第54話
「砂漠の王冠、鉄屑の最期」
残り百メートル。
メイダンの直線で、世界が止まった。
ジャック・オ・ランタンの真横、漆黒の機体が並びかけていた。ピエールの瞳が、初めて動揺に揺れる。
「……なぜだ。なぜまだ走れる、レイスター……!」
答える者はいない。麗はもう、言葉を使い果たしていた。
コアの温度警告が全画面を赤く染めている。操縦桿を握る指の感覚が消えていた。ニューラルリンクを通じて伝わってくるのは、もはや機体の情報ではなく、焼け付くような熱だけだ。
(……一歩。あと一歩だけ、頂戴)
レイスターの鼻先が、オレンジの装甲を追い越した。
ゴール板を、二頭が同時に突き抜けた。
砂塵が爆発した。
それから、レイスターの足が止まった。
止まったのではない。
崩れた。
前脚から順に力が抜け、二トンの鉄塊が、メイダンの砂の上にゆっくりと横倒しになっていく。緊急停止音が虚しく鳴り響き、やがてそれも消えた。
機体は動かなかった。
スタンドが静まり返った。
掲示板のランプが灯る。一分、二分……。
1着レイスター、2着ジャック・オ・ランタン、3着ジェロニモ。
地鳴りのような歓声が上がったが、麗には聞こえなかった。
ハッチを叩く。開かない。もう一度叩く。油圧が死んでいた。肩で押す。ようやく、軋みながら開いた。熱い砂漠の空気が、一気に流れ込んでくる。
麗はコックピットから這い出し、レイスターの胸部装甲の前に立った。
手を当てた。
かつてはここから、力強い鼓動が伝わってきた。香港の激闘の夜も、天皇賞の朝も、泥だらけで帰ってきた何百という夜も。
今は、何も聞こえなかった。
麗は胸部装甲のロックを外し、内部へ手を差し込んだ。コア・メダル。かつて漆黒の光沢を放っていたその円盤は、今、手のひらに収まるほど細かく砕ける寸前だった。ひびは完全に走り切っており、指で触れるだけで崩れそうだ。
ギリギリだった。
ゴール板の向こう側で、割れたのだ。
「……よくやったわね」
麗の声は、思ったより静かだった。
涙は出なかった。出し方を忘れていた。
周囲のスタッフが駆け寄ってくる足音が聞こえた。ピエールが機体から降り、こちらへ歩いてくる気配もした。
麗はそのどれにも気づかないふりをして、しばらくコアに手を当てたまま、動かなかった。
「……お疲れ様」
ピエールが、隣に立った。彼は何も言わなかった。ただ、砕ける寸前のコアを一目見て、目を閉じた。フランス語で何かを呟いたが、麗には聞こえなかった。
メイダンの夜空に、星が出ていた。
日本のガレージでは、義清と亜紀子が画面の前で言葉を失っていた。やがて亜紀子が、握りしめていたスパナをゆっくりと置いた。義清は、組んだ手を解いて、膝の上に落とした。
砂漠に風が吹いた。
レイスターの装甲が、かすかに鳴った。
それが最後の音だった。




