第四十三話『疾走』
最初に動いたのが、どちらだったのかは分からない。
焦燥に急かされた夏樹の身じろぎに、紅い瞳の女の子が隙を見たのかもしれない。
膠着状態に焦れた紅い瞳の女の子の苛立ちが、夏樹の目に好機と映ったのかもしれない。
間違いないのは、確かに訪れたそのきっかけによって、夏樹と紅い瞳の女の子が同時に動き出したことだ。
夏樹はユーリエを助けるために、紅い瞳の女の子もまた、譲れない何かのために。
互いに相手を見据えながら、夏樹と紅い瞳の女の子は黒い異空間を、並んで駆け抜ける。
「「っ!!」」
紅い瞳の女の子が走りながら、鍵型の武器で夏樹の足元を薙ぐ。
夏樹はそれを跳んで回避するが、紅い瞳の女の子もそれは織り込み済みだったらしい。
真紅の刀身を閃かせて翻し、夏樹の足が地面に着くより速く振り抜いた。
「………………っ!!」
恐らくは、確実に夏樹を『扉』の展開に巻き込ませるために、殴り倒して足を止めさせるつもりなのだろう。
ほとんど転ぶように前のめりになって夏樹は背後からの攻撃を回避し、体を起こしながら紅い瞳の女の子に肉薄する。
「………………ッ!! ネンヘユヘミニヒレフイヘルムニユ、チュレヘレメテネメネメイ!!」
「させるかぁっ!!」
鬱陶しそうに声を荒げる紅い瞳の女の子が、鍵型の武器を持つ腕を大きく振りかぶる。
振り抜かれる前に夏樹が隣接する腕でそれを止めると、紅い瞳の女の子は苛立たしげに夏樹を睨んで、押し飛ばすような蹴りを放った。
「危なっ!」
夏樹が体を捻りながら飛び退いて、紅い瞳の女の子が放った蹴りは空を切る。
しかし紅い瞳の女の子から離れてしまっては、振るわれる鍵型の武器を止めることができない。
夏樹は即座に距離を詰めるが間に合わず、紅い瞳の女の子に鍵型の武器の護拳部分で頭を殴打されてしまう。
「がっ……!!」
殴られた痛みに夏樹は思わず呻くが、それで手を止めてくれる紅い瞳の女の子ではない。
すぐに意識を切り替えて頭を下げ、夏樹は続けて放たれた二発目を回避する。
このまま後手に回っていては、遅かれ早かれ紅い瞳の女の子に押し負ける。
そう判断した夏樹は紅い瞳の女の子の体勢を崩すために、姿勢を低くしたまま勢いよくぶつかった。
「………………ッ!!」
ぶつかった衝撃で、紅い瞳の女の子は足がもつれて失速する。
紅い瞳の女の子の足を止めて置き去りにできれば、夏樹もユーリエを捜すことに意識を向けられる。
好機とばかりに、夏樹はもう一度体当たりで追撃するが、紅い瞳の女の子もやられっぱなしでいてはくれない。
崩された体勢を立て直さず、夏樹のほうに倒れかかることで、紅い瞳の女の子は体当たりを迎撃した。
「…………っ!! まだまだぁっ!!」
「…………ッ!! ミフリイっ!!」
捨て身の反撃に弾かれた夏樹と、捨て身の反撃で足元が覚束無くなった紅い瞳の女の子が、気勢を上げてぶつかり合う。
鍔迫り合いのように互いを二の腕で押し合いながら、夏樹と紅い瞳の女の子は黒い異空間の中を並走する。
力を込めすぎれば相手が引いた時につんのめり、力を抜き過ぎれば相手に押し飛ばされる。
ちりちりと、神経のすり減る音が聞こえてきそうなほど気の抜けないやり取りの中で、ぽつりと、紅い瞳の女の子が言った。
「……エネヘネミンペイミネルヘツヘ、ユーリエニリヒテ、ユヘミネヘムレヘルムユ。ヘレメエネヘテ、エンテンネペミュヘエニリニレエミユレツヘイヘ」
「……へっ……?」
最初は独り言かと思った。
それからすぐに、恨み言だと思った。
手間をかけさせるなとか、いい加減に諦めろとか、そんなようなことを言ったのだと思った。
けれど、そうではないのだと、女の子が夏樹に向けた紅い瞳は雄弁に物語っていた。
