二十三冊目<コドクペアレント>
「毒親って言うんだよ」
娘から言われた一言。意味はよく分からないが、いい言葉ではないということはよく分かった。
会社の休み時間。ガラケーを操作して、検索スペースに「毒親」と入力する。ヒットした件数は星の数を超えそうなほど。
「けほっ……過干渉、過保護、支配……」
いろんなタイプの毒親がいるみたいだが、自分がどれに当てはまり、娘にそう思わせてしまったのか見当もつかない。
「海さん、何してるんすか?」
隣のデスクに座る後輩、草間が話しかけてきた。
「ん?ああ。ちょっとな」
言葉を濁すと、草間はガラケーを勝手に覗き込んできた。
「なになに?毒親?」
「おい、勝手に見るなよ」
「えー!海さん毒親なんすか?」
注意も無視する失礼極まりない後輩だが、特に怒りが湧くわけではなかった。草間の嫌味のない性格がそうさせるのかもしれない。この際だから、相談してみよう。草間は29歳。ヒントがもらえるかもしれない。
「俺はよく分からないが、前に娘に言われてな……ずっと気にしないふりをしていたんだが、やっぱり気になって調べてみたんだ。でも、色々な情報がありすぎて余計に混乱しているんだ。草間から見て、俺は毒親か?」
「いやいや!僕は海さんの子供じゃないから分からないっすよ。あ、でも、最近毒親ってよく聞きますよね。言葉自体は、結構前に生まれているみたいっすけど」
「そうなのか?」
「はい。1989年にスーザン・フォワードって人が作った言葉らしいっすよ。今は2022年だから、30年くらい前にできた言葉っすね」
「生まれる前なのによく知ってるな」
「最近よく聞くって言ったじゃないっすか。理由はよく分からないっすけど、子供に価値観を押し付けたり、自分の理想の子供に育てようとして、子供の考えとか感情を抑え込んだりしてる親が増えてるらしいっすよ。この間テレビでやってたじゃないっすか」
「テレビはあまり見ないんだ。でもそうか。じゃあ、俺もそう言われても仕方がないのか……」
「でも、海さんと娘さんって仲良いんじゃなかったすか?」
「そのはずだったんだが、俺の思い込みだったみたいで……」
毒親について知れば知るほど、あの一言がショックでたまらない。
「はあ……俺は子供に害をなす親なのか……はあ……」
「海さんって、落ち込みだすと、とことん落ち込むっすよね……」
「おいそこ!休憩時間は終わっているぞ!」
「すみませんっす!」
注意されたのも、休憩時間の終わりを知らせるチャイムが鳴ったことも気が付かなかった。草間に肩を揺すられて、ハッとし、仕事に戻った。
「海さん、今日は飲みに行きません?落ち込んでばかりだとよくないっすよ」
お通夜のような状態で仕事を終えると、草間が気分転換に誘ってくれた。気持ちはとてもありがたい。パーっと飲んで、もやもやしているものを全部吐き出せたなら、どんなに爽快だろうか。でも、
「悪い。夕食の準備をしてきていないから、今日は無理なんだ」
「真面目っすねぇ。娘さんだって、大学生っすよね?電話1本で解決する話じゃないんすか?」
「まあ……でも、もしかしたら、サークル活動とか授業で疲れているかもしれないし……」
「分かったっすよ。じゃあ、明日は開けておいてくださいね。約束っすよ?}
「ああ。ありがとう」
「それじゃ、僕はこっちなんで、お疲れ様っす」
「お疲れ」
草間と別れると、明かりの灯っていない、自宅へと向かった。
「ただいま……」
玄関は暗い。キッチンも、リビングも。それなのに、2階の部屋から、笑い声交じりの声が聞こえた。雛子だろう。最近、よくああして誰かと長電話をしているのだ。
「電気くらいつければいいのに……」
「何?別にいいじゃん。私が困るわけじゃないんだし」
「わ!」
玄関の電気をつけ、キッチンの電気をつけた瞬間、後ろから雛子に話しかけられた。いつの間に2階から降りてきたのだろう。今日の俺は、どうも人の気配や音に鈍感になっている。耳鼻科に行ったほうがいいだろうか。
