第閑話『逆夢』
この話は夢オチです。
最後には『全部夢でした』といって本編との帳尻を合わせる、あの禁断の手法を採用しています。
しかも、『本当のこととは逆のことが起こる夢』という意味のサブタイトルまで冠している始末。
書く側としては、何の制約もなく好き勝手にやれるので楽しいのですが、あのキャラとかこのキャラとか、本編では絶対にやらないようなことをやってるキャラが何人か出てきています。
ひょっとしたら、一人残らず本編ではやらないようなことをやってるかもしれません。
なので、そういうのが苦手な方は、申し訳ありませんが、今回の番外編はご遠慮ください。
まどろみの中で、誰かに体を揺すられた気がした。
カーテンの向こう側に満ち満ちている陽光が室内を仄かに照らし、朝の訪れを告げている。
「……夏樹、起きて」
優しげで、慈しむように夏樹の体を揺り動かす誰かの柔らかな声が、夏樹の耳に甘く響く。
夏樹の目覚めを促そうとしているはずのそれらは、夏樹を包み込む布団の温もりと相まって心地よく、夏樹を更なる眠りの中へと誘っているかのようにさえ感じられる。
「……もう、夏樹ってば……。早く起きてくれないと、いたずらしちゃうよ?」
穏やかな空気に身を委ねて、なかなか起きようとしない夏樹に、夏樹を揺する誰かはそんなことを言う。
困ったように、あるいは呆れたように響くその声は、それでいて焼きたてのパンみたいに温かくて、ふわふわしている。
そんな幸せそうな声音で『いたずらをする』と言われても、普段の起こされ方と比べれば、怖くも何ともない。
夏樹を起こすために優しく体を揺するような誰かが、どんないたずらをするつもりなのかも気になって、夏樹はもう少し寝たふりを続けることにした。
「……じゃあ、遠慮なく」
夏樹に起きるつもりが無いことを見て取った誰かは、抑揚のない声を僅かに弾ませて、夏樹の前髪に指を通して梳き上げる。
その直後、身を乗り出す気配に続いて、額にしっとりとした柔らかい感触が訪れる。
仄かな熱を帯びたそれが離れるとともに目を開けると、夏樹を起こしに来た『誰か』の顔が、文字通りに目と鼻の先にあった。
「……残念。ここからが本番だったのに」
いたずらっぽい笑顔を浮かべながらの言葉には、あまり残念そうな響きは無い。
くすぐったそうに笑う様からも、そいつが夏樹をからかっているだけなのは明白だ。
ただ、それでも夏樹は困惑する――それとは無関係に困惑する。
なぜなら、目の前のそいつは普段、くすぐったそうに笑うどころか、夏樹の前では微笑みを浮かべることさえ稀だからだ。
「……おはよう、夏樹」
とろけそうなくらい甘い微笑みを夏樹に向けるそいつ――夜凪檸檬は、幸せそうに口元を綻ばせて、嬉しそうに朝の挨拶をこぼす。
夏樹が体を起こすと檸檬も立ち上がり、夏樹の手を引いてベッドから連れ出す。
いつもと様子の異なる檸檬を不思議に思う(どころか、半ば戦慄する)夏樹に構わず、檸檬は晴れやかに笑って言った。
「……今日の朝ご飯は、ユーリエたちが作ってくれてる」
◆
「あっ! おはようございます、なつき!」
檸檬に手を引かれてリビングに入ると、ちょうど朝食を配膳していたらしいユーリエが、にこやかに朝の挨拶をしてくれた。
やたら発音が流暢だった気もするが、すぐにそんなことと比較にならない驚きが夏樹に襲いかかる。
「おっそい! いつまで寝てるつもりだったのよ、この怠け者!」
「こら、口が過ぎますよ。日頃お世話になっているのですから、朝くらいゆっくり眠らせて差し上げるべきです」
自分の仕事は終わったとばかりに席に座っている紅い瞳の女の子から遅めの起床を怒られ、緑眼のシスターがそれをたしなめている。
何で当たり前みたいに二人ともいるんだとか、君たち仲が悪くなかったっけとか。
突っ込み待ちみたいな光景に夏樹は当惑するが、それに追い打ちをかけるように、なぜか六連星家の食卓で食器の配膳をしている梔子朝日に着席を促されてしまう。
「あ……あのっ! 六連星くんも檸檬ちゃんも、とにかく座ろう? 今日はユーリエちゃん、『カツ丼』と『らーめん』に挑戦してみたんだって」
朝から凄まじいメニューだった。
