第45話:休み時間のFAX・モデム工作
第5章:【黎明・国崩し編】休み時間トレードと近隣国経済支配の罠
第45話:【暗号指示システム】休み時間のFAX・モデム工作(1996年冬・13歳・中2)
一九九六年の冬、宮崎の公立中学校の校舎は、特有の湿ったコンクリートの冷気に満ちていた。
十分間の休み時間を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、鈴木雄大は席を立った。
教室内の同級生たちは、Jリーグのカードダスやプレステの新作ソフトの話題に興じている。
十三歳の雄大は、その喧騒に視線一つ向けることなく、ブレザーの内ポケットに入れた黒い電子機器に指を触れた。
手に入れたばかりのPHSの端末である。
雄大はあえて人の少ない北校舎の窓際へと歩を進めた。
コンクリートに阻まれた校舎の内側では、32kbpsという通信インフラは電波の捕捉が極めて不安定になる。
アンテナのマークが一本立つ位置を見極めると、雄大は手元で東京の固定番号を素早く押し込んだ。
コールは二回で途切れ、受話器の向こうから男の極度に緊張した声が響いた。
「黒崎さん、僕です。手元の端末から僕のBBSへアクセスして、暗号化された第三階層のログを開いてください。ポンドの追加指示を入れてあります」
少年の声らしい柔らかさを残しながらも、その響きには芯の通った理知的な響きが宿っていた。
東京の雑居ビルの一室で、受話器を握る凄腕相場師、黒崎陣は息を呑んだ。
回線を通じて聞こえる、中学校の休み時間の騒がしい足音や笑い声。
その環境から発せられる少年のフラットな声こそが、市場をねじ伏せる絶対的な神託であることを、先の取引で命を救われた黒崎は知っていた。
東京の片隅で公衆電話をいくつも渡り歩き、裏相場で破滅寸前だった二十八歳の黒崎に対し、雄大が不破経由のリストからその処理能力を見抜き、匿名のFAXで正確な為替データを送りつけて救い出したのがすべての始まりだった。
雄大が自室のパソコンからモデムを通じて立ち上げた独自の草の根BBSに流れる冷徹なデータの正確さに、黒崎は畏怖を抱き、今や実戦の矛として平伏していた。
「分かりました。すぐにダイヤルアップでサーバーへ繋ぎ、ログを確認します。ただ、ポンドのショートポジションをさらに積み増すというのは、現在のロンドン市場の動向を見る限り、あまりにもリスクが高すぎませんか」
「ノイズは拾わなくて大丈夫です。四十八時間後に欧州の市場が動きますから、データを開いたらすぐ、一秒でも早く受託銀行のディーラーへ指値の注文を流してください」
「了解しました。すぐにラインを繋ぎ、全建て玉をショートへ傾けます」
黒崎の諦念と興奮が混ざった声を確認し、雄大は一度回線を切った。
電子音と共に画面が消灯するのを確認すると、他人の目を避けるように一度ブレザーへ端末を収める。
続けて、雄大は近くの壁際に設置された緑色の公衆電話機へ向かった。
基地局がまだ発展途上である宮崎のPHSは、法務などの長時間の機密会話を通すには途絶のリスクが伴う。
雄大は度数の残ったテレホンカードを滑り込ませると、無機質な電子音が鼓膜を震わせた。
迷いなく不破へ繋ぐために再びダイヤルを回す。
「不破さん、僕です。シンガポール側のペーパーカンパニーの名義は、予定通り現地フロントマンの宮内さんで登記を完了させておいてください」
「雄大様、承知いたしました。信託財産の管理権限に関する法理バリアは完璧に敷いておきます」
かつて手にした文学賞の賞金や『輸送船の艦長』の永久利権と印税収入は、すでに健一たちへとすべて譲渡を済ませてある。
高坂が設計した合法的財務スキームにより、実家の作家法人側で一円のロスもなく処理されているため、雄大の個人資産には入ってこない。
今、このシンガポールの新会社に送り込まれ、為替市場で膨れ上がりつつある原資は、雄大がこの公衆電話から黒崎を駆動させて叩き出した、完全独自のレバレッジ取引の果実だけだった。
「宮内さんには、現地のコマーシャルバンクにマルチカレンシー口座を開設させておいてください。これからの主戦場は為替とデリバティブになります」
「承知いたしました。黒崎氏の口座へのバックアップ体制も、引き続き私が法務面から支えます」
「うれしいですね。よろしくお願いします」
雄大は穏やかなトーンのまま、短いセリフで指示を締めくくった。
受話器を置くと、冷たい廊下に予鈴のチャイムが響き渡った。
十三歳の少年は、静かにブレザーの襟を正すと、何事もなかったかのように寒々しい廊下を歩き、次の時限の教科書を開くために教室へと戻っていった。
(アマテラス・グローバルの総資産:2億1,000万円)