「幽霊が出たみたいな反応しないでくれる?ウザいから」
「ごめん……」
「てか、突っ立てないでどいて。飲み物取りに行けないから」
「ああ……」
雛子は大きな足音を立てながら冷蔵庫を開け、ペットボトルのミルクティーを手にすると、何も会話をすることなく、キッチンから出て行ってしまった。
「雛子!すぐにご飯作るから……」
大声で叫ぶと、雛子は入り口から顔だけをのぞかせ、
「いらない。外で食べてきたし。というか、私ダイエット中なの。お父さんの作る料理ってカロリー高すぎて食べれないから。もう作らなくていいよ。てか、作んないで。作ったのに食べなかったら私が悪いみたいな反応するじゃん。そういうのウザいから」
久恵に似て、雛子は美人だが、目元が吊り上がっていて、キツイ印象を受ける。その上この言葉遣いだ。心に、何本針を刺されたことか。でも今日は、針じゃなくて、ナイフが刺さったと言っていいほどショックだった。今までの努力は?雛子にとって、食事も迷惑だった?何がいけない?久恵が残してくれた宝物を懸命に育ててきたつもりだった。もちろん、いつかは結婚して家を出るかもしれない。それを止めることは考えていない。しかし、これまでの自分を否定されるのは、苦しかった。
「今日、飲みに行けばよかったな……」
俯いた顔を上げると、真っ暗なリビングが視界に広がった。
俺と雛子の関係は、初めからこんなに劣悪だったわけではない。毒親だと言われたあの日までは、確かに良好な関係であったのだ。
では、なぜこんなことになってしまったのか。
事の発端はあの夜のこと。夕食のカレーライスを食べている時だった。
「お父さん。私、彼氏ができたの!甚冷矢っていう名前なの。かっこいいでしょ!」
「すごいじゃないか。おめでとう!同じ大学の子か?」
「ううん。SNSで知り合ったの。私のこと、一番大事にしてくれる、超いい人なの!」
「SNSってネットだろう?危ないんじゃないか?」
「いつの時代の話してんの?今の時代、SNSでの出会いなんて、珍しくないんだから。お父さんは昔の人だから、そういう感覚が分からないのかもしれないけど」
「でも……」
「私だって、大学4年だよ?成人式だって終わってる。自分のことくらい自分で決められるし、安全なのかとかも、判断できるわ。だからね、今度の連休に会いに行くんだ。えへへへ」
雛子は随分浮かれていた。確かに、大人と言えばもう大人だ。彼女の恋愛を応援してあげるのが、俺のやるべきことなのだろう。しかし、どうしてもSNSというものに引っ掛かりを覚えてしまう。
「なあ雛子。彼氏の顔とか、住んでいる場所とかってわからないのか?後、年齢とか」
きっと情報不足で心配してしまうのだと感じ、気になることをぶつけた。すると、楽しそうに話していた雛子の表情が一変し、異物を見るような目で、俺を睨んできた。
「何それ。彼氏がまるで悪い人みたいじゃん。てか、個人情報なんだけど」
「で、でも、会うからには知っておいたほうが安心じゃ……」
「それはお父さんが、でしょ?お父さんの価値観で私の行動に口出ししないで」
「心配なんだ。どこの誰って知らない人と会うってことが。だから……」
「ねえ。それってさ、毒親って言うんだよ」
「え……」
「もういい。明日から、私のことはほっといて。話しかけないで」
「雛子!」
この日から、雛子は部屋に籠りっぱなし。口も利かない。話しかければ邪険にされるようになった。まるで、俺が悪いことをしたかのように。
そして今に至る。雛子は家で食事もしなくなった。朝食も、夕食も。弁当だって、作っておいても、持って行ってもらえなくなった。もったいないので、俺が夕食として食べていた。もちろん、今日の弁当も置きっぱなしだ。
「今日は雛子の好きな、3色丼だったんだけどな……」
電子レンジで温め直すのも億劫で、そのまま食べた。冷めすぎたせいか、そぼろが朝よりもくどく感じた。
翌日。40度の熱を出して、仕事を休んだ。起き上がることもままならない。