というか、夏樹は頑張ればともかくとしても、女子のみんなは朝からそんなに食べられるのだろうか。
想像を絶するボリュームに夏樹が抱いたそんな疑問に、台所から飛んできたユーリエの声が答えた。
「私たちはきっと食べきれないので、御代わりもたくさんありますから。どんどん食べてくださいね、なつき!」
要するに、女子勢が食べきれなかった分は食ってくれということらしい。
しかも口振りから察するに、自分たちが食べきれないことを前提に作っている節がある。
メニューの内容と量について小一時間ほど説教をした後、夏樹のことをどれだけ大食らいだと思っているのかを問いただしたい衝動に駆られるが、そんなことをしても事態は何一つ好転してくれない。
仕方がない、とばかりに夏樹は一つ嘆息して、席に着く。
続いて檸檬が夏樹の隣に座って、食卓に全員(紅い瞳の女の子と緑眼のシスターに朝日までいるくらいなので、少し自信はないけれど)揃う。
それぞれが胸の前で両手を合わせると、異口同音に食事前の挨拶を交わして、思い思いに食事を始めた。
「……じゃあ、せっかくだから私は、ユーリエの新作の、カツ丼から食べてみる」
「お、お願いします、れもん……!」
「あ、じゃあ私は、らーめんのほうからいただこうかな。あんまり後回しにしちゃうと、麺が伸びちゃうし」
「では、私も。伸びる、というのはよく分かりませんけど、せっかくの食事を冷ましてしまうのも、もったいないですものね」
人の性格は、けっこう色んなところに表れる。
テーブルに並べられた料理を、どの順番でどのように食べるのか、というのも、その一つだろう。
ユーリエと檸檬は、初めて作った料理の出来映えが気になるらしく、カツ丼に手を伸ばしている。
シスターの前には宗教上の理由からか、カツ丼自体が置いていないが、同じくユーリエ初挑戦のラーメンをフォークで巻いているので、心境は二人と同じなのだろう。
梔子も、ラーメンとカツ丼なら前者のほうが取っつきやすいようで、箸で掴んで引っ張り上げた麺に息を吹きかけて冷ましている。
対して紅い瞳の女の子は、とにかく早く空腹を満たしたいようで、カツ丼やラーメンよりも簡単に咀嚼して呑み込める、バターロールを口に放り込んでいた。
……麺と米と肉とパンと、いったいどれだけ主食を並べているんだと思わないこともないけれど(というか、思わないわけがないけれど)、とりあえず夏樹も、ユーリエの新作だというカツ丼を食べることにする。
温かいご飯にカツを一切れ乗せて口に含むと、一足先に食べていた檸檬がユーリエに感想を言っている。
「……ん、美味しい。ユーリエ、上手に出来てる」
「そ、そうですか? 良かった……!」
「ええ。こちらのスープも、あまり濃すぎないのが嬉しいです」
味の濃いものは、あまり食べ慣れていないもので、と、はにかむような微笑みを浮かべながら同意するシスターに、朝日もこくこくと頷いて賛同の意を示す。
様子を探るような目付きを周囲に向けていた紅い瞳の女の子も、新メニューの好評を確認したからか、スプーンで白米とカツを掬って口に運んだ。
まさか、万が一にも不評だったら、何か理由を付けて押し付ける魂胆だったんじゃあるまいなと夏樹はジト目になるが、紅い瞳の女の子はそよ風程度に受け流す。
口に含んだカツと白米を咀嚼して呑み込むと、ふん、と小さく鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまう。
ユーリエはわずかにむっとしたようだが、どうやら紅い瞳の女の子は単純に、面と向かって誉めるのが照れくさかったらしい。
「……ま、悪くはないんじゃない?」
そっぽを向いたまま、つんとした口調でそう言う紅い瞳の女の子の様子に、くすくすと檸檬が笑う。
紅い瞳の女の子が頬まで紅くして檸檬を睨み付けるが、檸檬は微笑ましそうに笑ったままだ。
「……もう、素直じゃないんだから」
何となく、それを檸檬が言うのかと突っ込まなければいけない気がした。
なぜそんなことを思ったのだろうと心当たりを探る夏樹の顔を、隣から檸檬が覗き込む。
「……どうしたの? 早く食べないと、学校に遅刻しちゃうけど」
