第1話 追放と置き去り
東京大迷宮、地下18階層。
肌にまとわりつくような高い湿気と、カビや鉄錆が混じったダンジョン特有の淀んだ空気が鼻を突く。
視界の悪い薄暗い通路の先で、岩肌を赤く染め上げる閃光と共に、息苦しいほどの熱波が押し寄せてきた。
「オラオラオラァ! これで終わりだ!」
若さと万能感にあふれた叫び声が響き、放たれた炎の魔法がオークの群れを包み込む。
断末魔を上げて崩れ落ちる豚頭のモンスターたち。肉や体毛が焦げる嫌な臭いが迷宮の空気と混ざり合い、さらに酷い悪臭を生み出していた。
その光景を数メートル後ろから眺めながら、俺は湧き上がるあくびを小さく噛み殺した。
(……やっと終わったか。今の無駄に派手な戦闘で、さらに15分押しだな)
防水仕様の安物の腕時計に目を落とす。時刻は午後5時45分。
俺が心の中で密かに設定している「定時」まで、あと15分しかない。
三十路を過ぎてからのダンジョン潜りは、とにかく身体に堪える。特にこの下水道のような環境は、古傷の腰にじわじわとダメージを与えてくるのだ。早く地上に戻って、熱いシャワーを浴びて、キンキンに冷えたビールを胃の腑に流し込みたい。切実に。
「へっ、見たかよ俺の『フレイム・バースト』! 深層のオークもワンパンだぜ!」
大仰な勝利のポーズを決めているのは、金髪をツンツンに逆立てた剣士、カイトだ。
俺を雇っている若手パーティ『閃光の剣』のリーダーであり、血の気の多い大学生探索者。魔法の才能は確かにあるが、とにかく承認欲求と自己顕示欲の塊のような男だった。
「カイトくん、すごーい! 今の魔法、配信映えバッチリだよ!」
後衛のヒーラーであるリナが、宙に浮く小型の配信用ドローンに向かって愛想を振りまく。
「だろ? おい、コメント欄どうなってる?」
「同接2000人突破! スパチャも飛んでるよ!」
彼らは探索者であると同時に、配信者でもある。
命がけの迷宮探索をエンタメとして消費させ、視聴者から金を稼ぐ。最近の若い連中には一番人気のスタイルらしいが、裏方気質で目立つことを嫌う俺にはどうも馴染めない文化だった。
「おい、おっさん! ボヤッとしてねえでさっさと魔石回収しろよ! これだからF級は使えねえんだよ」
カメラから視線を外したカイトが、汚い物でも見るような目で俺を睨みつける。
俺は「はいはい」と力のない返事をしながら、背負っていた巨大なリュックをドサリと足元の岩場に下ろした。
「今やりますよ。……よいしょ、と」
俺の仕事はポーター。
彼らが倒したモンスターから素材や魔石を剥ぎ取り、数日分の食料やテントなどの物資を運搬する、探索における専属の荷物持ちだ。
腰のシースから愛用の解体ナイフを引き抜き、黒焦げになったオークの死体に近づく。慣れた手付きで胸部を切り裂き、心臓の奥にある魔石を傷つけないよう、最小限の力で刃を入れる。
その作業中、俺は一匹のオークの首筋に、炎で焼かれる前につけられた薄い切断痕が残っているのを確認した。
カイトの大振りな炎魔法が直撃するコンマ数秒前、死角から彼らに飛びかかろうとしていた個体を、俺がこっそり処理しておいた傷跡だ。
それでいい。俺の仕事はあくまで「裏方」であり、余計な手出しをして彼らの肥大したプライドを傷つけたり、配信の主役を奪ったりするのは明確な契約違反になる。何より、目立って面倒事を背負い込むのは御免だ。
魔石を布で拭き取り、リュックに放り込む。
このリュックは安い魔法鞄になっており、見た目以上の容量が入るが、重量軽減の効果はほとんど機能していない粗悪品だ。現在の総重量はざっと80キロを超えているはずだ。普通の人間なら持ち上げることすらままならない重さだが、俺は息一つ乱さずに立ち上がり、重心を調整しながら再びそれを背負い直した。
