第35話:12歳のフィクサー、大人の代理人戦争
第4章:【飛翔編】戦後50年のミリオンセラーと合法的税流最適化
第35話:12歳のフィクサー、大人の代理人戦争(1995年8月・12歳・中1)
真夏の重苦しい熱気が、じりじりと木造住宅のトタン屋根を焼いている
宮崎の自室、畳の上に座った雄大は、手元にある黒いダイヤル式の電話機まで歩き、受話器を耳に当てて数字を一つずつ回した
重い金属音が静かな室内に響き、数回の呼出音の後、低く落ち着いた大人の男の声が返ってくる
「はい、不破法律事務所です」
雄大は、少年の平坦なトーンのまま、受話器の向こうの男へ言葉を放った
「不破厳先生ですね」
「そうですが、どちら様でしょうか。お名前を伺えますか」
「鈴木雄大です。戦後五十年の文学大賞において、満場一致で大賞受賞が内定している小説『輸送船の艦長』の著者です」
受話器の向こうで、衣服が擦れる微かな音がした
「……文学大賞の、受賞者? 冗談にしては手が込んでいますね。事務局の発表はまだ先のはずですが」
「明日、出版社の高峰社長から私の実家へ直接、受賞内定の電報が届きます。内定の事実は神保町の中枢で既に確定しています。私はその後の出版契約、および著作権管理の全権をあなたに委託したい」
不破は沈黙した
受話器を通じて、東京の事務所で男が姿勢を正す気配が伝ってくる
「なぜ、私のような個人の事務所に」
「高峰社長による版権の独占契約を拒絶し、印税率十五パーセントを勝ち取るためです。彼らの法務部を黙らせる盾になれるのは、現時点であなたしかいない」
「……随分と具体的な数字ですね。ですが、私はまだあなたを信用したわけではない」
「明日の朝九時、内定の電報が私の実家に届いた時点で、私の言葉が真実だと分かります。その瞬間に、私の代理人として講談館への交渉を開始してください。高坂征十郎という税理士をご存じですね。元国税の彼も、今回の作家法人設立のために同時に招聘しています。お二人で高峰の元へ向かってください」
「高坂まで動かしているというのですか……。失礼ですが、鈴木さん。失礼を承知で伺いますが、あなたは何歳ですか」
「十二歳、中学一年生です」
雄大の淡々とした声に、受話器の向こうの不破は完全に言葉を失った
「明日、電報が届いたらまた連絡します」
雄大はそれだけを告げると、不破の返答を待たずに黒い受話器を静かに置いた
翌日、予告通りの時刻に講談館からの電報を受け取った雄大は、再び不破へ連絡を入れ、交渉を始動させた
東京、神保町にある講談館の本社応接室
重厚な革張りのソファに深く腰掛けた高峰社長は、目の前に並べられた二人の男を忌々しそうに見つめていた
「鈴木雄大……宮崎の中学生だと聞いていたが、現れたのは不破弁護士、貴方ですか。それと、そちらの男は」
高峰は低く押し殺した声で、目の前に座る不破と、その隣で静かに手帳を開く白髪交じりの男を睨みつけた
不破は表情を変えず、手元のアタッシュケースから契約書を取り出し、テーブルの上へ滑らせる
「ええ、私は鈴木雄大氏の全権代理人です。彼が執筆した『輸送船の艦長』の独占出版権の譲渡は拒絶します。条件は印税率十五パーセント、実家ではなく彼が新設する法人の名義での契約とさせていただきます」
「ふざけるな。中学生の書いたものに十五パーセントなど前例がない。それに、個人にかかる源泉を法人で管理するなど、うちの法務が認めるわけがないだろう。税務上のリスクが大きすぎる」
高峰が机を叩いて声を荒らげるが、その言葉を遮るように、不破の隣の男が静かに眼鏡のブリッジを押し上げた
「税務上のリスク、とはどこの箇所のことを指しているのかね、高峰社長」
税理士の高坂征十郎が、静かな声音で割り込んだ
「私は鈴木氏の財務顧問を務める高坂です。今回用意した書類は、現行の分離課税制度と、作家個人の税率、さらには最低税率の枠組みを組み合わせた完全合法な内容だ。貴社の法務部がどれほど優秀か知らないが、元国税の私が組んだこの書類の前に、口を挟める余地など一箇所も存在しないよ」
高坂の淀みのない突き放すような言葉に、高峰は一瞬だけ気圧されたように言葉を詰まらせた
不破がさらにその隙へ言葉を畳みかける
「前例なら、今ここで作ればいいだけのことです。高峰社長、この戦後五十年の節目に、あの原稿を他社に渡す損失を天秤にかけられるといい。これを拒むなら、私たちは明日にでも他社へ版権を持ち込みます。選択肢は貴方にはない」
不破の放つ隙のない言葉と、高坂の構える精密な書類の重み
二人の専門家による強固な圧力を正面から受け、高峰は苦虫を噛み潰したように拳を握りしめた
数分の沈黙の後、高峰は深くため息をつき、万年筆を手に取った
「……分かった。十五パーセント、法人名義での契約を認めよう。その代わり、初版部数は削らせないぞ」
「交渉成立ですね」
不破は静かに頭を下げ、署名された契約書を回収した
宮崎の自室にいる雄大の手元には、不破からの暗号化されたFAXを通じて、高峰社長が書類にサインしたという通知が届いていた
室内に、再びセミの鳴き声だけが満ちていく
テーブルの上のブラックコーヒーを一口啜り、雄大は窓の外の入道雲を静かに見つめた




