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そわか  作者: 空雲雛太
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第四十話『灯火(ともしび)』

 仰向けにベッドの上に転がった夏樹は、何をするでもなく、ぼうっと天井を眺めていた。

 窓の外からは、お昼を回って傾き始めた太陽の柔らかい光が差し込んで、室内を暖めている。

 以前はよく読んでいたお気に入りの漫画も、今は本棚から出されてすらいない。

 夏樹は首だけを動かして本棚のほうを見ながら、ぽつりと呟いた。


「……そういえば、ユーリエが来てからは、一回も読んでないな……」


 最後にあの漫画のページをめくったのは、ユーリエと出会う直前だっただろうか。

 久しぶりに見てみようかと思わなくもなかったけれど、夏樹は結局、ベッドの上から動かなかった。

 キャラクターのセリフを細大漏らさずに記憶するほど読み込んだあの漫画は、暗唱さえ可能なくらいにはっきりと思い出すことができるから、というわけではない。

 以前なら、そうやって回想したら目の前にもその世界を広げたくなったし、自分がそんな体験をしたのなら、と思いを馳せたりもした。

 関心が薄くなったのはきっと、ユーリエという実例を()の当たりにしたからだろう。

 言葉の通じない見ず知らずの場所に、たった一人(紅い瞳の女の子は当初は敵対的だったから、概ねそう言って間違いではないだろう)で放り込まれて半泣きになっている女の子を見たら、自分も同じ体験がしたいなどと思えるはずもない。