「エネヘネルヒュユムムヘピニ、エニリネヒメチヒリンリミユイヘレヘイムレ、ヒウミヘユレツヘエネメメネイニ? メレヘエネヘヘレヘリプチヘイヘチミイヒイウエニリニネネイユ、ヒウミヘリイヘエネネイニ?」
苦しげに歪められたその目に、夏樹への憎悪や敵意は無い。
伝えたいことが伝わらないもどかしさと、それでも何かを伝えようと輝くその瞳に、夏樹はいつの間にか、ユーリエの姿を重ねていた。
「エニリニリヒテ、ユヘミネレネメツフメヘリヒツヘルムレメ。ヘレメエネヘテ、エニリニミンペイユレレネイユウ、ミヒヘイヒネミルレツヘイヘ」
理由は分からない。
どんなきっかけがあって、その結果紅い瞳の女の子にどんな心境の変化があったのか、彼女と会話のできない夏樹に知る術は無い。
それでも夏樹は今、確かに紅い瞳の女の子から心配されていた。
初めて出会った時は、初対面であるにも関わらず夏樹に殺意を向けていた、あの紅い瞳の女の子から。
ユーリエが夏樹に向けていたものと、同じ瞳を向けてもらっていた。
「……ありがとう」
ぽつり、と。
前を向いて走りながら、夏樹は始めにそう言った。
「君が何て言っているのかは、やっぱり分からないけど……僕に意地悪をするために、この異空間から追い出そうとしているわけじゃないってことは、分かったよ」
夏樹たちの世界にやって来てから、ずっと一緒にいたユーリエとでさえ、意思の疎通は完璧じゃない。
ましてや、それが少し前まで、夏樹に対して敵対的だった紅い瞳の女の子なら言うに及ばずだ。
夏樹が何を言ったところで、だから紅い瞳の女の子には、きっと何のことだか分からない。
それでも夏樹は、言葉を紡いだ。
通じないと知りつつも、夏樹と言葉を交わすことを諦めないでくれた紅い瞳の女の子に、夏樹なりの誠意で応えるために。
「君はきっと、僕のことを心配してくれてるんだと思う。ひょっとしたら、僕を現実世界に帰した後で、ユーリエのことを助けに行ってくれるつもりなんじゃないかなって期待も……正直、ちょっとしてる。でもね……」
僕は、現実世界へは帰らない。
続けた言葉に込めるべきだった否定の響きが、紅い瞳の女の子に正しく伝わったかどうか、夏樹は自信を持てなかった。
葛藤と後ろめたさに彩られるはずだったその言葉を声にした時、夏樹の心は青空のように晴れ渡っていたからだ。
「確かに、僕は弱いよ。助けに行くつもりでも足手まといになるだろうし、いても邪魔になるだけなら、いないほうがきっといい。それでも、それを理由にユーリエを戦場に残して逃げたら、僕は二度と胸を張って、ユーリエと一緒にいられなくなる。僕にも出来ることがあると思えた今なら、なおさらだ!」
以前なら今のように、紅い瞳の女の子と並んで走ることになるなど、考えることすらできなかった。
当然、言葉の通じない夏樹が、それでも紅い瞳の女の子の心を溶かすことが出来たなどと自惚れるつもりは無い。
言語の問題を差し引いて考えても、夏樹よりユーリエのほうが、紅い瞳の女の子と多くやり取りを交わしているし、夏樹を心配して異空間から追い出そうとしているのも、紅い瞳の女の子が夏樹よりはユーリエを味方していることの現れだろう。
いつの間にか自己紹介を済ませていたらしいことも考えれば、紅い瞳の女の子が心を開いたきっかけが、ユーリエの言動のどこかにあることに疑いの余地は無い。
それでも、紅い瞳の女の子の、夏樹に対する態度の軟化は、夏樹が檸檬からもらった希望の灯火を、燃え盛る炎へと変えたのだ。
「僕のしてきたことが、無駄じゃなかったのなら……僕のしてきたことに、少しでも意味があったなら! 僕にだって、叶えたい未来がある……そのために出来ることは、僕自身がやらなくちゃ駄目なんだ!!」
脳裏に浮かぶのは、緑眼のシスターのこと。
紅い瞳の女の子とは逆に、最初は友好的であったのに、恐らくは夏樹のせいで誤解を与えてしまい、今もユーリエと戦っているであろう人のこと。