「雛子のご飯……」
『もう作らなくていいよ』
そうだった。雛子は、もう俺のご飯を必要としていない。それに今頃家にはいないだろう。彼氏に会いに行くと言っていたし。俺は、もう……視界がぼやける。寝巻きの袖で顔を拭うと、
「え」
一気に部屋の景色が変わった。膨大な本棚にぎっしり本が詰められているところを見ると、ここは図書館なのだろう。
「ようこそ、伝承者の館へ。私は伝承者、葉月史乃。歓迎するぞ。選ばれし者、海幸次郎」
声主は、中央にあるカウンター席に座っていた。その子は、黒いロングストレートの髪で、紫色のドレスのような衣装を身にまとった少女。笑わない目で、口角だけを上げて話しかけてきた。雛子が1番の美人だと思っていたが、少女もなかなかの美人だった。
「あの、ここはどこのなんですか?ゲホゲホッ……」
熱があるせいか、ずっと続いている咳が悪化した気がする。正直話すこともかなり辛い。立っているのだって必死だと言うのに。
「君、本当に風邪かい?病院に行かずに市販薬で済ませていないか?」
「どうしてそれを……」
「君が選ばれし者で、私が伝承者だからだとしか言えないな。それよりもだ。死にかけの君に話をするのは気が引ける。病院へ今からでも行ってくれないか?」
「本当に不思議な子だ。病院へは行かないよ。とりあえず、その椅子に座ってもいいかな?」
俺は少女の向かい合わせに置かれた椅子を指差した。
「構わない」
「ありがとう」
座り心地がとてもいい椅子だった。
「で?なぜ受診を拒むのだ?」
「史乃ちゃんって言ったかな。本当はわかっているんだろ?病院に行ったところで意味がないって」
「なぜそう思う?」
「熱があって、咳をしているだけの人間に、そこまで受診を勧める人はあまりいないからね。それに、一瞬で空間を移動できる子が、気づいていても何も不思議なことはないから」
「ふむ。買い被り過ぎだと言いたいところだが、その通りだ。君の余命はもう長くない。だが、少し先延ばしにすることはできるだろう?」
「ああ。でも、雛子、娘に不必要だと言われたんだ。毒親である俺はいらないって。だから、治療を頑張ろうと思っていたんだけど、辞めた。もう生きていたくない。娘を嫌な子だと思いたくない。立派に育ったと感じながら死にたいんだ」
「そうか。では、私からこれ以上言うことはないな。しかし、私がここに呼んだということは、君には伝承を伝える役目があるということだ。ここで死なれても困る。これを飲みながら話を聞いてくれ」
史乃ちゃんは、ティーカップと、ティーポットをツインテール少女に持ってきてもらい、俺の前に置いた。ハーブのようないい匂いがする。
「病は治せないが、現状の症状は緩和できる。たくさんあるから飲めるだけ飲むといい」
「ありがとう。いただきます」
ティーカップに注いだ金色の飲み物は、一口飲んだだけでも効果が分かるくらいだった。味も美味しく、あっという間に2杯飲み干してしまった。
「まだあるから、ポットにお湯がなくなったら言ってくれ」
「ありがとう。それにしても、この飲み物すごいね。熱も引いたみたいだし、呼吸も楽だ」
「それはよかった」
かすかに、史乃ちゃんの目が笑ったような気がした。
俺が落ち着くのを待ってから、史乃ちゃんは話し始めてくれた。目的のためかもしれないけれど、とても優しい子だと思った。
「さっき君は、自身が毒親だと言ったな?どういうところが毒親なのだ?」
「よくわからないんだ。ただ、娘がそう言ったから、そうなのかなと。調べてはみたけど、何に当てはまるのか……」
「まあ、自覚あって毒親をやっている奴はいないだろう。無意識でそうしているのだ。子供のためだとか言ってな」
「じゃあやっぱり、俺も……」
「しかし、この線引きが難しい。調べたなら分かると思うが、過干渉や過保護や支配、罪悪感を植え付けてくるなど様々な毒親が存在する。だが、毒親は子供にとって毒となる親の存在だ。私が見る限り、君がそうだとは言いにくいのだがな」