「……ユーリエ、大丈夫かな……」


 窓の外に視線を向けて溢した声は、想像以上に情けなかった。

 時間を置いて冷静になってみれば、ユーリエがシスターに負けて、最悪の可能性に至るというのは考えにくい。

 ユーリエが異空間に残ったのは恐らく、夏樹と紅い瞳の女の子が逃げるための時間稼ぎだろう。

 ユーリエや紅い瞳の女の子と同様に、鍵型の武器を操るシスターには異空間と現実を行き来する能力がある。

 黒い化け物を相手にしたときのように、現実世界に逃げて『扉』を閉じれば解決とはいかないのだ。

 だからこそ、ユーリエは夏樹たちが『扉』をくぐり、安全圏に退避した上で逃走するための時間を稼ごうとしたのではないか。

 だとすれば、充分に時間を稼いだとユーリエが判断すれば、シスターとの戦闘を切り上げて帰ってきてくれるかもしれない。

 希望的観測と言われてしまえばそれまでだが、そうとでも考えなければ、気持ちを切り替えられない。

 何しろ、今の夏樹にできることなど何もないのだから、いつまでも鬱々と過ごして、唯一残された日常まで失うわけにはいかない。

 よし、と夏樹は息を吐いて、ベッドから起き上がる。

 昼に何も食べなかったので、さすがに小腹が空いた。

 確かリビングに、ユーリエに見られるとマズいと思ったお菓子類があったはずだと記憶を掘り起こしながら、夏樹は部屋を出る。

 けれど、ふと視線を向けたのは階段のあるほうの反対側……ユーリエに使ってもらっていた、両親の寝室のほうだった。


「………………」


 特に、何か目的や理由があったわけではない。

 否、ひょっとしたらそれは、淡い期待のようなものだったのかもしれない。

 つ、と両親の部屋に向かって踏み出した足が、ぎし、と音を立てて床を踏みしめる。

 一歩、二歩と近づいていき、部屋の前に立った夏樹は、ドアノブに手をかけて捻る。


『? なつき、(私に何か御用ですか)?』


 扉を開いた瞬間、そんな風にユーリエの声が聞こえてくるのを期待していたと、夏樹は認めざるを得なかった。

 誰もいない部屋の中を見て、夏樹はどうしようもなくはっきりと、落胆していた。


「当たり前、なんだけどね……。マンガじゃないんだし、そんな都合のいい話があるわけないよ」


 沈んだ気持ちを誤魔化すように独り言ちて、夏樹は部屋の中に入る。

 夏樹の家のバカップルの部屋は、案外片付いている。

 子供っぽい言動が目立つので夏樹は信じがたいのだが、夏樹の母は意外と綺麗好きなのだと父が言っていた。

 両親の部屋には、自分の部屋を与えられて以降初めて入ったけれど、たまに部屋の模様替えをして気分を変えているようで、夏樹の記憶とはずいぶん印象が違う。

 その中の一角に、それを踏まえた上でも異質な物が置いてあるのを認めて、夏樹はそれに歩み寄った。


「……これ……みんなで買い物に行った時に買った……」


 そこには、ユーリエの分として購入した服や下着が、綺麗に畳まれて置いてあった。

 下着のほうは、檸檬に執行された『思い出したくもない精神的体罰』を思い出すので極力視界から外しつつ、夏樹はユーリエの服を手に取って広げてみる。

 それは、あの日最初に檸檬が選んでユーリエに試着させた、ワンピースだった。


「……あの時はユーリエ、試着のことを知らなかったから、檸檬が見本を見せたんだっけ……」


 そして、檸檬が試着した服への感想を言い損ねたために、夏樹は檸檬の不興を買うはめになったのだ。

 かつて喉元を焼いた熱さも、過ぎれば良い思い出だ。

 心なしか嬉しそうにスカートを手に取ったことを意外に思ったことや、檸檬の着替えを想像してしまって、ユーリエと一緒に赤くなっていたこと。

 その後、感想を言い忘れたせいか、ユーリエが服を脱ぐ音に赤面した夏樹に対する檸檬の体罰が、やたら執拗だったことなどを思い出して、夏樹は苦笑する。

 しかし、記憶の中にいるユーリエが今はいないという現実はその笑みをすぐに消してしまい、苦い思いで夏樹の胸中を満たす。

 喉元を過ぎた熱さは思い出となり、思い出が輝かしいほど、現在に差した悲しみの影も色濃くなる。

 何だか、お腹が空いた。

 自分の部屋から出た理由を出た理由を思い出した夏樹は、広げたユーリエの服を畳んで元の場所に戻すと、部屋の出口に向かって一歩、足を踏み出す。


「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」


「……………………おぉぁーっと……」


 踏み出した足は、はじめの一歩で止まってしまった。

 いつの間にかそこに立っていた檸檬が、能面のような般若の形相(むひょうじょう)を浮かべていたからだ。

 そういえば、ユーリエが家に召喚された時にも、こんなような場面があったなー、などと半ば現実逃避めいたことを考えながら、夏樹は頭を切り替える。

 大丈夫、ここ数日でたくさんの経験を経た今の自分なら、きっと乗り越えられると自身に言い聞かせて、夏樹はこの場を切り抜けるための言葉を探す。


「オーケー、一旦落ち着こう。気持ちは分かるけれど、これには理由があるんだ」


「………………………………………………………………………………………………………………………………………………言ってみて」


 微動だにせず檸檬が返した返事を、夏樹は少なからず意外に思った。

 てっきり今までのように、問答無用で処刑されると思っていたために、まさか話を聞いてもらえるとは思わなかったのだ。

 ここ数日の経験で変わったのは、自分だけではないということか。

 失ったものの大きさを改めて実感して、夏樹は一瞬、くしゃりと顔を歪めかける。

 あと少しのところで踏みとどまれたのは、檸檬に余計な心配をかけたくないという、意地があったからだ。


「いや、最初は下に下りて何か食べるつもりだったんだけど……」


 と、事を順序立てて説明しようとして、夏樹ははたと気づく。

 全てをありのままに話せば……夏樹がこの部屋に入った理由を、ありのままに話せば。

 ユーリエが異空間に残ったままという現実を、檸檬に改めて意識させてしまう。

 檸檬の悲しそうな顔は、もう見たくない。

 手元に残った幼馴染みとの日常だけは、せめて守りたい。

 そう思った夏樹は、だからとっさに、この部屋に訪れた理由の部分を濁していた。


