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42話 名前

 それから俺たちは学校を退学した。


 住んでいた家も退去し、遠い、誰も俺たちのことを知らない土地に引っ越した。


 知り合いが少しでもいる土地では、関係が発覚するのを恐れて。


 まあ、学校を退学するって言ったときは親父には怒られてしまったけど……。


 無趣味だった俺は、バイトで稼いだお金を生活費以外では全く手をつけていなかったので、引っ越し費用は心配せずに済んだ。


 少子化の時代。

 人手不足の今の時代では、年齢が若い俺は、仕事もすんなり決めることができた。


 仕事はきついけど、それも家に帰れば大丈夫。


「あ、お兄ちゃんおかえり!」


 どんなにきつくても、家に帰れば華が笑顔で迎えてくれる。

 この笑顔があれば、不思議と力が湧いてくる。


 俺たちが引っ越した家は一DKの間取り。


 少々手狭だけど、出産費用もあるしなるべく出費を抑えないと。


  仕事を終えて帰宅した俺を、キッチンで料理をしていた華が手を止めて、パタパタとわざわざ寄ってきてくれた。l


「お仕事お疲れ様。ご飯にする、お風呂にする? それともわ・た・し?」


「こら、そういう冗談はやめなさい」


「あはは、ごめんなさい。一度は言ってみたかったの」


 俺も男だから、人生で一度は言われてみたかったので、少しドキッとした。


 二人して同じことを思っていたことがおかしくて、華と顔を見合わせて笑ってしまった。


「冗談は置いといて。お兄ちゃん、ご飯とかお風呂どっちにする?」


「ちょっと待って」


 ずっと言おう言おうと思ってたことがあったので、華の言葉を俺は手を突き出して制止する。


 俺の行動に、華が首を傾げる。


「お兄ちゃん、どうしたの?」


「それだよ。お兄ちゃんって呼び方、もうやめにしたほうがいいんじゃないか?」


 せっかく俺たちのことを誰も知らない土地に引っ越したのに、いつまでもお兄ちゃん呼びでは関係をバラしているようなものだ。


 呼び方を変えようと提案すると、華の表情がパァっと明るくなる。


「もうお兄ちゃんって呼ばなくてもいいの!?」


「いつまでもお兄ちゃんなんて呼んでたら、近所から変な目で見られちゃうからね」


「わかった! これからはユウくんに戻すね!」


「ちょっと待って」


 またもや俺は、手を突き出して制止する。


「それだと新鮮味がない。ここは心機一転、呼び方を変えてみない?」


「……えー、なんて呼ばれたいの?」


 華は唇を尖らせて不満を漏らすが、恋人と同じ呼び方はマンネリしてしまった。


「結城って名前で呼び方にしようよ」


「うーん、名前かー」


 ぶつぶつと俺の名前を何度も呟き、覚悟を決めて華は上目遣いで俺を見上げる。


「ゆ、ゆ、ゆう……」


 ただ名前を呼ぶだけなのに、中々言えずに華の顔がどんどん真っ赤に染まっていく。


 最後のほうはもにょもにょと口ごもるだけ。


「恥ずかしいー!」


 あと一息というところで耐えきれなくなったのか、華は両手で顔を覆い、へたり、と座り込んでしまう。


「こらこら」


 その姿に、俺は思わず額に手を当てた。


「やっぱりユウくんが一番だよ」


「ちょっと待って」


「……今度はなに?」


 華から冷ややかな視線をぶつけられるが、そんなことは些細なこと。


「……呼び方は、お兄ちゃんでも大丈夫な気がしてきた」


「え、それだと近所から疑われるからやめようって話じゃないの?」


「うん、そうだけど……」


 これから先、もうお兄ちゃんって呼ばれないって思うと、その……勿体ない気がしてきた。


 考えてみてほしい。


 世の中には妹カフェといわれるものがあるくらい、お兄ちゃんと呼ばれたがっている男性がいるのだ。


 それぐらいお兄ちゃんという呼び方には需要があるし、価値がある。


「ここは少し変えて、お兄って呼び方にしてみよう」


「趣旨変わってるし。それだと結局、兄って呼び方だから意味ないでしょ」


「だって、お兄ちゃんって呼ばれなくなるの寂しいから……」


 俺が本音を呟くと、華が呆れたように大きく溜息を吐いた。


「なに言ってるの……。前と同じ、ユウくんでいい?」


「……はい」


 呼ばれなくなるのは寂しけど、仕方ないか……。


「最後に一回だけ、お兄ちゃんって呼んでくれない?」


 それでも諦めきれない俺は、縋るような眼差しを向けてお願いする。


「そう言って何回も頼む気でしょ」


「頼まない頼まない」


 俺は往生際悪く、手を合わせてお願いする。


 そんな無様にお願いする俺を無視して、華は背を向けた。


 うーん、だめか……。


 そう思っていると、華は肩越しに笑顔で振り返る。


「お兄ちゃん、ご飯食べよ!」

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