幕間15 アミィエルとハーヴェー
これは、色褪せることのない、遠い昔の記憶。
私、ハーヴェー・カーフェーンが、まだ二十三歳の若造だった頃の話だ。
当時の私は、魔法学園の教授として教鞭を執る傍ら、大臣である父の補佐も務めていた。
ある日の夕暮れ。父の仕事の手伝いを終えた私は、護衛も付けずにふらりと城下町へ足を運んだ。張り詰めた貴族社会の空気から逃げ出したかったのだ。
そこで私は、運命に出会った。
路地裏から聞こえる子供たちの泣き声。そして、ふわりと広がる温かな光。
見れば、ライトブルーの長い髪をした少女が、粗末な服を着て、転んで怪我をした子供をあやしていた。
彼女の片方の掌には小さな温かい『火』が灯り、もう片方の掌の上では、蛍のような『光』の粒が舞っている。
二つの属性。火魔法と――極めて希少な『光魔法』だった。
「……君」
私は思わず声をかけた。
「あなた、光魔法を使うのですか?」
振り返った彼女の、透き通るような緑色の瞳。
それが、私とアミィエル・レフィーナとの出会いだった。
***
私はすぐに父に掛け合い、父を通じて国王陛下に直訴した。この才能を埋もれさせてはいけないと。
異例の措置として魔法学園への入学許可が下りたが、最大の壁は彼女の家族だった。
彼女を育てたパン屋のイフェル夫妻は、猛反対した。
『貴族の世界なんて、この子が傷つくだけだ』『王族に利用されるだけだ』と。
もっともな意見だった。
けれど、私は諦めきれず、何度も店に通った。そして彼女自身も、育ての両親へ強い意志で頭を下げた。
『お父さん、お母さん。私、この力で誰かを笑顔にしたいの。……もっとたくさんの人を、温めたいんです』
彼女の熱意と、私の『私の命に代えても、必ず彼女を守り抜きます』という誓いに、夫妻は最後には折れてくれた。
そう、この頃にはもう、私は彼女の前では『俺』という一人称を使っていた。教師と生徒という立場を超えた、同志のような親近感を抱き始めていたからだ。
***
入学後、予想通り彼女への風当たりは強かった。
平民への露骨な差別、そして規格外の才能への嫉妬。
私は彼女を、王城の地下にある『地下図書室』の隠された訓練場へと案内した。
「ここなら、誰にも邪魔されない。……思う存分、練習しろ」
「はい! ありがとうございます、カーフェーン先生!」
それから、私たちは毎日のようにそこで過ごした。
魔法の議論を交わし、時には他愛のない話で笑い合った。
「先生、見てください! 今日はこんなに長く光の形を維持できました!」
「ああ、すごいなアミィエル。君の魔力制御は、日に日に洗練されている」
「ふふ、先生の教え方が上手だからですよ」
そう言って花が咲くように笑う彼女を見るのが、私の密かな楽しみになっていた。
だが、彼女の学園生活は決して平坦ではなかった。
ある日、彼女が泥だらけの制服と、破り捨てられた教科書を抱えて地下室に現れたことがあった。
「……また、やられたのか」
「平気です。破れていても、文字はちゃんと読めますから」
彼女は気丈に笑ってみせたが、その手は微かに震えていた。
私は胸が締め付けられる思いで、彼女の頭にそっと手を置いた。
「……すまない。俺が無理に入学させたせいで、君にこんな辛い思いを……」
「謝らないでください、先生」
アミィエルは顔を上げ、透き通る緑の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「私は……先生が私を見つけてくれたこと、本当に感謝しているんです。だから、どれだけ意地悪をされても、絶対に負けません。先生が信じてくれた私の魔法を、もっと強くしてみせます」
そのひたむきで気高い姿に、私は決定的に惹かれていった。
教師として見守るべき一線を越え、一人の男として、彼女に深く恋をしてしまったのだ。
年は離れていたが、それでも私たちは互いに惹かれあっていた。
そして、彼女もまた――私に同じ想いを向けてくれていることに、薄々気づいていた。
ふとした瞬間に目が合うと、頬を染めて視線を逸らす仕草。
魔法の指導で手が触れ合った時、お互いに熱を帯びてしまう指先。
二人きりの地下室で、沈黙さえも心地よいと感じる甘い空気。
けれど、その恋が結ばれることはないと、二人とも分かっていた。
私は大臣の家系、次期当主。彼女は平民の孤児。
この国の身分制度は、絶対だ。遊びの恋ならともかく、結婚など許されるはずがない。
だから私たちは、互いの想いに決して触れることなく、蓋をして、「先生」と「生徒」を演じ続けた。
そして、彼女が十八歳になった年。
地下訓練場での事故が起きた。
その日、アミィエルの魔法は飛躍的な成長を見せていた。彼女の放つ『火魔法』の熱量と、強大に膨れ上がった『光魔法』の魔力が混ざり合い、空間を激しく震わせた。
だが、その力が強すぎたのだ。
不運だったのは、この地下施設が古く、老朽化が進んでいたことだ。
ピシッ、と嫌な音が響いたかと思うと、頭上の巨大な石材が崩落した。
アミィエルの真上へ向かって。
「危ないッ!」
私は考えるよりも先に身体を動かし、彼女を突き飛ばして覆いかぶさった。
ドォォォン!!