「あっ……そ、そうだった……! 今日の日直、私とシスターさんだよ!」
「あら、そうでしたっけ。では、私と朝日だけ、先に学校へ行かせていただきますね。ユーリエ、申し訳ありませんが、洗い物はお願いします」
「はい、分かりました! 二人とも、行ってらっしゃい!」
檸檬のセリフに、朝日は泡を食って立ち上がり、シスターは思いの外のんびりと応じる。
今って春休み中じゃなかったっけとか、まさか異世界女子勢まで学校に行くつもりなのかとか。
どこから突っ込むべきかと夏樹が逡巡するうちに、朝日とシスターはそれぞれ食器を下げて、慌ただしくリビングと廊下を繋ぐ扉へと駆け寄って開く。
その向こう側は何故か、在るはずの廊下の代わりに、夏樹の通っていた中学校の教室が広がっていた。
学ラン姿の黒い化け物が談笑している異様な教室の中に、しかし朝日とシスターは躊躇うことなく入っていく。
「お、おはようっ!」
「おはようございます」
『あ、はよーっす』
『おーっす』
異空間の中では雄叫び以外で発声しなかった化け物たちが、夏樹の友達とよく似た声で朝日とシスターの挨拶に返事をする。
あまりにも意味不明な光景に対する疑問や当惑は、どうやら夏樹以外には誰も感じていないらしく、朝日とシスターはそのまま同級生の化け物と世間話を始めた。
『お二人さん、今日は夏樹の野郎とは一緒じゃないんだ?』
「あっ、えっ……えとっ、そのっ……! なっ、夏樹くんを起こしに行った檸檬ちゃんが、夏樹くんにイタズラしてるうちに時間が無くなっちゃって!」
「日直の私たちが遅刻をするわけにはいかないので、後のことはユーリエたちに任せて出てきたんです」
『聞いたか野郎ども!! 今日は血祭りじゃぁぁーーーっ!!』
『『『オーケー!! スタート・アゥア・ミッション!!』』』
殺意に満ち満ちた化け物たちの怒号が響いた直後、シスターが後ろ手に扉を閉める。
ぱたん、という音を境に教室の喧騒は切り離され、リビングに静謐な空気が戻ってくる。
黒い異空間とは別種のヤバさが渦巻き始めていた教室の様子に冷や汗を流す夏樹に、ユーリエが心配そうに話しかける。
「……あの、なつき、どうかしましたか……? 何だか、顔色が良くないみたいですけど……」
「ハシも全然進んでないみたいだし。手伝いが必要なら、れもんに食べさせてもらったら?」
続く紅い瞳の女の子のいたずらっぽい声は、完全に夏樹の窮状を楽しんでいる声だ。
他人事だと思って面白がっている紅い瞳の女の子に、恨み言の一つでも向けてやろうと開いた口の前に、横から白米とカツを乗せた箸が差し出される。
驚いて隣を見ると、ほんのり頬を赤く染めた檸檬が、うるんだ瞳で上目遣いに夏樹を見つめている。
いつもとは別人のような檸檬の様子と、このことを知った場合に想定される同級生の化け物たちの行動に戦慄する夏樹に、檸檬が躊躇いがちに声を掛けた。
「……夏樹……あ、あーん……」
「あーあー、もー。朝から見せつけてくれるわよね……。やってらんないから、あたしも先に学校行くわ」
「自分でけしかけといて、何を言ってるの……。えっと、私も先に行きますので、どうぞごゆっくり……」
紅い瞳の女の子はうんざいりしたように、ユーリエは顔を真っ赤にしながらそう言って、食器を台所に片づける。
かったるそうに、あるいはそそくさと扉に向かう二人は、夏樹が口止めをしようとする前に、教室の中へと入っていってしまった。
『……あれ? 二人も夏樹のクズ野郎とは別に来たの?』
「く、くずやろうって……。なつきとれもんは、その……」
足元まで覆うような、フード付きの黒いコートに身を包んでノコギリを握っている化け物が、さらりと罵声を飛ばす。
そんな化け物の罵声に、やんわりと控えめに苦言を呈したユーリエは、真っ赤な顔で目を泳がせながら、言葉を探している。
恐らくは、見たままを言うと夏樹が酷い目に遭うのが目に見えているので、誤魔化そうとしてくれているのだろう。
世界がおかしくなっても変わらないユーリエの優しさに感動する夏樹の心を、紅い瞳の女の子の気だるげな声が、粉微塵に打ち砕いた。
「朝っぱらからイチャイチャしててやってらんないから、置いてきたのよ」
