第四十一話『約束』
ざら、と音を立てて、テーブルの中心に置かれたお皿に盛られたお菓子の山が崩れた。
檸檬は摘んだクッキーをかじると、咀嚼しながら夏樹に、『食べないの?』と、視線で問いかける。
檸檬が何を話すつもりなのかが気になる夏樹だが、たった今情けないところを見せてしまった手前、早く話してと急かすのも憚られる。
促されるままに夏樹はお菓子の山に手を伸ばして、キャラメル味のスナックを口に放り込む。
口当たりの軽いそのお菓子は、さく、さくと小気味の良い音を立てて噛み砕かれ、数回咀嚼しただけで溶けて消えてしまった。
普段は夏樹の好んで食べるお菓子の一つなのだが、食べ終わるのがあっという間過ぎて、気分が沈んでいるときに食べると味気ないように思える。
いつもと同じ喜びを味わえなかった悲しさから逃げるように、今度は側面を台形で囲まれた立方体の粒チョコを摘んで、夏樹は口の中に押し込んだ。
「……私には、とても勇気の要ることだった」
「ふぇ?」
食べかけのクッキーを見つめて檸檬の言った言葉が、最初は何のことなのか分からなかった。
口に押し込んだチョコに舌の動きを阻害されて、間の抜けた声に変わってしまった疑問に、夏樹は頭を捻る。
そもそも、怒りを物理攻撃で表現するような今の檸檬が、それでも勇気を必要とする場面があるのだろうかと考えたところで、はたと気づく。
つまりこれは、今の檸檬の話ではなく、昔の檸檬の話なのだ。
直前に『最初の約束』の話をしていたことと合わせて考えることで、夏樹は檸檬の言いたいことが何なのかを理解する。
「それって、檸檬が僕に『料理を教えて』って言った時のこと?」
夏樹の問いかけに対して、こくり、と檸檬は首肯を返す。
現在、六連星家の台所は檸檬が管理しており、夏樹が料理を教わる時は夜凪家のキッチンを借りている。
檸檬が勇気を振り絞ったという一件は、このわけのわからない状況を招いた遠因の一つであり、夏樹が檸檬と『最初の約束』を交わすきっかけでもあった。
「まあ、あの頃の檸檬は泣き虫だったもんねぇ……。というか、僕に頼むのに勇気を出すくらいなら、普通におばさんたちから教わったら良かったんじゃない?」
「……ばか」
至って当然のことを言ったつもりなのに、短く端的に罵倒されてしまった。
相変わらずよく分からない幼馴染みに首を捻りながら、夏樹は何気なく投げかけた自身の問いかけ……『なぜ檸檬は、自分の両親や夏樹の母ではなく、夏樹に料理を教わろうとしたのか』という疑問を反芻する。
夏樹と檸檬の両親は友達であり、それゆえに互いの家に招かれる機会も多かった。
だから、夏樹は檸檬の両親が二人とも料理を作れることを知っているし、檸檬も夏樹の母が料理を作っているところを何度も見ている。
そもそも、夏樹が料理に興味を持ったのだって、くるくると踊っているみたいに息の合った動きで、楽しそうに料理をする檸檬の両親や、夏樹の母に食べさせてもらって料理の味見をする夏樹の父を、檸檬が恥ずかしそうにしながらも、やたらと一生懸命に見ている檸檬を見て、『何がそんなに面白いんだろう?』と思ったことがきっかけなのだ。
夏樹が近づいたことにすら気付かなかったほどに両親たちの料理をする姿を熱心に見つめていたのに、なぜ本人たちからではなく、夏樹から教わろうとしたのか。
頼ってもらったこと自体に悪い気はしていないので、『まあいっか』という意識が思考から真剣味をそぎ落とし、頭がうまく回らない。
それでも何とか頭を巡らせて、気弱で泣き虫だった檸檬は恥ずかしがり屋でもあったから、料理中ですら二人だけの世界を築いていた二組の甘々夫婦に『料理を教えて』というよりは、同年代の夏樹に話しかけるほうが心理的抵抗が薄かったのだろうと、夏樹は結論付けた。
実際に夏樹も、父と母が揃っている時は同じ理由で、接近することすら忌避していたから、その気持ちはよく分かる。
「……夏樹は昔から、全然変わらない」
そんなふうに納得する夏樹の前で、檸檬が呟いた。
呆れているような、あるいはどこか怒っているようなその呟きの意味が分からず、夏樹は疑問符を浮かべて首を傾げる。
どうやらそんな振る舞いが……というより『分からない』こと自体が檸檬の不興を買っているらしく、語調に含まれる怒気はどんどん膨らんでいく。