「回収終わりました。次はどうします?」
「あ? 決まってんだろ。今日はこのまま20階層のボス前まで行くぞ」
「……事前の打ち合わせだと、今日はこの18階層までの探索で引き上げて、帰還する予定でしたが」
「うっせえな! 調子がいいんだから行けるだけ行くんだよ! お前は黙ってついてくりゃいいんだ!」
カイトが忌々しそうに舌打ちをする。
ポーションや食料の残量、自分たちの体力と魔力のペース配分を全く計算せず、ただ目先の勢いと配信のノリだけで奥へ進もうとする。
ここから20階層まで行くとなれば、どう急いでもあと2時間はかかる。完全にサービス残業コースだ。彼らの性格からして、追加料金の請求は絶望的だろうなと、俺は心の中で深くため息をついた。
★★★★★★★★★★★
19階層へ続く階段の手前にある、魔物除けの香が焚かれた安全地帯で、小休止を取ることになった。
俺は岩場にリュックを下ろし、サイドポケットから折りたたみ式の携帯用コンロとガス缶を取り出して組み立てる。着火して小さな鍋で湯を沸かし、インスタントだがメンバー全員分のコーヒーを淹れる。これもポーターの重要な雑務の一つだ。
カイトたちは岩に腰掛けながら、相変わらずドローンに向かってファンサービスに忙しい。
「みんなー! 今日の配信は一旦ここで切るぜ! この後は街に戻って装備を整えてから、20階層のボス戦を『後半枠』でガッツリ配信するから、今のうちにチャンネル登録よろしくな!」
カイトが手を振り、ドローンの録画ランプが消灯するのを確認して息をつく。
楽しそうで何よりだ。
俺は岩の上に四つのマグカップを並べ、作業着のポケットから電子タバコを取り出した。
スイッチを入れて蒸気を吐き出しながら、ぼんやりと湿った天井の岩肌を眺める。
昔からの知り合いや同期の連中は、とっくに引退してまともな職に就いたり、運良くA級に昇格して自分のクランを立ち上げたりしている。いつまでもこんな薄暗い現場で、若い奴らの背中を見ながら泥にまみれているのは、俺くらいのものだ。
そろそろ潮時かねえ。実家の田舎に帰って農業でもやるか。
そんなとりとめのないことを考えていた時だった。
カイトがニヤニヤとした薄ら笑いを浮かべながら、取り巻きの二人を引き連れて俺の方へ歩いてくる。
「おい、おっさん」
「……コーヒーなら、そこに淹れてありますよ」
「そうじゃねえよ。単刀直入に言うわ」
カイトは俺の目の前で立ち止まり、見下ろすように言い放った。
「お前、今日でクビな」
あまりに唐突な宣告に、俺はくわえていた電子タバコを取り落としそうになった。慌てて指で挟み直し、ふうと蒸気を吐き出す。
驚きはなかった。ああ、またこのパターンか。という既視感のほうが強い。
「……理由は?」
「理由? 鏡見て言えよ。お前、トロいんだよ」
カイトが俺の胸ぐらではなく、足元に置かれたリュックの太いベルトを足で小突いた。
「俺たちはこれからトップランカーを目指す『閃光の剣』だ。ビジュアルも実力も、全てが一流じゃなきゃいけねえ。なのにお前みたいな薄汚いおっさんが画面の端に映り込んでると、それだけでチャンネルの品格が下がるんだよ」
「コメントでも書かれてたぞ。『後ろのおっさん死にそうで草』とかな」
取り巻きの魔法使いであるタクマが、ゲラゲラと下品に笑う。
なるほど。画面のノイズになっているというわけか。
確かに俺の外見が配信映えしないのは認める。無精髭は数日剃っていないし、作業着は泥と油でヨレヨレだし、目の下には万年クマが鎮座している。彼らのキラキラした世界観からすれば、俺は邪魔な異物でしかないのだろう。
