第53話その2:中学校卒業、そして定時制高校へ
第5章:【風雲・二輪覚醒編】休み時間トレードと16歳のバイク通学
第53話その2:中学校卒業、そして定時制高校へ(1999年春・16歳・定時制1年)
一九九九年の一月、中学校の進路指導室は、石油ストーブの放つ重い灯油の臭いに満ちていた。
机を挟んで向かい合う担任の教師は、分厚い進路希望調査書を指先で叩きながら、大きなため息をついた。
「鈴木、お前の成績なら県内トップの全日制進学校でも首席を狙えるんだぞ。なぜ、あえて夜の定時制なんだ。両親も本当に納得しているのか」
雄大は微動だにせず、静かに返した。
「納得しています。昼間にしかできない個人の作業があるため、時間を効率的に活用したいだけです」
教師は言葉に詰まり、眼鏡の奥の目を泳がせた。
実家の鈴木家には、すでに高坂征十郎の設計した合法財務スキームにより、数億円の役員報酬が分割で流れ込み続けている。
前世の貧困から完全に解放された両親は、雄大の選択に一言の口出しもしなかった。
東アジアの金融市場、およびヨーロッパの取引所が駆動する昼間の時間帯に、リアルタイムで資金流動のログを監視しなければならない雄大にとって、全日制の教室に縛り付けられることこそが最大のロスだった。
三月、厳冬の冷気が残る体育館で卒業式が挙行された。
パイプ椅子が規則正しく並ぶ中、校歌の斉唱が始まっても雄大は周囲と同調せず、ただ淡々と前方の壇上を見つめていた。
式が滞りなく進み、閉式を告げるアナウンスが流れると、張り詰めていた空間が一気に弛緩する。
周囲の同級生たちが互いにアルバムを抱え、涙を流しながら別れを惜しむ声を上げる中、雄大はただ一人、静かに席を立って体育館を後にした。
校舎の裏手へ続く人気のない渡り廊下を進むと、行く手を遮るように一つの影が佇んでいた。
橘詩織だった。
名家の令嬢たる佇まいを崩さぬまま、セーラー服の裾を春の微風に揺らし、雄大の双眸をじっと見つめてくる。
「本当に、夜の学校に行ってしまうのね」
詩織の声は静かだったが、その奥には割り切れない寂しさと、雄大という存在に対する強い執着が滲んでいた。
雄大は歩みを止めず、詩織の側を通り過ぎようとしながら短く応じた。
「その方が都合がいい」
「私は逃げないわ。あなたがどんな道を選ぼうと、私は私の場所で、あなたに相応しい女になるために待ち続ける」
背後から届いた真っ直ぐな言葉に、雄大は振り返ることなく、ただわずかに視線を落として歩を進めた。
誰とも群れず、淡々と校門へと向かうその足取りには、すでに一四〇億円の資産を外敵から守り抜き、自らの牙城を完成させるための精密な計算だけが宿っていた。
そして、四月。
夕暮れが街を包み込む頃、宮崎の冷たい風を浴びながら、雄大は夜間校舎の門をくぐる。
定時制高校の生徒の年齢層はバラバラだった。
昼間は町工場で働いている男、派手な髪色をした同世代の少年、深い影を背負った中年の男。
誰もが自らの事情を抱え、夜の教室に集まってくる。
雄大は窓際の席に深く腰掛け、机の上にノートを開いた。
シャープペンの先が、真っ白な紙の上に微細な数式を刻んでいく。
資産が一四〇億円を超えたいま、昼間の電脳空間と金融市場の監視こそが、誰の干渉も受け付けない自らの牙城を維持するための生命線だった。
「鈴木、ここの問題の答え、分かるか」
教壇に立つ年老いた教師が、チョークの粉を指につけたまま、掠れた声で雄大を指差した。
雄大は思考の海から音もなく浮上し、黒板に書かれた古典の文章を一瞥する。
「三行目の助動詞の接続が反語になっています。現代語訳は……」
淀みのない響きが、騒がしかった夜の教室を静まり返らせる。
周囲の不良少年たちが、椅子の背もたれに寄りかかったまま、忌々しそうに雄大の横顔を睨みつけた。
だが、彼らが雄大に直接絡んでくることはない。
入学初日の夜、街灯の切れた駐輪場での出来事が、彼らの間に見えない境界線を引いていた。
錆びた自転車の影から、煙草の煙を吐き出しながら立ち塞がった三人組。
「おい、新入り。随分とすました顔して歩いてるじゃねえか」
先頭の男が無造作に右手を伸ばした瞬間、雄大は視線すら合わせず、最短の軌道でその手首を掴んで鋭く下方へ捻り落とした。
骨が軋む鈍い音と同時に、男の巨体がコンクリートの床へ叩きつけられる。
背後から殴りかかろうとした二人の動線は、踏み出す僅かな重心の移動だけで完全に見切っていた。
顎の先端を的確に撃ち抜かれた一人が声を上げる間もなく崩れ落ち、最後の一人はただ息を呑んで立ち尽くした。
制服の袖を整え、何事もなかったかのように歩き去る雄大の背中を、ただ夜間校舎の冷たい湿気が包んでいた。
圧倒的な力の差を本能で察知した周囲の人間は、それ以上近づこうとしなかった。
それでよかった。
授業が終わり、夜の十時を回った校舎から生徒たちが吐き出されていく。
雄大は一人、暗い渡り廊下を歩きながら、胸のポケットから冷え切った缶コーヒーを取り出した。
プルタブを引き抜くと、深い苦味とわずかな酸味が口内に広がる。
この定時制の夜という静寂の時間こそが、裏面の帝国を確実に、そして完璧に構築するための揺るぎない土台となっていた。
(アマテラス・グローバルの総資産:140億円)




