第46話 アメリア・カーフェーン
案内されたのは、屋敷の中庭にある広大なガーデンテラスだった。
緑の芝生の上に、純白の丸いテーブルと、背もたれに繊細な彫刻が施された白い椅子が用意されている。
頭上には見事な藤棚があり、優しい木漏れ日がテーブルクロスにレースのような模様を描いていた。
「二人とも、ここに座ってて。すぐに娘を呼んでくるから」
メリア様は私たちを席に座らせると、「ちょっと待っててね」と手を振り、屋敷の奥へと消えていった。
取り残された私とお姉様は、互いのドレス姿を見合わせて、小さく笑い合った。
「……ふふっ。昨日ミリアナさんが仰っていた通り、相変わらず……本当にすごいお方ね、メリア様は」
「はい。……昨日の図書室での出会い以上に、今日は一段と嵐のような勢いでした」
でも、その嵐のような勢いのおかげで、強張っていた私の肩の力は不思議なほど抜けていた。
私は紅茶のカップに視線を落とす。水面に映る自分の顔は、さっき鏡で見た時よりも少しだけ自然に笑えている気がした。
その時。
――カツ、カツ、カツ。
石畳を踏む、軽い足音が聞こえた。
ドクン。
心臓が大きく跳ねる。
この足音を、私は知っている。
一周目のあの夜、私の部屋に息を切らして駆け込んできた足音。そして、暗い地下牢の階段を、私を助けるために駆け下りてきたあの足音。
私はゆっくりと顔を上げた。
「お待たせいたしました」
藤棚の向こうから現れたのは、一人の少女。
輝くような金色の髪は母親譲りだけれど、もっと柔らかく繊細な色合い。
澄んだ水色の瞳は、春の湖のように穏やかで、知的だ。
身に纏っているのは、私たちと同じように軽やかで、清楚な青と白のドレス。太陽の光を受けて煌びやかに輝き、彼女の持つ透明感を際立たせていた。
(……あ。メリア様が私に着せてくれたこの空色のドレス……アメリアさんとお揃いみたいだわ)
メリア様は最初から、娘とお揃いの服を着せて、私たちを仲良くさせようとしてくれていたのだ。
「初めまして。私は、アメリア・カーフェーンと申します」
彼女が、ふわりと優雅に礼をする。
その瞬間、私の周囲からすべての音が消え去り、時間の流れがひどく遅くなったように感じられた。
(……ああ。そうだわ。これが、平和な世界での、本当の『初めまして』なんだわ……)
脳裏をよぎるのは、あの日、あの夜。淑女棟の私の部屋。
不規則に扉を叩く音に怯えながら私が迎え入れた彼女は、今の彼女とは似ても似つかない姿だった。
髪は乱れ、顔は死人のように青ざめ、白と青のドレスは泥と埃に汚れ、肩で荒い息をついていた彼女。
あの日、絶望の報せを持って私の部屋へ飛び込んできた時が、私と彼女の『初対面』だったのだ。
ゆっくりと自己紹介を交わす余裕なんて、どこにもなかった。
突きつけられたのは最愛の姉の凶報。お互いの素性も、好きなものも、どんな風に笑うのかさえ知らないまま、私たちは絶望の底で手を取り合うしかなかった。
『私が、あなたの盾になります』
冷たい地下牢で絶望する私に、そう力強く誓ってくれた彼女の声。
(出会ったばかりだった。たった数時間だった……。まともな会話なんて、数えるほどしかしていなかった……。なのに彼女は、初対面だった私のために、その命を投げ出してくれた)
――バツンッ。
脳内で、何かが弾け飛ぶような耳障りな音が鳴った。
目の前の穏やかな光景に、全く別の凄惨な映像が二重写しになる。
木漏れ日は、暗い地下牢へと続く石段に。
白いテーブルクロスは、冷たい石の床に。
私を庇い、その胸を透明な冷たい刃に貫かれた彼女。
純白のブラウスを真っ赤に染め上げていく、おびただしい量の鮮血と、私の腕の中で次第に冷たくなっていく彼女の体温。
『……ふふ……逃げ、てって……言ったのに……』
『私、ちゃんと……あなたの……『盾』に、なれました、か……?』
『……よかった……親友に……なれて……嬉しかっ……た……』
私を孤独な絶望から救い上げてくれた彼女は、あの誓いの通り、本当に、文字通り私の物理的な「盾」となって死んでしまった。
お姉様と再び、呼び捨てで呼び合える日も。私を『アミアさん』ではなく名前で呼んでくれる日も、永遠に来ないまま。
「…………ッ」
息が、止まる。
視界が滲む。
喉の奥から、絶叫のような嗚咽がせり上がってくるのを、私は必死で奥歯を噛みしめて飲み込んだ。
(泣いちゃだめ……! 今はまだ何でもない初対面なのに、私がいきなり泣き出したらアメリアさんを困らせてしまうわ!)