「それに、お前の分の経験値と報酬分配も無駄だ。俺たちの成長の足かせにしかなってねえんだよ」
「……一応言っておきますけど、荷物持ちがいないと長時間の探索は――」
「あ? 今はアイテムボックスとか便利なもんがあるんだよ。お前みたいな人力ポーターなんて時代遅れなんだよ」
カイトが鼻で笑う。
確かに高価な『亜空間収納』のスキルや魔導具があれば、荷物持ちは不要になる。だが、駆け出しに毛が生えた程度の彼らが、そんな数千万もする希少な代物を持っているとは聞いたことがない。
……まさか。
「おい、その鞄よこせ」
「は?」
「手切れ金代わりに俺が貰ってやるから感謝しろっつってんだよ。どうせF級のお前じゃ、これから先そんなデカい鞄を使うことなんてねえだろ?」
カイトが俺を突き飛ばし、足元のリュックのベルトを強引に掴む。
これは完全に一線を越えている。探索者法における窃盗および強要罪に該当する立派な犯罪行為だ。
だが、ここで抵抗して騒ぎを起こせば、彼らは「F級ポーターが逆上して襲いかかってきた」と正当防衛を主張するだろう。数は向こうが上だ。しかもここはダンジョンの深層。事故に見せかけて俺を始末することなんて、彼らにとっては造作もないことだ。
(……面倒くさいな)
俺の中で、怒りよりも「諦め」が勝った。
こんな血の気の多いガキ相手にムキになって、細々と続けてきた平穏な生活をリスクに晒す価値はない。
リュックの一つや二つ、くれてやればいい。中に入っているのはパーティの共有財産である魔石や食料、あとは俺の安物の着替えくらいだ。
財布と身分証、そして解体用のナイフは腰のベルトポーチとシースに収まっているから問題ない。
「……わかりましたよ」
俺はあっさりと抵抗をやめ、一歩下がった。
「へっ、最初からそうすりゃいいんだよ。負け犬が」
カイトは片手でリュックのベルトを掴み、これ見よがしに勢いよく担ぎ上げようとして――その顔を激しく歪ませた。
「……チッ、重っ! お前、どんだけ詰め込んでんだよ」
「だから言ったでしょう。それは重量軽減がほとんど効いていないから、一人で背負うには相当な重さになってますよ。道中、気をつけてくださいね」
「はんっ、俺の腕力がありゃ、これくらい余裕なんだよ。……行くぞ、お前ら」
カイトは足元をよろめかせながらも、見栄を張って強引に80キロのリュックを背負った。
ただ街へ転移で帰るだけなら、これでも問題ないと思ったのだろう。いざダンジョン内で戦闘になった時、その重さがどれほどの命取りになるかなど想像もせずに。
「じゃあな、おっさん! 地上に戻れたらハローワーク行けよー!」
カイトが懐から高価な『転移結晶』を取り出した。
本来は緊急脱出用に残しておくべきレアアイテムだが、彼らはここから歩かずに街へ帰還するために使うつもりらしい。
俺をここに置いて。
「あ、そうだ。これやるよ」
カイトが足元に何かを放り投げた。
プラスチックの破片が散らばる。それは、さっきまで飛んでいたドローンだった。片方のプロペラが完全に折れ、レンズの端にヒビが入っている。
「壊れかけのポンコツだ。修理して売れば、今日の宿代くらいにはなるんじゃねえの?」
「ギャハハ! 優しいっすねカイトさん!」
青白い光が彼らを包み込む。
転移魔法の発動サインだ。
「運が良ければ自力で帰ってこいよ! ま、途中でオークの餌になるのがオチだろうけどな!」
悪意に満ちた捨て台詞と共に、光が弾けた。
数秒後。
