第52話
「静寂の深淵、後方に潜む牙」
千二百メートル地点。メイダンの長いバックストレッチ。
ドバイの夜気を切り裂き、各馬の排気熱が陽炎となって砂の上に揺れている。
だが、その光景をモニターで見ていた義清が、椅子から立ち上がった。
「……姉さん!? 何をしてるんだ、そんな位置で!」
画面の中、漆黒のレイスターが先行集団からズルズルと後退していく。全十二頭の最後方、舞い上がる砂塵の最も濃い場所にその身を隠していた。
「……計算ミスじゃないわ」
亜紀子がスパナを握りしめたまま低く呟く。
「ピエールの炎は周囲の酸素を食い尽くす。前にいればいるほど、コアは熱を逃がせなくなる。……麗は、砂の壁を盾にして心臓を冷やしてるんだ」
レイスターのコックピット内は、外部の熱を遮断した極限の静寂に包まれていた。
麗はバイザーに投影されるコアの温度グラフを凝視している。
(……まだよ。まだ動かないで、レイスター。……あんたの鼓動を、一回分でも多く最後に残しておくの)
前方では、ピエールのジャック・オ・ランタンがアメリカの強豪と激しい先頭争いを繰り広げている。オレンジの炎が砂を焼き、周囲の空気は焦げ付いていた。
ピエールは、バックミラーのセンサーに映らないレイスターの存在に、不気味な苛立ちを覚えていた。
「……逃げたのか、麗? それとも、もう心臓が止まったか?」
ピエールがスロットルを一段階押し込む。排熱が、後続を焼き払うように膨れ上がる。
だが、最後方のレイスターは、深い砂の中に沈み込みながら、じっとその時を待っていた。
ひび割れたコアに走る傷が、青白い光を湛え、爆発的なエネルギーを内側に凝縮させている。
残り八百メートル。第三コーナー。
先行集団の足色が、ドバイの深い砂に削られ、わずかに鈍った。
麗の指先が、心中プラグの最終トリガーに触れた。
「——お待たせ、レイスター。……あたしたちの時間を、始めましょうか」