彼女とも、再び笑い合えるようになりたい。
今度こそ、みんなで楽しくピクニックがしたい。
それを叶わない夢だと、もう諦めたりしない。
特筆するほどのことなど何も無い弱い自分でも、変化を促すきっかけの一端になれるのだと、今なら自信を持って、そう言えるからだ。
「……ユツペミユヘミテ、ヘイメフネチヒニヘレニネンペツヘムユフニユユイニネ」
怪訝そうな面持ちで夏樹の声に耳を傾けていた紅い瞳の女の子が、ふっと、呆れたような苦笑いをこぼす。
とても珍しいものを見たような気がして、僅かに目を見開く夏樹に紅い瞳の女の子は、晴れやかな口調で何かを言った。
「ヘペネミニイウエンミヘイルミヘミヘエネヘイレヒ、ユヘミニリ、エニリヒニユルミルネエムレメネ。インイニネメネヘリムルメイニテ、フリエツヘリメウユユ!」
直後に、紅い瞳の女の子は夏樹に隣接しているのと反対側の腕に、黒い雷を纏わせて正面にかざす。
数メートル先に『扉』の起点が生成され、夏樹は大きく目を見開いて紅い瞳の女の子に抗議した。
「ちょっ……今の流れで試合続行なの!? 珍しく笑ってくれたから、てっきり道を譲ってくれるのかと思ったのに!!」
「ネニユユレイヘイムニユ。エネヘテリメレメ、ヒメユメニイチレメレユヘムレニイリウヒミヘイムニヘミュウ?」
みっともなく狼狽える夏樹を煽るように、紅い瞳の女の子は挑みかかるような笑顔を浮かべる。
これだけ状況が整っていれば、いかに檸檬から『何も分かってない』と評された夏樹でも、その笑顔の意味を間違えたりはしない……紅い瞳の女の子はきっと、こう言っているのだ。
ここを通りたければ、私を倒してからにしろ、と。
「リニヘイヒニミメンヘネユエネムユウネイウチメレネメ、エニリニヒリミニテイレメネイレメネ!!」
「……分かったよ、もう……! それじゃあ、押し通るよっ!!」
目前まで迫った『扉』の展開範囲から逃れるために、夏樹と紅い瞳の女の子は左右に割れる。
壁面を蹴って二段階に跳躍しながら、夏樹は上着を脱いで、袖口を両手に分けて握る。
爆発するように膨らんだ『扉』を避けた先で合流するのと同時に、紅い瞳の女の子は鍵型の武器を振るう。
夏樹は脱いだ上着を構え、攻撃が命中する瞬間に力いっぱい張ることで、それを受け止めて防御した。
「……イリミミイリヒユムムチュネイ……!」
「……今だっ!!」
当たり前のことだが、服は鍵型の武器よりも柔らかい。
苦肉の策で辛うじて受け止めることができたとはいえ、鍵型の武器を服で防御すればどうしても力負けするし、少しでもタイミングがズレれば、普通に攻撃を通してしまう。
当然そんな手段に何度も頼るわけにもいかず、だから夏樹は二発目の攻撃を放たれる前に、上着を投げて紅い瞳の女の子の視界を塞いだ。
紅い瞳の女の子もそれは予測していたらしく、鍵型の武器を握っていないほうの手で上着を掴んで、取り払う。
しかし、夏樹が上着を投げた目的は紅い瞳の女の子の視界を奪うことではなく、対応するために生じる一瞬の隙を突くことだ。
紅い瞳の女の子が、投げられた上着を取り払う瞬間に接近した夏樹は腕や脛を使って、紅い瞳の女の子を思いっきり押し飛ばす。
「ヌムイツヘニ!!」
対する紅い瞳の女の子も、拳や肘、膝などで応戦する。
相手の攻撃を受け止め、切り返しながら、夏樹と紅い瞳の女の子は異空間を駆け抜ける。
その行く手を遮るように、突如黒塗りの空から、異空間の化け物が三体落ちてきて、二人の前に立ちはだかった。
「「「――ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」」」
「…………ッ!! リニイミネミイヒリニ……!!」
「冗談でしょ……!? 何だってこのタイミングで……!!」