そこには、ひんやりとした静寂と、岩の上でシュンシュンと音を立てて燃え続ける携帯用コンロの小さな火だけが残されていた。
★★★★★★★★★★★
俺は岩の上に放置されていたコンロのスイッチをひねり、静かに火を落とした。折りたたんでガス缶と共に空になったカーゴポケットにねじ込む。
俺と、ひび割れた機体の残骸と、一口も飲まれずに冷えゆく四つのコーヒー。
18階層。地上までの推定所要時間、徒歩で約4時間。
防具なし。食料なし。光源なし。
「……ふぅ」
俺は深く蒸気を吸い込み、誰もいない空間に向かってぽつりとこぼした。
「やっと静かになったな」
カイトたちの騒がしい声も、承認欲求にまみれた会話も、もう聞こえない。
聞こえるのは、遠くで響くモンスターの咆哮と、天井から水滴が落ちる微かな音だけ。
この冷たい静寂こそが、俺のよく知っているダンジョンだ。
「さてと」
俺はゆっくりと立ち上がり、長年の癖で丸めていた猫背をすっと伸ばした。首を左右に振ってポキポキと骨を鳴らす。
誰かに気を遣って歩幅を縮めたり、息を上げているふりをする『接待』はもう必要ない。これでやっと、自分の本来のペースで歩ける。
俺は足元に転がっていたドローンを拾い上げた。
直して使う気はないが、内蔵されている魔力バッテリーやメモリチップはまだ生きているかもしれない。ジャンク屋に持ち込めば本日の飲み代くらいにはなるだろう。
作業着の大きめのサイドポケットにそれを押し込む。折れたプロペラ部分が引っかかったせいで、ヒビ割れたレンズがポケットの外にはみ出す形になったが、歩くのに邪魔でなければそれでいい。
「帰るか」
俺は地上へのルートではなく、さらに奥――『19階層』へと続く階段を下り始めた。
地上へ戻る正規ルートはモンスターが湧きすぎていて、今の丸腰では処理が面倒くさい。ここから少し潜って、20階層にある『隠し転移ゲート』を使ったほうが、結果的に早く安全に帰れる。
あそこは都内の誰も寄り付かない廃ビルの裏路地に直結している。監視カメラの死角だから、誰にも見られずにこっそり帰宅するにはうってつけだ。
カイトたちの足なら2時間はかかる道程だが、俺の本来のペースなら10分もかからない。定時退社には十分間に合う。
だが、階段を数段下りた直後。
下層の暗がりから、ぞくりとするような濃密な殺気が膨れ上がってきた。
「……?」
俺は小さく息を吐き、足を止める。
腰のシースから、使い古した解体用の安物ナイフを静かに引き抜いた。逆手で柄を握りしめた俺の瞳から、いつもの眠そうな色は完全に消え失せている。
暗闇からズン、ズンと重い足音を立てて現れたのは、見上げるほど巨大な牛頭の怪物だった。
全身を覆う鋼のような筋肉。手には血に塗れた巨大な戦斧を握りしめている。
「……おいおい、冗談だろ。なんで『20階層』の主が、こんな中層を散歩してやがるんだ?」
ダンジョン・イレギュラー。
予測不能の事態というやつだ。もしカイトたちが予定通り20階層へ進もうとしていたら、途中の通路でこいつと鉢合わせして確実に全滅していただろう。運のいいガキ共だ。
巨大な戦斧が振り上げられる。空気が軋むような重圧。
俺はナイフの刃先を下げ、重心を落とした。定時退社を阻むこの厄介な残業を、どうやって最速で片付けるか。それだけを思考する。
その時、作業着のサイドポケットに突っ込んだドローンの残骸から、カチリと微かな電子音が鳴り、僅かに熱を持ち始めたのが太もも越しに伝わってきた。地面に叩きつけられた衝撃でバッテリーがショートでもしたのだろうか。
だが、そんなガラクタの不具合を気にしている余裕はない。
俺は迫り来る死の圧迫感に対し、静かに呼吸を整えた。