私は十六歳の精神を総動員して、テーブルの下でドレスのフリルを握りしめた。爪が手のひらに食い込む痛みで幻覚を追い払い、強制的に現実との繋がりを保つ。
……見て、アミア。
目の前の彼女は生きている。
呼吸を乱して部屋に飛び込んでくる必要もない。絶望の報せを運ぶ役目を負うこともない。
メリア様が選んでくれた綺麗なドレスを着て、優雅に、微笑んで。
世界で一番優しくて正しい『初対面の挨拶』を、私に贈ってくれているのだ。
「……初めまして、アメリア様」
お姉様がすかさず先に挨拶を返してくれたおかげで、私は決壊寸前の心を立て直し、呼吸を整える時間を得た。
「ネフェリア・リィエルです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。母が強引にお召し替えまでさせてしまったようで……申し訳ありません」
アメリアさんが困ったように、でも優しく微笑む。
その二人が向かい合って微笑み合う姿と、頭上に降り注ぐ木漏れ日、そしてテーブルの上の紅茶。
(……あっ)
その光景を見た瞬間、私の胸の奥で、温かい波が弾けた。
『いつか、暖かな陽射しが降り注ぐ庭園で、美味しい紅茶とお菓子を囲んで……大好きな親友のあなたに、大好きな妹を紹介する日のことを、ずっと夢見ていたのよ』
一周目の地下牢。冷たく湿った暗闇の中で、お姉様が涙と共に語っていた、ささやかな夢。
あの日、残酷に踏みにじられて叶わなかった願いが。
今、この二周目の世界で――こんなにも美しく、幸せな形で目の前にあるのだ。
私は、ドレスのフリルを握りしめていた手の力を、ゆっくりと緩めた。
次は、私の番だ。
私は立ち上がり、震える足を叱咤して、彼女の前に立った。
まっすぐに、その水色の瞳を見つめる。
「初めまして。私は……」
一瞬、名乗るべき姓を迷う。
ファミルか。それとも。
――いいえ。迷う必要なんてない。
私はもう決めたのだ。この二周目の人生は、母の誇りと共に生きると。
そして何より、このカーフェーン家で、ハーヴェー様の娘である彼女の前で名乗るべき名は、一つしかない。
「……アミア・レフィーナと申します」
その瞬間、隣に座るお姉様が、昨日馬車の中で交わしたあの会話を思い出したように、そっと私の背中に温かい手を添えてくれた。
昨日、初めて打ち明けた私の本当の想い。それを誰よりも深く理解してくれているお姉様の赤い瞳には、驚きではなく、妹の誇りを共に背負おうとする強い信頼の光が宿っていた。
(ありがとう、お姉様……)
お姉様の静かな、けれど確かな後押しに勇気をもらい、私はぐっと背筋を伸ばして顔を上げた。
(……聞いていますか、お父様)
私は心の中で、遠くにいる父に呼びかけた。
一周目の地下牢で知った真実。
シャリアの催眠薬で心を操られながらも、父が心の奥底で唯一守り抜いたのが、この「レフィーナ」という名前と、私への想いだった。
亡き母への愛と、家族の証。
だから私は、この名を誇りとして名乗る。
カーテシーをして顔を上げると、アメリアさんの目がわずかに見開かれた。
「……レフィーナ?」
彼女が小さく呟く。
「まあ……! お父様から伺っておりますわ。かつて父の教え子で、誰よりも優しくて優秀だったという魔法使い……アミィエル様と同じお名前……」
彼女の声に、警戒心や侮蔑の色はない。
純粋な驚きと、そして隠しきれない好意的な響きがあった。
「はい。母の姓です」
