第2話 配信切り忘れ
19階層へと続く薄暗い階段を下りた直後、俺の前に立ち塞がったのは、巨大な絶望の塊だった。
シュー、シューと、暴走する高圧ボイラーのような荒々しい呼気が、カビと鉄錆の臭いに混じって強烈な血と獣の悪臭を運んでくる。
本来ならさらに下の20階層の最奥に鎮座しているはずの階層主、『ミノタウロス・ジェネラル』。
A級パーティが数人がかりで死闘を繰り広げるべき深層のトラウマメイカーが、なぜこんな中層の通路を徘徊しているのか。
血走った巨大な眼球がギョロリと動き、俺を明確な「餌」として捉えていた。カイトたちへの接待プレイで消していた気配を解放したからか、それとも単なるイレギュラーか。どちらにせよ、逃げ場のない狭い通路での遭遇戦だ。
俺は深く重心を沈め、逆手に持った解体用ナイフの柄を握り直す。
太ももに触れる作業着のサイドポケットでは、先ほどカチリと鳴ったドローンの残骸が、じんわりと嫌な熱を発し続けていた。ショートしたバッテリーが発火でもしたら厄介だが、今は目の前の暴力に全神経を集中させるしかない。
防水仕様の腕時計を見る余裕すらないが、定時まではもう10分を切っているはずだ。
こんな筋肉ダルマの相手に手間取っていれば、スーパーの半額惣菜どころか、帰宅後の晩酌のスケジュールまで崩れてしまう。
★★★★★★★★★★★
【D-Tube ライブ配信】
チャンネル: 閃光の剣・公式
タイトル: 【緊急】カイトの配信(通信不安定・自動再接続中)
現在の視聴者数: 12人
「あれ? 配信終わったんじゃなかったっけ?」
「通知来たから開いたけど、画面真っ暗……いや、なんか下半分だけ映ってる?」
「これ、誰かのポケットから外を映してるのか?」
「カイトくんー? 映ってるー? おーい」
人気急上昇中の探索者パーティ『閃光の剣』。そのチャンネル登録者たちの一部が、唐突に再開された謎の配信枠に気づき始めていた。
最初は、単なる機材トラブルや誤操作だと思われていた。映像は主人の歩みに合わせてかすかに揺れ、ひび割れたレンズのせいで端の方はひどく歪んでいる。
しかし、機材が周囲の暗さを検知して『暗視モード』が自動で起動し、ダンジョンの薄暗い通路の先が鮮明な緑がかった映像で映し出された瞬間、コメント欄の空気が一変した。
「え?」
「は?」
「嘘だろ……なんか、とんでもないのがいるぞ!」
「うわああああああ! デカすぎ! なんだこれ!」
「待って、これミノタウロス・ジェネラルじゃねえか!? なんでこんな所に階層主がいるんだよ!」
「カイトくんたちは!? 逃げて!! 早く!!」
画面いっぱいに広がる、圧倒的な暴力の権化。
そのあまりにもリアルな殺気と、巨体が発する地鳴りのような息遣いが、画面越しにすらダイレクトに伝わってくる。
さらに視聴者たちを混乱させたのは、画面の端に見切れている「誰か」の腕だった。
カイトたちが着ているような高級な魔法装束ではない。泥と油に汚れた作業着の袖に、刃こぼれした安物の解体ナイフを静かに構える、見覚えのある腕。
「カイトくんじゃない! さっき後ろに映ってた荷物持ちのおっさんじゃねえか!?」
「は!? なんであのF級のポーターが一人で階層主と対峙してんだよ!?」
「置いてけぼりにされたのか!? カイトたち何やってんだよ!」
「ていうか逃げろおっさん! 殺されるぞ!!」
視聴者数が100人、300人と瞬く間に増えていく中。
画面の中のミノタウロス・ジェネラルが、天を仰ぐような咆哮とともに巨大な戦斧を高く振り上げた。
風を切り裂き、周囲の空気が極限まで圧縮される凄まじい風圧。
カメラ――つまり男の太もも付近を目掛けて、圧倒的な質量の刃がギロチンのように振り下ろされる。
視聴者の誰もが、無惨な死を確信し、悲鳴を上げて目を覆いそうになった瞬間だった。
★★★★★★★★★★★
――ブオッ!!
