第19話:原稿用紙換算500枚、脱稿の瞬間
第2章 【胎動編】軍資金の獲得と秘密基地の構築
第19話 原稿用紙換算500枚、脱稿の瞬間(一九九五年、冬、十一歳、小六)
一九九五年の春先、宮崎の夜は、まだ微かに冬の名残を感じさせる澄んだ冷気に包まれていた。
四畳半の自室で、俺――鈴木雄大は、PC-98のキーボードからついに両手を離した。
液晶モニターの緑色の画面には、最後のピリオドが静かに点滅している。
システムに内蔵されたハードディスクが、カリカリと小さなシーク音を立ててデータを書き込み、静寂が戻った。
原稿用紙換算で、ちょうど五百枚。
画面の最上段には、誇らしげにその題名が浮かび上がっていた。
『輸送船の艦長』。
じいちゃんの生々しい海軍の記憶と、5Gスマホから抽出した未来の最高峰の文学スキームを融合させた、戦後五十年のすべてを引っ繰り返す爆弾が、今ここに完成した。
「……終わったな。これですべての仕込みは完了だ」
椅子の背もたれに深く身体を預け、声に出して小さく呟く。
数ヶ月に及ぶ十一歳のストイックな夜の終わり。
指先には、キーボードを叩き続けた独特の疲労感が心地よく残っていた。
画面の電源を切り、暗転したモニターに映る己の顔を見つめる。
日々の筋トレで引き締まった、子供らしからぬ冷徹な覇気が、闇の中に浮かび上がっていた。
「雄大、まだ起きちょるね? ちょっと入るよ」
ノックの音とともに、父親の健一がゆっくりとドアを開けた。
その手には、お気に入りのマグカップが二つ握られており、自室の中に香ばしく、そして少し苦い独特の匂いが一気に広がった。
健一は机の上のPC-98とプリンターを誇らしげに見つめ、俺の前のデスクにマグカップを置いた。
「父さん、それは……」
「お前の部屋から、ずっとキーボードを叩く音が聞こえよったからな。じいちゃんの物語、書き終わったんだろ?」
健一は優しく微笑み、自分のコーヒーを口に含んだ。
「まだ雄大には早いかもしれんが、今夜は特別だ。砂糖とミルクをたっぷり入れた、特製のコーヒーだよ」
俺は差し出されたマグカップを両手で受け取り、温かい液体を口に含んだ。
苦味の奥にある、濃厚な甘さとコク。
前世で愛したあのブラックコーヒーの領域にはまだ遠いが、親父の不器用な優しさが、十一歳の肉体にじわりと染み渡っていくのが分かった。
「ありがとう、父さん。本当に、大事に書いたよ」
「そうか。お前が必死に何かを遺そうとしている姿を見て、父さんも、じいちゃんも救われた気がするんだ。お疲れ様、雄大」
健一は俺の小さな頭を大きな手でぽんと撫めると、嬉しそうに微笑んで部屋を出ていった。
引き戸が閉まるのを待ち、俺はマグカップを机に置いた。
喉を潤す温かい液体を噛み締めながら、俺はポケットの中の神のスマホにそっと触れた。
カモフラージュとしての「健気な神童」の舞台装置は、これで完璧に機能した。
だが、この原稿が数ヶ月後、大手出版社の最高幹部である高峰宗一郎の元へ届いた時、大人の社会がどれほどの衝撃と恐怖に震えることになるか。
俺は未来の文壇を徹底的にハメ殺し、十代にして巨万の富を毟り取る完全勝利の瞬間を見つめていた。