激しい衝撃が背中を走り、焼けるような痛みが全身を駆け巡った。
瓦礫に押しつぶされ、肋骨が砕ける音が体内で響く。
口から大量の血が溢れた。
「先生ッ!?」
無事だったアミィエルが悲鳴を上げ、血だらけの手で瓦礫を退けて私を抱き起こす。
私は血の海の中に横たわっていた。内臓が潰れているのが分かった。意識が急速に遠のいていく。
これは――助からない。
「先生……! いや……目を開けて……お願い……!」
彼女は血に濡れた私の身体を抱きしめ、ボロボロと涙をこぼした。
その顔は、単に恩師を心配する生徒の顔ではなかった。
もっと深く、切実な――愛する者を失う絶望に染まっていた。
「……泣かないで……くれ……アミィエル……君が……無事なら……それで……」
「嫌です! 絶対に嫌! 私のために命を落とすなんて……!」
私が最期の力を振り絞って微笑むと、彼女は首を激しく振って叫んだ。
その瞬間、彼女の心の奥底にあった「蓋」が弾け飛んだ。
「嫌……っ! 貴方がいない世界なんて……私、生きていけない……っ!」
「ずっと……ずっとお慕いしていました……! だから、私を置いていかないで!」
それは、身分違いの恋だと分かっていたからこそ、彼女がずっと胸の奥に封じ込めていた想い。
彼女の魂の絶叫が、理を超えた。
「死なせない……絶対に……!」
「お願い……彼を治して!!」
カッ!
地下室が、黄金の光に包まれた。
無詠唱で発動したその奇跡。
愛する者を失いたくないという想いの強さが因果をねじ曲げ、光魔法の上位派生――『幻級魔法・治癒魔法』を覚醒させた瞬間だった。
「何、この暖かい光は……」
温かい光が、砕けた骨を繋ぎ、潰れた臓器を再生させていく。
それは、彼女の愛そのもののように、優しく、力強かった。
「……治った……?」
光が収まると、私の致命傷は跡形もなく消えていた。
呆然と自分の両手を見つめる彼女を見て、私は歓喜よりも先に、激しい戦慄を覚えた。
これは、ただの治療ではない。生命力そのものを強引に繋ぎ止め、死の淵から引き戻す神の御業。
伝説にしか聞かない「幻級」の力だ。……当時から王家にも「光の先にある治癒」という概念自体は、おとぎ話として伝わってはいた。しかし、その記述はあまりにも少なく……それが『百年に一人の光魔法使い』の行き着く先だということまでは、歴史から忘れ去られていたのだ。
平民であるアミィエルに対して、王族はこれまで何の興味も示していなかった。
だが――彼女がこの力を覚えてしまったことで、運命は一変する。
この力が露見すれば、彼女は「国宝」や「戦場の女神」という美名のもとに自由を奪われ、一生を国の道具として飼い殺しにされる。
「アミィエル。君のその力は……奇跡だ。だが、それゆえに君を縛る呪いになる」
「呪い……?」
「もし俺たちがこのまま惹かれ合い、結ばれれば……次期大臣である俺の存在は、君を王城に縛り付けるための格好の『鎖』にされるだろう」
私の言葉に、アミィエルは息を呑んだ。
「だから……俺たちの関係は、ここで終わりにしなければならない。君の未来と自由を守るために」
「……先生……」
彼女の緑色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
互いに命を懸け、想いを通じ合わせた直後に訪れた、残酷な別れの宣告。
「……分かりました。……でも、最後に一度だけ」
アミィエルは、震える手で私の頬に触れた。
「貴方を……『ハーヴェー様』と呼んでもいいですか?」
「……ああ」
「愛していました。……貴方は私の、たった一つの光でした」
「俺もだ、アミィエル。……君は俺の誇りであり、誰より深く愛した女性だ」
私たちは、冷たい地下室で一度だけ、最初で最後の口づけを交わした。
互いの初恋を、この地下の闇に葬るために。