得意げに聞こえなくもないような気がする化け物の咆哮を聞きながら、夏樹と紅い瞳の女の子は揃って呻く。
しかし、異空間の理不尽とは何度も渡り合ってきた二人は、切り替えも早かった。
紅い瞳の女の子は手にしていた夏樹の上着を投げつけて一体目の化け物から視界を奪い、夏樹は壁を蹴って化け物の頭の高さまで跳躍すると、一体目の視界を覆う上着を掴んで背後に着地し、一体目の注意を分散させる。
その隙を突いて紅い瞳の女の子は鍵型の武器を操作すると、炎を纏った刀身を閃かせて一体目の化け物を打ち砕いた。
「――ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
「よぉぉっし次ィィィィィィィィィ!!」
心で負けないよう、化け物の咆哮に対抗するかのように吠えながら、夏樹は二体目の化け物へと肉薄する。
戦う力を持たない夏樹にとって化け物の襲来は脅威だが、化け物たちが障害物となってくれるために、紅い瞳の女の子を振りきる上では好機でもある。
二体目の化け物が攻撃体勢を整える前に、夏樹は二体目の股下に滑り込んで二体目の背後へと通過し、三体目の化け物と対峙した。
「――ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
すり潰されそうになる勇気を必死に奮い立たせて、夏樹は掴んでいた上着を三体目の化け物の頭に投げつける。
背後で紅い瞳の女の子に斬り伏せられたらしい二体目の化け物の断末魔を聞きながら、夏樹は三体目の化け物の体を、肩や膝を手がかり、足がかりにして、巨大なほうの腕の側から登っていく。
夏樹が頭まで登り詰めるのと同時に、くずおれた二体目の化け物の向こう側から紅い瞳の女の子が飛び出してきて、夏樹の乗っている三体目を袈裟斬りにした。
「――ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
「うぉぉぁっぶなぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
自重を支える力を失った化け物の体が、ぐらりと揺れる。
夏樹は化け物から視界を奪うのに使った上着を回収してから、今にも崩れ落ちそうな化け物の体を蹴って、異空間の通路を形作る黒い箱の山へと跳躍した。
足場が不安定だったせいで飛距離は出なかったが、夏樹は懸命に目的の場所へと手を伸ばす。
その甲斐あってか、夏樹の手はぎりぎりのところで黒い箱の山の縁を掴み、そこからよじ登ることができた。
「……な……何とか、乗り切れた……? とにかく、紅い子が登ってくる前に、早くここを離れないと……」
緊張と恐怖で浅くなった呼吸を整えながら、夏樹は紅い瞳の女の子のほうを見る。
その時、目に映ったものが何なのか分からずに硬直してしまった夏樹に、紅い瞳の女の子が何かを言った。
友達に話しかけるかのような、晴れやかで親しみの込められた声で。
「――エンレミルヒュネリヒミヘ、ユーリエヒレ、イルメレユミンペイメメネイユウニネ!」
夏樹を追う素振りも見せずに何かを言った紅い瞳の女の子は、いたずらっぽい笑顔を夏樹の瞳に残して、去ってしまった。
どうやら、『ここを通りたければ、私を倒してからにしろ』と言っていた(と思われる)辺りからは、紅い瞳の女の子なりの激励だったらしい。
そう推測した直後、夏樹は緊張の糸がぷつりと切れて、思わずその場にへたり込んでしまった。
「……人が悪いよ、もう……」
ありったけの恨みと不平を込めたつもりだったが、こぼした呟きには、思っていたほどの刺々しさは無い。
夏樹は小さく嘆息すると、立ち上がって異空間を見渡す。
今なら物語の主人公のように、奇跡すら起こせるような気がした。




