第37話
第37話「函館の海霧、鋼の避暑地」
六月の湿った阪神を離れ、村上ガレージのトランスポーターが辿り着いたのは、冷涼な風が吹き抜ける函館だった。
函館競馬場の調教用ダートコース。朝霧に包まれたターフの向こうで、漆黒のレイスターが跳ね上がる泥を全身に浴びながら低く唸っている。
「……遅い。まだ、影を振り切れてない」
麗はバイザーにこびりついた泥をグローブで乱暴に拭った。宝塚記念で海老原に刺されたあの瞬間の感触が、今も右手のレバーに残っている。
ピットでは、健造が古い計測器を睨みつけながら煙草を燻らせていた。
「麗、がむしゃらに回しても無駄だ。海老原が言った『影を忘れるな』ってのは、出力の問題じゃねえ。相手の気流と殺気を、センサーじゃなく肌で読み取れってことだ」
真珠色のノーブル・レジーナの傍らで、義清が膝を抱えて座り込んでいた。
「……姉さん。僕は、レジーナの性能を過信していました。計算上、あの位置から差されるはずはなかった……なのに、あの影は物理法則を嘲笑うように僕を追い抜いていった」
「……当たり前でしょ。競馬は算数じゃないんだから」
ゴールデンルナティックから飛び出してきた亜紀子が、義清の頭を強引に小突いた。
「アタシなんて掲示板外だよ? でも見てな。この函館の重い洋芝で、ルナティックに根性を叩き込んでる最中さ。次は影も覇王も、まとめて地獄の底まで引きずり落としてやるんだから!」
健造は、三頭の機体に新たな改造を施し始めていた。
レイスターには、泥濘での微細な重心移動を可能にする磁気流体アクチュエーター。ルナティックには、限界を超えた熱量を一瞬で爆発力に変える過給圧バイパス。
そしてレジーナには——。
「義清。お前のレジーナには、あえて不規則な振動を組み込む」
「……それでは、僕の完璧な制御が乱れます」
「その通りだ。完璧すぎるお前の走りは、海老原のような老将にとっては読みやすい譜面でしかない。……化けろ、義清。優等生の皮を脱ぎ捨てて、本物の女帝になれ」
義清は何も言わなかった。レジーナの首筋をしばらく見ていた。
函館の夜、海鳴りが遠く聞こえていた。
レイスターが、低く電子音を鳴らした。