「……そうやって察しの悪いところも、自分のしていることを私に手伝わせてくれないところも、私のお願いなんかこれっぽっちも聞いてくれないところも、全部全部全部――!!」
「ヤバい、檸檬の不満に火が着いた……!!」
即座にぶん殴られる類いの怒り方ではないものの、全面的に自分が悪いという自覚が夏樹を萎縮させる。
たぶん、当時は爆発させられなかった怒りが、思い出すうちに再燃してきたのだろう。
幼かった夏樹は覚えたての料理を披露したくて仕方なかったために、檸檬のお願いを二つ返事で引き受けた。
しかし、幼さゆえの自己顕示欲は留まるところを知らず、結果的に夏樹は檸檬から全ての仕事を奪い、教えるはずだった料理を自分一人で作ってしまったのだ。
「でも、あの時のことは今なら何が悪かったのか分かるし……手伝いはむしろ僕がするべき側だし、お願いを聞かなかった場面っていうのも、特には無かったと――」
「……ユーリエが来てからの毎日のこと、思い返してもそう言える?」
「ごめんなさい僕が間違ってました」
攻撃色に染まった檸檬の瞳に射抜かれて、夏樹は深々と頭を下げる。
紅い瞳の女の子に関わることや、黒い異空間を訪れること。
それらは危険だから止めてほしいとか、リスクを減らすために外出を控えてほしいとか。
言われてみれば、夏樹はここのところ立て続けに、檸檬からの『お願い』をいくつも反故にしている。
自分で料理を教える役を引き受けておいて、最終的に自分だけで教えるはずの料理を作ってしまった当時と比較してみると、『あの時とは違う』と主張するのは厳しいだろう。
「……本当に、夏樹は昔からちっとも変わってない」
怒りと呆れを吐き出したようなため息とともに繰り返された自分への評価に、夏樹は全く反論できない。
頭を下げたまま、夏樹は滂沱と冷や汗を流す。
そんな夏樹に、檸檬はしばらくの間冷たい視線を注いでいたが、やがて脱力したようにふっと息を吐いて、普段は感情の乏しい無表情に、仄かな苦笑を浮かべた。
「……勘が鈍いところも、人の感情に鈍感なところも、心の機微に疎いところも……」
「ちょっと待って檸檬、それ全部同じ意味だよね!?」
さすがにそこまで繰り返し言われるほど、察しは悪くないと思うのだが。
そんな気持ちを込めて上げた抗議の声は、呆れを含んだような苦笑で返されてしまう。
「……今ならあの時、何が悪かったのか分かるって夏樹はさっき言ってたけど……それならあの時、どうして私が夏樹に『料理を教えて』ってお願いしたのかは、分かる?」
「え? それは……うちの親もおばさんたちも、ところ構わずいちゃいちゃしてるから、僕のほうが話しかけやすかったってことじゃないの?」
「……半分だけ、正解」
檸檬の問いに、先ほどまとめた結論を答えとして返すと、檸檬は眉を八の字に下げて、呆れを含んだような微笑みを浮かべたまま、そう言った。
やっぱり、分からないんだね。
そんな声の聞こえてきそうな微笑みを向けられた夏樹は、自分の心が水の中に沈んでいくみたいに冷えていくのを感じた。
やっぱり、分からないんだね。
本当に、檸檬がそんな意味を込めて、微笑みを浮かべたのかどうかは……そんな意味を込めて、微笑みを浮かべたのかどうかも。
あの日の檸檬の思いも、今この瞬間の檸檬の真意も。
ずっと兄妹みたいに一緒に育ってきた、檸檬のことでさえ……言葉を交わし、会話を交えることのできる檸檬のことでさえ、夏樹は何も分かっていなかったのだ。
ほんの数日前に出会ったばかりの、言葉の通じないユーリエのことともなれば、わざわざ言葉にするまでもないだろう。
檸檬のことも、ユーリエのことも、夏樹は何一つ分かっていなかった。
ならば……きちんと相手のことを理解しないままに起こした夏樹の行動は、軒並み見当違いの的外れだったのではないだろうか。
あの日檸檬と交わした約束や、ユーリエに対する気遣いなど。
それらが全て、偶然にも正鵠を射ていたと考えるのは、些か無理があるだろう。
ならば。
相手のことを何一つ理解していなかった、夏樹の見当外れな行動に、果たしてどれほどの意味があったのだろうか。
「……僕のしてきたことは全部、無駄なことだったのかな……」
「……何の話?」
鎌首をもたげた夏樹の弱音は檸檬にとって唐突だったようで、不思議そうに首を傾げられてしまう。