「でも、強いて言うなら、きっと過保護なんだと思う。俺は、妻を早くに亡くして娘を1人で育ててきたから、娯楽を楽しむこともテレビをゆっくり見ることもしてこなかったんだ。そのせいか、あまり社会の流れというか、時代の変化に疎くてね。顔の見えない相手に会いに行くのは、今では普通だと言われてたよ。時代遅れの俺が、口出しできることなんてないのに……」
「まあ、気を落とさずともいいだろう。これを使えば分かることだ」
史乃ちゃんは、机の上にスプレー缶を出してきた。ラベルがない所を見ると、これもお手製なのだろうか。
「これは、ヘルプスプレー。毒親の起源は知っているかな?」
「後輩に聞いたよ。すーざん……何とかさんが作った言葉だとか」
「1989年に出版されたスーザン・フォワードの著書から生まれた俗語だ。スプレーは、この本を手に取り、自身の親が毒親だと感じた1人の少女が作った」
「え?」
「少女は、過干渉も過保護も支配も罪悪感を植え付けられることも、全てされてきた子供だった。周りの子たちを見ておかしいと思い始めた矢先に、この本が出た。少女は解放を願い、このスプレーで家の壁に毒親がいる家と書いたそうだ。もちろん、親にはひどく叱られたし、毒は増したらしい。だが、スプレーで描かれた文字を親が落としている時だった。急に具合が悪くなり、病院へ。そしてそのまま亡くなったそうだ。少女がスプレーに細工したのかは不明だ。それでも、このスプレーは毒親のみに効果を発揮することは確認済みだ。そこでだ。君には、このスプレーで、町のどこかに落書きをしてほしい。描くものは何でもいい。動物でも花でもいい」
「でも勝手に落書きなんて……」
「大丈夫だろう。さすがの私もそこまで鬼ではないよ。現代の知識がないわけではないからね。もちろん、君が描いた後には何も残らないように細工がしてある。残るのはあくまでスプレーの成分のみ。風に乗って広がった成分は毒親を苦しめるだろう。最悪の場合、死ぬ者も出る。だがそれでいい。真の毒親を炙り出し、今苦しんでいる子供を救ってくれ。そして願わくば、子供と親との良好な関係を築ける町になってほしい。頼めないだろうか?」
ここで断る理由はない。どうせ短い命だ。娘のために使えないのなら、史乃ちゃんの願いを叶えよう。
「描くのは本当になんでもいいのかい?」
「もちろんだ。何か描きたいものでもあるのか?」
「ポインセチア。クリスマスの定番の花なんだ。花言葉は幸運を祈る。妻が好きだった花だから、よく覚えているんだ。毎年のクリスマスにプレゼントしていたよ。懐かしいな……」
「描けるのか?」
「上手くは描けないけど、特徴くらいは覚えているよ。史乃ちゃんの祈りが届くように、歩けるだけ町中を歩いて描いてくるよ」
「そ、それだと、体に無理がかかるだろう?」
「いいんだ。じゃあ。行ってくるね」
「そんな……」
史乃ちゃんの表情が、初めて大きく動いた。やっぱり優しい子だ。
「そうだ。何でも知っている史乃ちゃんに、教えてほしいことがあるんだ」
「?」
「娘は、彼氏と幸せになれるだろうか?」
最期の心残りだった。雛子が幸せになる未来があるのかどうか、それを確かめたかった。過保護でも過干渉でもいい。雛子が笑顔で暮らせるのかだけは、知っておきたい。たとえ、もっと嫌われることになっても。
「そうだな……」
史乃ちゃんの表情が曇った。すぐに答えをくれない。
「どうしたの?」
「い、いや……うーん……」
首を捻って何やら考え込んでいた。もしかしたら……
「娘は、不幸になるの?」
「……」
史乃ちゃんは答えをくれない。どうしよう。手が汗ばんできた。どうしよう。焦る俺に、史乃ちゃんは俯いた顔を上げて、優しく微笑んだ。
「なれるよ。幸せに」
これが嘘だと分かっていた。それなのに、俺の心は落ち着きを取り戻したのだった。史乃ちゃんなりの配慮だろう。俺を混乱させないように、安心させるために、迷いながらも嘘を言ったのだ。ならば、これ以上の追求は避けるべきだ。
