第29話
第29話「淀の雨、泥濘の深淵」
京都競馬場、芝三二〇〇メートル。天皇賞(春)。
灰色の雲が低く垂れ込め、容赦ない雨がターフを叩いていた。
「……最悪ね。センサーが雨滴をノイズとして拾い続けてる」
麗はレイスターのコックピットで、絶え間なく流れるエラーログを消去していた。
雨はからくり馬の関節に侵入し、摩擦抵抗を跳ね上げる。視界不良が精密演算を狂わせ、ジョッキーの神経を削り続ける。
「あはは! 最高じゃない! このぐちゃぐちゃな感じ、ルナにはお似合いだよ!」
隣の枠で亜紀子が笑う。雨に濡れたゴールデンルナティックが、不気味な光沢を放っていた。
最後方。海老原樹のダークランサーが、霧の中に溶け込むように佇んでいた。
「……雨か。足音が消えて、ちょうどいい」
ゲートオープン。
先頭は、泥を跳ね上げながら強引に進むルナティック。レイスターは二番手でじっと耐えた。跳ね上げられた泥が、漆黒の装甲をさらに黒く塗り潰していく。
(……いいわ。泥には慣れてる。このぬかるみは、あたしたちの故郷と同じよ)
麗は芝用の高圧設定を切り、重トルク駆動へシフトした。他の機体が足を取られる中、レイスターだけが地面を掴んでいる。
二周目、淀の坂。
雨は激しさを増し、コースはもはや泥濘と化していた。
ここで動いたのは、海老原だった。
「……見えたよ、君たちの迷いが」
ダークランサーが、雨音に紛れて音もなく進出する。泥濘の中でも最も硬いラインを、長年の勘だけで見抜き、最短距離を縫うように抜けてくる。
第四コーナー。
先頭のルナティックが、過負荷による火花を散らした。
「壊れろ……! 全部壊して、アタシをゴールへ連れて行けッ!!」
その背後から、二つの漆黒が同時に迫った。
麗のレイスターと、海老原のダークランサー。
泥の中から、霧の中から、それぞれが違う速度で、同じゴールへと向かっていく。
三二〇〇メートルの直線。
泥飛沫が宙を舞い、視界が消えた。
その中で、レイスターのグリップだけが、地面を確かに捉え続けていた。