「何となくこの部屋に入りたくなって、何となくこの服に触りたくなっただけなんだ」


「……遺言は、他にない?」


 拳を構えて歩み寄る檸檬を見て夏樹が泣きそうになったのは、体罰が怖かったからではない。

 ほとんど日常の一部であるそれを、今さら怖がったりしない――夏樹はただ、寂しいと思ってしまったのだ。

 あまりにもいつも通りな、この瞬間が。

 ユーリエがいないのに続いてしまう、この日常が。

 きっと檸檬だって、日常に戻るために少なからず、無理をしている……それが分かっていても、なお。

 ユーリエと出会う前と変わらない今が、たまらなく寂しかった。


  ◇


 かち、とコンロの火を落とす音に続いて、カップに注がれるお湯がこぽこぽと音を立てる。

 殴られた場所をさすりながら、痛みに顔を歪めている夏樹の前にそのカップを配膳して、檸檬も夏樹の正面に座った。


「……夏樹のばか」


 着席とほぼ同時に、檸檬は夏樹に罵声を(ほう)る。

 確かに女の子の服を手に取った理由が『何となく触りたくなった』では、誰に何を言われても仕方のない感じがするので、夏樹は何も言い返せない。

 はは……と渇いた笑い声を上げて、夏樹は誤魔化すように、檸檬の淹れてくれた紅茶のカップを口元に近づける。


「……誤魔化すならもっと、上手な嘘をついて」


 カップを持ち上げる手を止め、檸檬のほうを見る。

 渇いた笑い声を上げて紅茶に逃げたことを言っている、というわけではないだろう。

 両手で包むように握っている皿の上のカップを覗き込んでいて、檸檬の表情は見えない。


「……ユーリエのこと」


「……………………っ」


「……今すぐにでも、助けに行きたいんでしょう?」


 そう言って夏樹を見た檸檬の顔は、少し困ったみたいに眉が下がっていて。

 悲しそうな、心配そうな……それでいて、とても穏やかな微笑みを浮かべていた。


「そ……んな、こと……」


「……誤魔化すならもっと、上手に嘘をついて」


 先ほどと同じセリフを言いながら、檸檬はカップから片手を外す。

 柔らかな微笑を浮かべたまま、その手の人差し指を目の下に当てると、わずかに力を込めて頬を押し下げて、檸檬は続ける。


「……顔に、はっきり書いてある。ユーリエのことが心配で、ユーリエがいないのが寂しいって」


 夏樹は昔から、嘘をつくのが下手だから。

 頬を押し下げていた手を離して、檸檬は紅茶のカップを口元に運ぶ。

 熱い紅茶に息を吹きかけて冷ます音を聞きながら、夏樹は堪えきれなくなった弱音をこぼした。


「……何も……何もできないんだ。戦っているユーリエをサポートすることも、相手と話し合って戦いを止めることも、何も……」


「……うん」


 相槌を打つ檸檬の声は、どこまでも穏やかだ。

 包み込むように、(いつく)しむように。

 情けなくてみっともない夏樹の弱音に、檸檬は耳を傾ける。

 何もしてこなかった夏樹が、何もできないのは当然のことなのに。

 ユーリエを助けることができなくて辛いのは、檸檬だって同じはずなのに。

 愚にも付かない、ともすれば傲慢にさえ響く夏樹の泣き言を、それでも檸檬は静かに聴き続けていた。


「僕がわがままを言わなければ、ユーリエが戦わなくて良かった戦いだってあった。僕が近くにいなければ、負わなくて済んだ怪我だってあった……! ユーリエのことは心配だけど……無事に帰ってきてほしくて、そのために助けに行きたいけど……!」


「……うん」


 紅茶を吸い込む音に続けて、檸檬が相槌を打つ。

 真っ直ぐに夏樹を見つめて、相槌を打つ。

 檸檬の優しさに甘えている自らの浅ましさが恥ずかしくて、夏樹は顔を上げることができない。

 それでも、溢れ出した感情の波を押さえ込めるほどの強さは、夏樹の心にはなかった。


「僕には、その力がない……! ユーリエを助けに異空間へ行く能力も、ユーリエに代わって戦う能力も、僕にはない……! 行きたくても行けないし……本当にユーリエの無事を願うなら、僕はユーリエを助けに行こうなんて思ったらダメなんだ!!」


 結局、それが現実なのだ。

 眠れる才能が窮地で覚醒したりはしないし、強い思いが奇跡を起こしたりはしない。

 生まれてから十五年間、武道に打ち込んだり体を鍛えていたりしたわけではない夏樹では、黒い化け物やシスターと渡り合えるだけの技術も腕力もない。

 知識の蓄積や学問の研鑽(けんさん)もおざなりだった夏樹では、今からユーリエやシスターの言葉を理解し、操ることなど不可能だ。

 才能は地道な努力によって磨き上げられ、輝く宝石となったそれが奇跡を起こすのだ。

 六連星夏樹は、特筆するほどのことなど何もない、普通の少年である。

 宝石のような輝きを放つほどに、何かを磨いたことのない夏樹がどれだけ祈ろうと、それを叶えてくれるほど現実は優しくないのだ。


「……夏樹」


 自らの無力に苛まれる夏樹の耳に、穏やかな檸檬の声が響く。

 抑揚の少ない、けれど柔らかくて暖かな声で、夏樹に語りかける。


「……覚えてる? 夏樹が私としてくれた、最初の約束のこと」


「……どうしたの、急に……。もちろん、覚えてるよ」


 怪訝に思いながらも返した夏樹の答えに、檸檬はほんのりと、嬉しそうに口元を(ほころ)ばせる。

 忘れるわけがない。

 それは昔、夏樹が檸檬を泣かせてしまった時に交わした約束で。

 今日の公園での出来事と同じように、檸檬に泣き止んでもらいたい一心で、夏樹から交わした約束なのだから。


「……そう」


 短くそれだけ言って、檸檬はカップの中に視線を落とす。

 共に過ごした時間の中で、檸檬のことがよく分からないと思ったことは一度や二度ではない。

 それでも、その目が見つめているのが紅茶ではないことくらいは、夏樹にも分かる。

 だから、顔を上げた檸檬の続けた言葉で、夏樹は戸惑うことなく、檸檬と同じ方向に目を向けることができた。


「……久しぶりに、小さい頃の話をしない?」


 悲しみも喜びも共有する幼馴染みが、過去へと続く扉を開く。

 そこにどんな想いがあるのかも、夏樹にはやっぱり分からなかった。


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