「そっか。ありがとう、教えてくれて。じゃあね」
俺も笑顔で答えた。史乃ちゃんは、申し訳なさそうに微笑んだまま、何も言わなかった。俺は、スプレーを持って、図書館を出た。
家に戻った俺は、早速ヘルプスプレーでポインセチアを描いてまわった。家の前から始まり、町の外れまで歩いて行った。道路や交差点、公園や空き家の壁……ありとあらゆる所にポインセチアを描いた。
「げほっげほっ!」
血の混じった痰が出る。苦しい。家に帰りたい。その時、ヘルプスプレーが空っぽになった。俺は、やり遂げたのだ。
「やった。うぅ……」
苦しくなり、地面にうずくまる。だが、最期は、妻のいた家で迎えたい。必死に耐え、家に急ぐ。自分の体力も命も限界をとうに超えていた。
やっとの思いで家に着き、玄関開けて家に入る。無意識に扉の鍵をかけて、リビングのソファに座った。
「はあ……はあ……ただいま、久恵。もうじき俺もそっちへ行くよ。え?雛子?大丈夫。彼氏ができたんだ。任せられる彼氏が。今頃、幸せにデートしてる。だから……安心し……」
ソファから見える久恵の写真に話しかけ、俺は力尽きた。テーブルに置きっぱなしのガラケーがうるさく鳴っていた気がした。
「やあ。また会ったね」
「あれ……?史乃ちゃん?」
死んだはずだと思っていたのだが、なぜか、またあの図書館に来ていた。
「俺は、どうなったんだ?死んだんじゃないの?」
「死んだよ。だから、あの世に行く前に、君の成果を報告してあげようと思ってね」
「ヘルプスプレーの?どうなったの?というか、俺は、どうなったの?」
質問攻めにも、史乃ちゃんは嫌がらずに答えてくれた。
「まず、君の死体についてだが、君が力尽きてから、数日後に発見された。近所の人がおかしいと思って訪問したところ、死んでいるのを発見したんだ。死因は病死なんだが、孤独死と言われている。娘も帰ってきていないし、妻にも先立たれているという状況からそう判断されたそうだ」
「娘はまだ帰ってきていないんだ……そういえば、死ぬ間際に、携帯が鳴っていた気がしたんだけど、気のせいだったのかな?」
「気のせいだ。なぜそう思うのだ?」
「俺は、家族からのメールや電話だけ、着信音を変えているんだ。その音が、鳴った気がして。あはは。未練がましいよな」
「別に。そうは思わないぞ。そろそろ本題に入ってもいいだろうか?君をここに留めておくのも時間制限というものがあるからな」
「ごめんね。どうぞどうぞ」
「悪いな。えーと、君がヘルプスプレーでポインセチアを描いてくれたおかげで、毒親たちが体調を崩し始めている。しかも、理想の家庭だと呼ばれた家ばかりなんだそうだ」
「どうして……」
「さあな。その辺は想像に任せる。で、君はヘルプスプレーの成分を直に浴びていたわけだが、体に変化はあったか?病が悪化する以外でだ。例えば、子供のなく声が耳元で聞こえたりとか、頭の中に謝り続ける子供の声が響いていたりとか、体中が、かすり傷だらけになったりとか」
「そんなことはなかったな。いつも通りの症状が悪化したけど……」
「それが、君への答えだ」
「まさか……」
「君は、毒親ではなかったということだ。おっと、そろそろ時間だな」
体が白い煙に包まれ、史乃ちゃんの顔が見えなくなる。最後の最後まで、欲しい答えはくれないくせに。でも、雛子にとって、毒じゃなかったのなら、それでいいか。
「ありがとう。史乃ちゃんに会えてよかったよ。俺のやったことも無駄じゃなかった。この命だって無駄に終わってしまわなかった。本当にありがとう。胸を張って妻に会いに行くよ」
「そうか。君の武勇伝を聞いたら、どんな反応をするのだろうな」
「きっと喜んでくれるさ」
「……ありがとう。さようなら」
顔は見えないが、史乃ちゃんは確かにそう言った。俺は煙に完全に包まれると、意識が遠のいて行くのを感じた。もう言葉を話すこともできなくなっていた。
ーありがとう。優しい嘘をくれる君。