「素敵なお名前ですわね。……アミア様、ネフェリア様。どうか楽になさってくださいませ。私も、同い年のネフェリア様や、アミア様のような可愛らしい方とお話しできるのを楽しみにしておりましたの」
アメリアさんが席に着き、メイドが新しい紅茶を注ぐ。
緊張を優しく解きほぐしてくれるような、爽やかな紅茶の香り。
私は、目の前のアメリアさんを見つめた。
一周目で出会った十八歳の彼女と比べると、今の十四歳の彼女は、頬が少しふっくらとしていて、まだあどけなさが残っている。
大人の女性になりかけていたあの頃よりも、ずっと若く、私に近い年齢の少女らしさがあった。
(……この人を、絶対に守る)
一周目では、彼女が私の盾になってくれた。
でも今度は、私が彼女の盾になる。絶対に、未来を奪わせたりしない。
「アミア様?」
私がじっと見つめてしまったからだろうか。アメリアさんが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「お顔色が少し優れないようですが……大丈夫ですか?」
「……え?」
「緊張されているのではありませんか? もし良ければ、少し楽な体勢になさってください。温かいミルクティーも用意させますわ」
その声音。その眼差し。
気遣うように眉を下げて微笑む、その表情。
――ああ。
私の記憶が、鮮烈に蘇る。
『アミアさん!? 大丈夫ですか!?』
一周目のあの日。深夜の淑女棟。
姉の断罪を知らせに来た時、彼女自身も青ざめ、手が震えていたのに、ふらついた私を真っ先に支えてくれた。
地下牢へ向かう冷たい朝も、自分の悲しみを押し殺して、私の手を引いてくれた。
(……変わらない……)
見た目は少し幼くなっていても。
その魂にある、澄み切った優しさは何一つ変わっていない。
やっぱり、この人はアメリアさんだ。私の知っている、世界で一番優しい親友だ。
胸がいっぱいになって、私はまた泣きそうになるのをこらえて微笑んだ。
「……ありがとうございます。アメリア様は、本当にお優しいですね」
「え? いえ、そんな……当たり前のことですわ」
アメリアさんは照れくさそうに笑い、それから少し居住まいを正して私とお姉様を見た。
「あの、お二人とも。……ひとつ、お願いがあるのですが」
「お願い、ですか?」
お姉様が小首を傾げる。
「はい。……その、私のことは『アメリア』と呼んでいただけませんか?」
アメリアさんは、少し照れくさそうに頬を染めた。
「え……? いいんですか、アメリア様? 私たちは……」
お姉様が、少し戸惑ったように聞き返した。いくらお茶会とはいえ、貴族の令嬢同士が初対面でいきなり呼び捨てにするのは異例だからだ。
けれど、アメリアさんは少し照れくさそうに頬を染めて、優しく首を横に振った。
「いいのよ、ネフェリアさん。私たち、もうお友達ですし……身分や家柄なんて、堅苦しいだけですわ」
「……!」
その言葉を聞いた瞬間、私の呼吸が止まり、視界がぐにゃりと歪んだ。
(お友達……。それに、身分なんて堅苦しいだけだと言ってくれる、彼女の真っ直ぐさ……)
(一周目のあの日、絶望に向かって歩く冷たい朝の道でも、彼女は『身分なんて、今の私には何の意味もありません』と言って、公爵家の連れ子で『期待外れ』の烙印を押されている私を、対等な一人の人間として扱ってくれた)
(二周目のこの平和な世界でも、彼女はやっぱり変わらない。身分の壁なんて関係なく、真っ直ぐに私たちを『お友達』だと呼んでくれるんだ……!)
