、喋らないリュックをくれ」
「あら残念。これ以外に、今の悠作様の予算で『即納可能』な、そして階層主の素材にも耐えうる大容量バッグは在庫切れですの」
嘘だ。絶対に奥の倉庫に一つや二つは隠し持っている。
茜は扇子で顔の下半分を隠しながら、目を細めた。
「それに、この五右衛門ちゃんなら、今回の魔石の下取り価格と相殺して……そうですね、残り『1000万』で手を打ちましょう」
「はあ!? ボッタクリだろ! 魔石が800万だとして、この布切れに1800万の価値があるわけないだろ!」
『誰が布切れだコラ! 天下の大泥棒様の傑作だぞ!』
風呂敷が暴れるのを無視して、俺は抗議する。しかし、茜は涼しい顔で真鍮製の電卓を叩き始めた。
「悠作様。物の価値というのは、需要と供給で決まりますの。今、身バレして公的機関からも追われている貴方様にとって、この店は数少ない避難所。違いますか?」
「くっ……」
「それに、悠作様の実力をもってすれば、1000万なんて端金ですわ。すぐに稼げますでしょう?」
茜はカウンターに一枚の羊皮紙を広げた。魔法契約書だ。
「お支払いはローンで構いませんことよ。金利は、お友達価格でトイチ……十日で一割に負けておきますわ♡」
「闇金じゃねえか!!」
俺は叫んだ。法定金利を何十倍もオーバーしている。
だが、茜は全く悪びれる様子なく、筆ペンを俺に差し出してきた。
「嫌なら、魔石を持って他のお店に行かれます? 今頃、表通りにはマスコミの方々や、熱心なファンたちが目を光らせているかもしれませんけれど」
「…………」
完全に足元を見られている。俺は天を仰いだ。
今の俺に必要なのは、隠密性と、即座に身を隠せる機動力だ。この風呂敷の性能が茜の言う通りなら、今後の活動において大きな助けにはなるだろう。
金なんて、またダンジョンに潜ればいい。平穏な日常を取り戻すためなら、1000万の借金くらい……。
「……わかった。買うよ。契約だ」
「ありがとうございます! 毎度あり〜!」
茜の声が弾み、カウンターの上の深紅の魔石が手品のように彼女の袖の中へと消えた。
俺は震える手で契約書にサインをした。これで俺は、虎の子の魔石を失った上に、1000万という莫大な借金を背負うことになった。
「それでは、契約成立ですわね」
茜が指を鳴らすと、五右衛門がふわりと浮き上がり、俺の背中に吸い付くように張り付いた。勝手に結び目が作られ、俺の首元で器用に固定される。
『へへっ、よろしくな旦那! しっかり稼いでくれよ! 俺っちはグルメだから、上等な魔力の籠もった酒や肉しか収納しねえからな!』
「……気に入らなきゃすぐに質屋に入れるからな、お前」
『ヒエッ! 物騒な旦那でヤンス!』
俺は深いため息をついた。装備は手に入ったが、手元に残るはずだった現金は、トイチの借用書へと姿を変えた。
定時退社どころか、これからは借金返済のために地獄の残業確定じゃないか。
「悠作様、今後ともご贔屓に。また素敵な『呪物』……いいえ、『商品』をお待ちしておりますわ」
茜が深々とお辞儀をする。
店を出ると、路地裏の湿った風が頬を撫でた。
背中にはやかましい風呂敷。懐には血の滲むような借用書。
そして、マナーモードにしていたスマホの画面を見れば、みのりからの不在着信履歴がさらに増えており、今まさに新たな着信画面が点灯したところだった。
『旦那、腹減った! どっかのギルドに殴り込みでも行くでヤンスか!』
背中で無神経に騒ぎ立てる新しい相棒の声に、俺はただ黙って足取りを重くするしかなかった。