鼓膜を破らんばかりの爆音が通路に反響し、黒い鉄の塊が死の軌道を描く。
物理的な回避が不可能に思えるほど、戦斧の攻撃範囲は狭い通路を完全に覆い尽くしていた。
だが、俺は後ろに下がることも、慌てて横に飛び退くこともしなかった。
向かってくる絶望の塊に対し、静かに、ただ淡々と前へ歩みを進めた。
満員電車の中で、向かってくる乗客と肩がぶつかるのを避けるような、ごく自然な体重移動。
歩くリズムの中で、ほんの少しだけ半身をひねり、軸を数センチだけずらす。
直後、俺の真横の石畳に戦斧が深々と突き刺さる。
大地が爆発したかのように砕け散り、鋭い石の破片が散弾となって頬を掠める。俺はその粉塵のカーテンの中を、実体のない幽霊のようにスッと通り抜けた。
意識するのは「点」と「線」だ。
どんなに巨大で強靭な魔物であっても、その根源は生物に過ぎない。
巨体を動かすためには筋肉の繊維が収縮し、骨の継ぎ目が連動し、そこに膨大な魔力が流れるバイパスが必ず発生する。
俺の目には、その「生命の構造図」が、まるでハイライトされたようにクッキリと視認できていた。
関節の僅かな隙間。魔力膜の継ぎ目。強靭な筋繊維の束が寄り集まる、防御の手薄な特異点。
それらのラインが最も脆く交差する、その「一点」だけを、ただ的確に通る。
――古流暗殺術、改。
――【虚空殺】。
俺はミノタウロスの懐に飛び込んで斬り結ぶような真似はしない。
ただ、すれ違いざまに、その巨体の「影」を撫でるように通過した。
ザンッ――。
遅れて響いたのは、濡れた厚布を軽く切り裂くような、ごく小さな、そしてひどく場違いな音だった。
俺は階層主の背後へと完全に抜け、そのまま歩みを止めることなく、手首のスナップだけでナイフを振って刃にこびりついた僅かな血糊を払う。
振り返る必要はない。
結果は、俺が刃を振るう前からすでに確定している。
背後で、戦斧を振り下ろした姿勢のまま彫像のように静止していたミノタウロスの巨体が、音もなく崩れ落ちた。
首が落ち、太い腕が肩の付け根から滑り落ち、極太の丸太のような足が膝から崩れ、胴体が袈裟懸けに分断される。
それらがまるで、精巧に作られた積み木のタワーがバランスを失うように、滑らかにズレて落ちていく。
一撃ではない。
すれ違いざまの、わずか0.1秒にも満たない瞬きほどの時間の間に、急所という急所を17箇所、完全に解体し終えていたのだ。
切断面があまりにも鋭利で滑らかすぎたため、数秒遅れてからようやく、間欠泉のように大量の返り血が通路に噴き出した。
「……よし。とりあえず魔石回収、っと」
俺はナイフをシースに納めながら踵を返し、もはや単なる巨大な肉塊と化した元階層主に近づく。
慣れた手付きで胸郭の隙間に手を差し込み、心臓部から魔石を抉り出す。
取り出されたのは、大人の拳よりも二回りほど大きい、上質で純度の高い深紅の魔石だ。迷宮の淡い発光苔の光を反射し、妖しく輝いている。
通常であれば、このクラスのボスの角や皮、特級の筋肉繊維などは、高級武具の素材として天文学的な価格で取引される。
だが、今の俺は奪われたリュックのせいで完全に手ぶらだ。
「勿体ないが、仕方ない。今日はこれだけで我慢するか。まあ、このサイズの魔石なら、軽く見積もっても数百万……いや、プレモル一年分くらいにはなるか」
俺は血に濡れた魔石を作業着の裾で適当に拭う。左のサイドポケットにはカイトが置いていったドローンが突っ込んであるため、右のカーゴポケットのフラップを開け、そこに巨大な魔石を無理やりねじ込んだ。
右脚だけがやけに重くなったが、歩けないほどではない。
残りの素材は惜しいが、放置だ。ギルドでの面倒な換金手続きや、階層主の素材を持ち込んだ際の煩わしい事情聴取に時間をかけるより、今は一刻も早い帰宅が最優先される。
「さて、急がないと」
俺は20階層の奥にあるはずの『隠し転移ゲート』を目指し、再び迷宮の暗闇へと歩みを進めた。
★★★★★★★★★★★
【ライブ配信コメント欄】
「……は?」
「え?」
「はあああああああああああああああ!?」
「ちょ、今何が起きたんだ!? 誰か説明してくれ!」
「バグか!? 通信ラグで映像が飛んだのか!?」
「いや、今のおっさん、マジで何もしてないように見えたんだが……」
「ただすれ違っただけだろ! なんで階層主がサイコロステーキになってんだよ!」
「カメラが揺れたと思ったら、振り返った時にはジェネラルが死んでた。意味がわからん」
「おいおいおい!! 素材全部捨てたぞあのおっさん!!」
「数千万単位の素材を『勿体ないが仕方ない』で済ませた……だと……?」
「しかもあのデカい魔石、そのままズボンの右ポケットに突っ込んだぞwww扱い雑すぎんだろwww」
「解析班! 解析班早く仕事しろ!!」
「スロー再生しても、ナイフを振ってる動きが速すぎてフレームに収まってねええええ!!」
「誰かこの配信、録画してる奴いるか!? 歴史が動いたぞ!!」
ポケットからはみ出たひび割れたレンズが捉えた主観視点での階層主瞬殺劇に、コメント欄はかつてない激流となって加速し始めた。
視聴者数は、事態の異常さに気づいた者たちのSNSでの拡散により、爆発的に膨れ上がっている。
5000人、1万人、3万人、そして10万人――。
だが、地上でそんな大騒ぎが巻き起こっているとは知る由もない。
俺は歩きながら、左の太ももに感じる不快感に眉を寄せた。
(さっきから、ショートしたドローンのバッテリーの熱がじんじんと伝わってきて鬱陶しいな。地上に出たら適当なゴミ箱にでも放り込まないとな)
そんな呑気なことを考えながら、俺は足早に奥へと続く通路を進んでいく。
頭の中はすでに、帰ってから入る風呂のことでいっぱいだった。
今日は奮発して、森の香りのバブでも入れるとするか。