『いつか必ず、また呼び捨てで呼び合える日を取り戻してみせます』
一周目のあの暗く冷たい地下牢で。大罪人となったお姉様に向けて、彼女が血を吐くような思いで誓った、あの悲痛な約束。
あの日、彼女が自ら私の盾となって死んでしまったせいで、永遠に果たされることのなかった願い。
それが今――この暖かな陽射しの中で、最高に幸せな形で叶えられたのだ。
「……分かりました。では、私のことも『ネフェリア』と呼んでください」
お姉様が、嬉しそうに微笑み返す。
「私も……堅苦しいのは苦手ですから。ね、アミア?」
「……はい」
私は、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、大きく頷いた。
(……ああ。お姉様とアメリアさんが、再び『親友』になる第一歩。……ううん、お姉様だけじゃないわ)
一周目のあの日。絶望の夜に初対面で出会ってから、わずか数時間。
あの冷たい石段の上で、自らの命と引き換えに私を『親友』と呼んでくれた彼女。
(私にとって彼女は……あの短くも過酷な時間の中で初めてできた、たった一人の『親友』だった)
(だから今度は、死を覚悟した暗闇の中なんかじゃない。この暖かな陽射しの中で、普通の女の子同士として『初めまして』から出会い直して……私にとって初めての親友だったアメリアさんと、もう一度、三人で本当の親友になっていくんだわ!)
一周目の学園で、お姉様は私に『地下図書室でよくお茶をする、優しいお友達ができたの』と、とても嬉しそうに教えてくれていた。
けれど、洗脳の悪意から彼女を守るために……お姉様は最後の三ヶ月間、そのたった一人の大切なご友人すら意図的に遠ざけて、孤独に苦しむことになってしまったのだ。
あの日、絶望の夜に『ここ三ヶ月、私とも会ってくれなくなったんです』と泣きながら打ち明けてくれたアメリアさんの悲しそうな顔を、私は今でも鮮明に覚えている。
周囲から孤立し、心を閉ざしていたお姉様にとって、彼女だけが唯一の理解者だった。
一周目の学園でのような、最後には悲劇で途絶えてしまう絆としてではなく……こうして最初から心を開いて、名前で呼び合い、何があっても途切れることのない本当の『親友』へ。
その運命の絆が、今、私の目の前でもう一度結ばれようとしている。それが何よりも嬉しかった。
(だからこそ――いま目の前で結ばれようとしているこの『三人』の絆は、もう絶対に誰にも引き裂かせない)
「では……改めまして、よろしくお願いします。アメリアさん」
私は、一周目の時と同じ呼び方で、彼女の名を呼んだ。
「様」から「さん」へ。
たった一文字の違い。けれどそれは私にとって、失われた絆を取り戻し、私にとって初めての親友だった彼女と、もう一度『親友』になるための、絶対の証だった。
年下の私からの『さん』付けの呼び方を、アメリアさんは咎めることなく、嬉しそうに受け入れてくれた。
「はい、アミアさん、ネフェリア!」
アメリアさんが、花が咲くように笑った。
かつての冷たい地下牢で、お姉様が語ったささやかな夢。
(……お姉様。夢が、叶ったよ。場所は冷たい地下牢なんかじゃないわ。私たちが、自分たちの手で勝ち取った……この温かな日向の中で)
三人の上に、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ。
それは、暗い運命を照らす、希望の光そのものだった。




