第33話
第33話「樫の女王、無欠の独走」
東京競馬場、芝二千四百メートル。優駿牝馬。
先週のNESマイルカップで見せた「準備運動」という不遜な言葉が、単なるビッグマウスではなかったことを、今、二万人の観客が目の当たりにしようとしていた。
「……マイルのスピード、二千四百のスタミナ。レジーナ、君の中に欠けているものは何一つない。……さあ、証明しなさい」
村上義清はノーブル・レジーナの操縦席で、心拍数を一定に保っていた。
周囲のライバルたちは焦燥に駆られている。
「先週G1を勝ったばかりだぞ……フレームが保つはずがない!」
「まるで今朝、厩舎を出たばかりのような足取りじゃない……!」
ゲートオープン。
オークス特有の静かな立ち上がり。義清は二番手につけた。
先週のマイル戦で叩き出した高回転のエンジンが、長距離のゆったりとした流れの中で、不気味なほど静かに脈動している。
「……義清。一完歩の歩幅を数センチ単位で調整してるわ」
ピットの麗が、モニターを見て目を見開いた。
レジーナは一見普通に走りながら、路面の硬さと風の抵抗をリアルタイムで読み、エネルギーを極限まで絞っていた。
大欅を過ぎ、第四コーナー。
逃げ馬たちのスタミナが削れ、足色が鈍り始める。後方の追い込み勢が外へ持ち出し、勝負をかける。
「——失礼。ここからは、僕の独演会です」
義清が指先をわずかに動かした。
ノーブル・レジーナが、馬群の隙間を縫うように加速を始める。スパートではない。ただ、巡航速度の基準を一段引き上げただけのような、自然で残酷な速度差だった。
直線。府中の長い直線の入り口で、レジーナはすでに先頭に躍り出ていた。
「追え! 逃がすな! 捕まえろッ!!」
後続が必死にブースターを点火する。差は縮まらない。一完歩ごとに、じりじりと、絶望的に広がっていく。
義清が戦っているのは、ライバルではない。自分たちが設定した理想のタイムだ。
「……見てください、姉さん。これが、僕の選んだ王道です」
残り二百メートル。
義清は一度もムチを入れなかった。最も美しいフォームを維持し、最も効率的なラインを通り、後続に決定的な差をつけてゴール板を駆け抜けた。
大差。
電光掲示板に刻まれたのは、オークスの歴史を塗り替えるレコードタイムだった。
義清は静かにレジーナを停止させ、ヘルメットを脱いで空を仰いだ。
「……二冠。……次は、秋華賞。……いいえ、その前に宝塚記念で、姉さんと決着をつけましょうか」
レジーナが、低く電子音を鳴らした。