「ちょっと!? そんなこと言ったら……!」
『追☆跡!!』
『撲☆滅!!』
『『『いずれも★マッハァァーーーーーッ!!』』』
ノコギリやバールなど、多種多様な工具を携えた黒いコートに身を包む同級生の化け物たちの怒号が、扉の向こう側に消える。
ぱたん、と音を立てて訪れた静寂の中で、滂沱と汗を流す夏樹の隣で、白米とカツを乗せた箸を差し出したまま、檸檬が呟いた。
「……夏樹……。やっぱり私、迷惑かな……?」
ぽつりと、寂しげに。
消え入るように、悲しげに。
子供の頃みたいに気弱な檸檬の呟きに、夏樹は差し出されたカツと白米を、乗せている箸ごと口に含んで答えた。
やたらと太く感じる箸を噛まないようにカツと白米を咀嚼する夏樹の口から、勢いよく箸を引き抜いた檸檬に、夏樹は自分の答えを声にして、はっきりと口に出して檸檬に告げる。
「……迷惑なんかじゃないよ。檸檬が隣にいない毎日なんて、考えられないよ。こんな僕でも、檸檬が嫌じゃないなら……これからもずっと、僕と一緒にいてよ」
例え、どれだけプライベートを侵食されたって。
例え、どれほど多くの絆が新たに結ばれたって。
夏樹は檸檬に『ただいま』と言いたいし、夏樹は檸檬に『おかえり』と言ってほしいのだ。
「………………」
夏樹の答えに、檸檬は何も返さない。
沈黙する檸檬の表情は、確かに目の前にいるはずなのに、ひどく不確かで判然としない。
目に映る光景も、時間の流れも曖昧な、不可思議な沈黙を経て、ぽつり、と檸檬が小さな呟きを溢す。
「……やっぱり……夏樹は、ずるい……」
何のことだろう、と疑問を覚える夏樹の頭の、頬の辺りに檸檬の両手が添えられる。
やんわりと動きを封じられた夏樹の顔に、表情の見えない檸檬の顔が近づいてきて……次の瞬間。
◇
ごつっと音がして、額に鈍い痛みが走った。
「痛っ!?」
「……夏樹、寝過ぎ」
目を白黒させて飛び起きる夏樹に、額に手を当てながら、檸檬が言う。
どうやら、頭突きで文字通りに叩き起こされたらしいと理解が追いつく頃になって、ようやく夏樹は、自分が『目覚めた』ことに気が付いた。
「……てことは……今までのことは、全部夢……?」
「……どんな夢を見てたのか知らないけど、早く起きて。ユーリエたちはもう――」
呆然と呟いた夏樹に檸檬が何と言おうとしたのか、夏樹には分からなかった。
檸檬が別人のように別人になっていたことも、黒い化け物の姿をして嫉妬に狂っていた同級生たちも。
全てが夢だったと分かった瞬間、夏樹が全身で表現した安堵に、檸檬の言葉が遮られてしまったからだ。
「……良かった、檸檬だ……! いつも通りの檸檬だぁーーーっ!」
「……ちょっ……なつっ……!? いきなり、何……っ!?」
勢いよく夏樹に抱きつかれた檸檬が、息も絶え絶えに抗議する。
夏樹の両肩を押して引き剥がそうとしているが、突然のことに驚いているせいか、その手に力はほとんど込められていない。
まるで夏樹のことを拒む気が無いかのような弱々しい抵抗は、夢の中の檸檬に心底怯えていた夏樹の安堵を抑えることができず、檸檬は夏樹に抱きすくめられるがままになっている。
「あはははははは、檸檬だ檸檬だ!! 良かった檸檬だ僕の知ってる檸檬だいつも通りの檸檬だー!!」
「……ゃ……っ! だめ、ユーリエが来ちゃ……」
「なつき、イテユウニテイレ……」
部屋の入口から、ひょっこりと笑顔を覗かせたユーリエが、一瞬で顔を真っ赤に染めて硬直する。
見てはいけないものを見てしまった、と大きく書かれた顔をぎこちなく逸らして、ユーリエは顔を引っ込めながら、訥々と何かを言った。
「……ツウツニリツネネ、ツレイニテ……ムヘリネ、リヒヘム、ユネ……」
「……~~~~~~っ……!! いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
その後。
何故かユーリエが仲裁に来てくれず、およそ十五分間に亘って『いつも通り』に振る舞った檸檬は部屋の中に引きこもってしまい、夏樹は一日かけて檸檬を部屋から出そうと頭を捻ることとなるが……それはまた、別の話。