何でもない、と言って夏樹は苦笑いを返し、テーブルの中央に置かれた皿の上から、台形型の四角い粒チョコを取って口の中に放り込む。
檸檬の答えを聞くのが、怖かった。
幼い日に檸檬と交わした約束が、ユーリエのためにと思ってしてきたことの全てが、何の意味もない無駄なことだったと言われるのが、怖かった。
口に含んだチョコレートを咀嚼しながら、夏樹は自らの弱さも噛みしめる。
顎を動かすたびに惨めな気持ちが溢れてきて、口の中に苦い思いが広がっていく。
夏樹は昔から、全然変わってない、と、三度檸檬が言った。
「……私の気持ちを全く分かってくれないし、どれだけ私が止めてって言っても、一度走り出したら、ちっとも止まってくれない」
それでもね、と。
言葉が紡がれるたびに俯いていく夏樹に、檸檬はそう言って続けた。
「……夏樹のしてきたことは、無駄なことなんかじゃないと思う」
その時、夏樹が感じたのは嬉しさでも安堵でもなく……悲しさだった。
不用意に弱音を晒してしまったばっかりに、檸檬に気を遣わせてしまっていると、そう思った。
「……あの日、私のしたかったことは、未だに叶っていない。親指を立てる仕草がそうだったみたいに、ユーリエにとって嫌なことを、私たちは気付かないうちにしてしまっていたかもしれない」
檸檬の声が穏やかに響くたびに、自責の念ばかりが膨らんでいく。
背負うべき負担の一部を、檸檬に押し付けてしまったことへの悔しさが募る。
俯いてカップの中の紅茶を睨みつける夏樹の耳が、ざら、とお菓子の山が崩れた音を拾う。
「……でもね」
台形型の粒チョコを無理やり口に押し込まれて、驚いた夏樹は顔を上げる。
見開いた目の映した檸檬の微笑みは、夏樹の自責を、悔恨を、弱音を笑い飛ばすような、晴れやかな笑みだった。
「……夏樹の約束が繋いでくれた『今』は、私に幸せを感じさせてくれてる。ユーリエもきっと、言葉の通じない場所で、それでも自分のために頑張ってくれる人がいる事実に、たくさん救われてる」
そうじゃなかったらきっと、知らない場所に一人きりで、あんなふうに笑えないと思う。
晴れやかに笑う檸檬に贈られたその言葉は、夏樹の心を軽くする。
まとわりついていた負の感情が、乾いた泥みたいにぱらぱらと剥がれていく。
「……夏樹は鈍くて、何も分かってないけど……それでも夏樹は、私たちを笑顔にするために、一生懸命でいてくれた。夏樹の一生懸命な空回りに、私もユーリエも、いっぱい元気をもらってる。」
檸檬の紡ぐ言葉に耳を傾けながら、押し込まれた粒チョコを舌の上で、ゆっくりと転がす。
ころり、ころりと音を立てながらチョコはほどけていき、甘い香りが広がっていく。
「……夏樹のしてきたことが無駄だったとは、私は思わない。だから……夏樹はもっと、自分に自信を持って」
「………………。ありがとう、檸檬」
喉元まで出かかっていた謝罪の言葉を飲み込んで、夏樹は檸檬にお礼を言った。
紅い瞳の女の子に食べ物を持っていった時も、シスターと紅い瞳の女の子の戦いを仲裁に行った時も。
どれだけ反対でも、いつだって檸檬は、最後は夏樹の意思を尊重して、こうして送り出してくれた。
夏樹がまっすぐ走っていけるように、背中を押してくれた。
熱を失った紅茶を呻って、夏樹は立ち上がる。
檸檬からもらった灯火の照らす道を、駆け抜けるために。
「ごめん檸檬、ちょっと出かけてくるね!」
「……うん。気をつけて」
幼馴染みの笑顔に送られて、夏樹は走り出す。
その背中に声を掛けられたのは、リビングの扉を開いたのと同時だった。
「……夏樹」
込められた感情の読み取りにくい平坦な声に呼ばれて振り返ると、夏樹を真っ直ぐに見つめていた檸檬と視線が重なる。
不安と期待の入り混じったか細い声が、料理を教えてと夏樹に言った声と重なる。
「……約束、覚えてる?」
夏樹だって、伊達に十五年間檸檬の幼馴染みをやってない。
檸檬の言葉が足りないのは、いつものことだ。
夏樹は振り向くと、親指を立てて笑顔で言った。
「もちろん! 必ず帰ってくるよ。今度はちゃんと、ユーリエと一緒にね!」
かつて涙を流した記憶で、檸檬が夏樹を励ましてくれたように。
今日この日の思い出も、いつか笑顔で振り返れるように。
檸檬から貰った宝物を胸に、夏樹は望む未来へ向かって踏み出した。




