第8話:宮崎の自然と、コーヒーの香りに憧れる日々
第1章:【覚醒編】平成元の6歳児、神の玩具を起動する
第8話:宮崎の自然と、コーヒーの香りに憧れる日々(1992年夏・9歳・小4)
一九九二年の夏、宮崎のどこまでも突き抜けた青空からは、容赦のない太陽の光が降り注いでいた。
小学校四年生へと進級した鈴木雄大の肉体最適化プログラムは、この夏、静かに「毎日四十回」の領域へと達していた。
うだるような暑さの午後、自室の畳の上で、雄大はミリ単位の狂いもないフォームでプッシュアップを刻んでいく。
九歳の骨格は、最新のスポーツ科学理論に基づく自重負荷によって、衣服の内側に恐ろしいほどしなやかなインナーマッスルを編み上げつつあった。
関節や成長線に一切のダメージを与えることなく、基礎体力と筋出力を極限まで高めていく精密な駆動。
前世の四十二年という歳月を生き抜いた精神力が、九歳の幼い肉体から生じる熱気と疲労を冷徹に無視させていた。
(四十回。筋肉の繊維が一本ずつ再構築されていくのを感じる。この制服の内に、誰にも見破られない無敵の盾を鍛え上げろ)
四十回の肉体錬成を微塵の乱れもないフォームで完遂し、呼吸を完全にコントロールしたまま、雄大は階下のリビングへと静かに降りていった。
網戸の向こうから聞こえる蝉の狂おしい鳴き声と、気怠く回る扇風機の風のなかに、ある特有の香りが混ざり合っている。
台所の食卓では、無口な父親の健一が、一人静かにマグカップを両手で包み込んでいた。
下戸である健一が、日々のささやかな暮らしのなかで唯一嗜む贅沢。
それが、丁寧に淹れられた一杯のブラックコーヒーだった。
リビングに広がる、深く、どこまでも香ばしいコクのある珈琲の香りが、雄大の嗅覚を硬質に刺激する。
前世で過酷な日々を送っていた頃、己の渇いた喉を潤し、張り詰めた神経を唯一癒やしてくれた最高の相棒の記憶が、その香りと共に鮮烈に蘇ってきた。
(親父の淹れる珈琲は、いつも一滴の狂いもない深いコクがある。この静かで、何気ない実家のリビングの光景を、俺は絶対に守る。真面目な親父の優しさが社会の歪みに毟り取られるような理不尽は、この俺が絶対に許さない)
健一は、静かに近づいてきた息子に気づくと、無口な顔をわずかに綻ばせ、自分のマグカップをそっと示した。
「雄大、大人になったら、一緒にこれを飲もうな」
短く、不器用な、だが確かな愛情が込められた健一の言葉。
雄大は九歳の無邪気な子供の瞳を演じながら、健一を見上げて小さく頷いた。
「うん、お父さん。俺、大人になったら、お父さんと一緒に最高のコーヒーを飲むよ」
その声帯からはあどけない約束の言葉が零れていたが、その胸中にある四十二歳の魂は、すでにこれからの冷徹な戦いのタイムラインを弾き出していた。
(この珈琲を堂々と胃壁に流し込める年齢になるまで、爪を研ぎ澄ます。親父、お袋、お前たちの平穏な生活は、この俺が完全保障してやるさ)
窓の外には、宮崎の大自然が広がり、緑の山々が夏の陽炎の向こうで青く揺れている。
家族への底なしの甘さと、彼らを脅かすあらゆる不条理を徹底的に圧殺するための圧倒的な牙。
九歳の完全無欠な神童は、コーヒーの深い香りを胸一杯に吸い込みながら、暗闇のなかでさらに深く、静かに爪を研ぎ澄ませていくのだった。