それからは「恩師」と「教え子」として、明確な一線を引いて接した。
だが――運命は残酷だった。
その力はやがて王族の知るところとなり、彼女は私が最も恐れていた通り、その身を過酷な戦火に投じることになってしまったのだ。
***
そして数年後。
アミィエルは突然、王城を去った。
宮廷魔道師としての地位も、名誉も捨てて。
「なぜだ……?」
私は困惑した。
彼女は誰よりも優しく、責任感が強かった。傷ついた兵士たちを見捨てるような真似をするはずがない。
それなのに、なぜ彼女は逃げるように去ったのか。
私は、オニファス国王陛下に謁見を求めた。
「陛下。アミィエル・レフィーナが辞職した理由をご存知でしょうか」
陛下は、玉座で沈痛な面持ちをされていた。
私とアミィエルが、かつて教師と生徒以上の絆で結ばれていたことを、陛下は薄々感づいていたはずだ。
「……」
しかし、陛下は何も答えなかった。
ただ、苦渋に満ちた目で私を見て、首を横に振っただけだった。
言えない。あるいは――言ってはいけない何かがある。
私はそう直感した。王が口を閉ざすほどの国家機密。それは、彼女の持つ『幻級魔法』そのものに関わることではないか。
私は王城の奥深くにある『王立図書館』へ走った。
「幻級魔法」「治癒魔法」に関する禁書指定の記述を片っ端から調べた。
アミィエルが去った理由が、その魔法の特性にあるのではないかと考えたからだ。
だが――おかしなことに、肝心の記述が見当たらない。
古い文献の、「治癒魔法の代償」や「禁忌」に関するページだけが、不自然なほど綺麗に切り取られたり、黒く塗りつぶされたりしていたのだ。
(……誰かが、隠した……?)
(……まさか、王様が……?)
嫌な予感がした。
国の中枢が隠滅するほどの秘密。
私は居ても立ってもいられず、かつて彼女と過ごしたあの場所――地下訓練場へと向かった。
埃被った地下室。
そこには、彼女が去り際に残していったと思われる、使い込まれた革表紙の研究ノートが置かれていた。
「アミィエル……」
私は震える手でそれを開いた。
そこには、私と共に編み出した『ヒール』や『ハイヒール』の術式が、彼女の丁寧な文字で記されていた。
だが――最後の数ページ。
そこには、焼け焦げた跡があった。
何かが書かれていたページが、乱暴に破り取られ、魔法で焼却されかかっていたのだ。
「……ッ!」
その瞬間、全ての点が線で繋がった。
なぜ、彼女が去ったのか。
なぜ、陛下が沈黙したのか。
なぜ、文献が隠されていたのか。
治癒魔法のさらに先。彼女は、神の領域を犯す『禁忌』に辿り着いてしまったのだ。
(……アミィエル……君は……)
彼女は、その魔法がもたらす恐ろしい真実に気づき、一人で背負う覚悟を決めたのだ。
そして、この禁忌を後世に残さないために――自らページを破り捨て、燃やした。
誰かを不幸にする魔法など、決して残してはいけないと悟ったから。
私は、そのノートを抱きしめて泣いた。
彼女は、たった一人でその恐怖と戦い、そして誰にも言わずに去っていった。
愛する人たちを悲しませないために。
「……馬鹿だな、君は……どうして俺を頼ってくれなかったんだ……」
愛した人のあまりにも深すぎる優しさと強さに、私は涙を止めることができなかった。
「……守るよ、アミィエル」
私は涙を拭い、誓った。
「君が命懸けで隠したこの秘密は……俺が墓場まで持っていく」
もし将来、彼女の子供――あるいは次の光魔法使いが、あの訓練場を訪れる日が来た時。
その子が、恐ろしい禁忌に足を踏み入れないように。
「母は人を救うために生きた」と、誇りだけを持てるように。
私は、破り取られた痕跡が残るそのノートを、あの机の上にそっと残した。
「人を救う希望(治癒)」だけを未来へ託し、残酷な真実だけは、私が背負い続けると決めたのだった。




