第三十九話『追想』
金色の髪がふわふわとそよ風に戯れるたびに、きらきらと煌めいていた。
フォークで卵焼きを突き刺すと、にこにこと嬉しそうに笑って口に運んでいたのを覚えている。
「〜〜〜〜〜〜っ♪ れもん、リニミュウミ、ヒツヘリイイミイヘム! エレルヘ、ルヒエヘミネレムルヘ……リメツヘリミレミヘ、チヒニリヘヘペヘテイレネイリニヘミヘレ!?」
「……気に入ってもらえたなら、私も嬉しい。たくさんあるから、いっぱい食べて」
何が気になったのか、嬉しそうな顔から一転して不安げな表情を浮かべたユーリエに、檸檬は柔らかく微笑んで卵焼きを勧めた。
まるで悪いことをして咎められた子どもみたいに檸檬の様子を窺っていたユーリエだけど、恐る恐るといった感じでもう一つ卵焼きを頬張ると、咀嚼するごとに、はにかむような笑顔がにじんできていた。
ユーリエがこの世界にやって来た、その翌日。
夏樹と、檸檬と、ユーリエの三人で買い物に出かけたあの日、陽だまりの中で綻ぶ桜の下に、ユーリエはいた。
「……イフレヘチウレヘイムニユ。テユルレエメネイヒ、チヘルヘイルメンネミンペイミヘイムンチュネイニ?」
まどろみのような温もりに満ちていた公園の中は、今はやけに寒々しく感じられる。
失意の底に沈んでいる夏樹の扱いに困っているらしい紅い瞳の女の子の声も、夏樹の意識を現在へと引き上げるには至らない。
暗い、暗い海の底に沈んでいくように、夏樹は思い出の中へと落ちていく。
「……なつきテ、ミニ……ヘペメメミウヘムレ?」
こく、と喉を鳴らして口の中の物を飲み込んだユーリエは、顔に広がった微笑みを潜めて、窺うように夏樹に何かを尋ねた。
あるいは、気遣うように、と言うべきかもしれない。
「……ユーリエ、夏樹のことは気にしなくて大丈夫。こう見えて、結構頑丈だから」
「…………………………」
そりゃ、毎日こんな目に遭っていれば、多少はね……と言いたかった夏樹だが、頬が腫れ上がったり唇が切れていたりで、口を開くことさえままならなかった。
あの日、夏樹とユーリエは異空間の中で、着るものを失ってしまっていた。
残り少ない衣服を互いに相手に譲ろうとした結果、その様子を目撃した檸檬に誤解されて、夏樹は酷い目に遭わされたのだ。
別に誰が悪いわけでもないとは思うのだが、檸檬が全く悪びれていないのが少しだけ納得できなかった。
抗議の念を込めた視線を送ってみたが、檸檬はそれを黙殺して、俵型のおにぎりを手に取って口に運んだ。
夏樹の抗議が無視されるのなんて、いつも通りのことで予想通りのことなのだから、別に落胆なんかしない。
諦めとともに嘆息して、夏樹も卵焼きに箸を伸ばした。
無理のない範囲で口を開いて、リスみたいに食べ進める夏樹を見てユーリエは苦笑したが、それで気を使わなくても大丈夫そうだと判断したらしい。
もう一切れ卵焼きをフォークで突いて口に含むと、嬉しそうな微笑みを浮かべて咀嚼していた。
自分の作った料理を美味しそうに食べてもらえるのは、作り手冥利に尽きる。
降り注ぐ暖かな陽の光の中で、ふわふわの髪を煌めかせて微笑むユーリエは、そうでなくてもとても絵になっていたから、弁当を用意した檸檬が嬉しさのあまり、携帯のカメラを構えたのも無理からぬことだろう。
ましてや、シャッターを切る音にユーリエが飛び上がるほど驚いた理由に心当たりが無いのだから、なおさらである。
「エニ……れもん? ヒウミヘユヘミニ、ミニヒウヌユルレムニヘムレ……?」
「………………? 夏樹、ユーリエに何をしたの?」
ユーリエの反応がおかしいと思ってすぐに夏樹を問いつめる辺りに、幼馴染みからどれだけ不本意な評価を受けているのかが如実に現れている。
顔中の怪我のせいで喋るのは辛かったが、だからといって沈黙を許してくれるような檸檬じゃない。
これ以上顔の形を変えられてはたまらないと、夏樹は痛みを堪えて事情を説明した。
「ちょっと待ってよ檸檬、別にユーリエには何もしてないってば。僕たちに襲いかかって来たあの紅い子をびっくりさせるのに使っただけで——」
「……これ以上夏樹の顔を腫れ上がらせるのは、さすがに気が引けるわね……」
「落ち着いて檸檬。構えたその握り拳を下ろして、ゆっくりと深呼吸をするんだ」
気が引けるというのなら、せめて減刑してほしいと思った。
ユーリエにカメラがどういうものなのかを説明するのは、こんな一幕を経て家に帰ってからのことだ。
「……そうだ……家に、帰らないと……」
ぼそり、と呟いて、夏樹はふらり、と立ち上がる。
公園の中に檸檬の姿が無いということは、檸檬は家で夏樹たちの帰りを待っているということだ。
話せばきっと、檸檬は泣く。
夏樹たちが、異空間に入る前に止められていればと。
あの時、夏樹の説得で折れずに引き止めておけたならと。
夏樹の言葉を信じたことを、後悔されてしまう。
それは、日常の中で交わす軽口の類いとは違う。
心を引き裂く傷としてのそれは、もう二度と檸檬に、夏樹を信じさせはしないだろう。
それは嫌だ。
それだけは本当に嫌だ。
口では色々と言いつつも、子供の頃からずっと寄せてくれていた信頼が失われてしまうなんて、想像することすら怖い。
それでも、だからといって家に帰らなければ、それこそ幼馴染みの信頼を裏切ることになる。
檸檬は、待っているのだ。
みんなで過ごした、楽しくて穏やかな時間が、帰ってくるのを。
『なつき、エメテネンヒユプニヘムレ?』
『あれは標識だよ。『ひょうしき』』
『ひょーひき?』
『んー、まあ大体合ってる』
何にでも興味を示したユーリエとの思い出は、何でもないようなところにも満ち溢れている。
ふらふらと公園から出てついた、家路の中で目に映る何気ない景色が、記憶の底にある思い出を掘り返す。
『なつき、エニイムニリヒテ、リヒメニリヒペヘネンヒイウニヘムレ?』
『ああ、あれはベンチだよ。ベンチ。言いにくかったら『椅子』でもいいと思うけど』
『……ぺんちー?』
『うん、やっぱり『椅子』で覚えよう! その発音だと全く別の物になっちゃうから!』
川沿いの道に設置されたベンチを指して、ユーリエは首を傾げていた。
それの目的が分からなかったからでは、きっとない。
それを夏樹たちの言葉で何と呼ぶのかを知りたかったから……夏樹たちと『話』がしたかったから、ユーリエは尋ねてくれたのだ。
『ヘレヘムなつき、レヘヘフニテリネニリツヘイレム!! リヒユミなつきテ、リニウリエニペレリニニレネユイユメメヘイムニヘムレメ! エンネニニプフレツヘメ、チンヒウニミンヘミレイメム~~~っ!!』
『安心してってば、ほら、あれを見……うわわわわ、変わっちゃう変わっちゃう、ユーリエ早く!』
『へメヘム~~っ! イネネイヘムレメ、エニヘフニテリネネルネムレヘレツヘルヘメイ~~~っ!!』
『ユーリエ、ちょっと落ち着いて! お願いだから僕の話を……ぎゃぁーっ、もうダメだぁーっ!!』
小さく首を動かして左右を確認し、あの日騒がしく渡った横断歩道に、夏樹は足を踏み出す。
夏樹たちに奇異の視線を注いでいた通行人も、ユーリエがしきりに警戒していた車も、今は無い。
静まり返った交差点を渡って、夏樹はさらに記憶の沼へと沈んでいく。
『なつき、リレユフレツヘルヘメイ。ユヘミニリニネニヘ、ムリミヒイメイレリミメレメンレヒ……』
『え、これを僕に履かせてくれるの? 気持ちは物凄く嬉しいけど、ユーリエが履きなよ。女の子がこんなことで足をボロボロにしちゃダメだよ』
『なつき、ユネレンレユイユネイヘルヘメイ。レンレヒユイメネレメペ、ネンヒレテレムヘミュウ? なつきテレネニンネンヘムレメ、レメヘユイヘユメネレメペへメヘム』
たくさんのことがあった、始まりの日。
ぼろぼろになって異空間から帰ってきたユーリエが最初にしたことは、どこかに持っていたらしい自分の靴を夏樹に貸すことだった。
見ず知らずの慣れない場所を不思議な力でたらい回しにされて、襲い掛かってくる黒い化け物との戦闘では否応無く矢面に立たされて、そんなわけのわからない状況で出会った唯一の同郷の女の子とさえ命がけで戦うはめになって。
自分だってぼろぼろで、一度は半ば自暴自棄になるくらい心をすり減らしていたはずなのに。
何時間も走り回って、戦い続けて、夏樹よりもずっとくたくただったはずなのに。
ユーリエは笑って夏樹に靴と肩を貸すと、怪我をして歩調の遅くなっていた夏樹に合わせて、ゆっくりと歩いてくれていた。
暖かな茜色に染まっていたあの道を、夏樹はあの時と同じように、のろのろと歩む。
あの日と同じように、足を引きずるようにして。
あの日と違い、一人ぼっちで歩いていく。
『イルメレ、イミルネツヘミレツヘリウミユレエミレメン! ヘヘイレヘンネメレユイフメミレミヘ!』
『ちょっと待って、ユーリエ! もう少し慎重になって!!』
『ヘイミュウプヘムユ、なつき。ユレミイリヒテネニリネレツヘニヘムレメ。ユヘミレメリリヒンヒメフレイミレムレメ、エンミンミヘルヘメイ』
記憶の中では夜闇の中に灯りを灯している玄関も、今は日の光に包まれて沈黙している。
あの時は、檸檬に怒られるのが嫌で、その扉をくぐることを躊躇していた。
今は、あの日と同じように怒ってくれるなら、この扉をくぐれる気がする。
ポケットの中からもたもたと家の鍵を取り出して、ゆっくりと鍵穴に差し込む。
そういえば、開錠するために捻る方向がユーリエの、光の剣のスキルを発動するために捻る向きと同じだな、と、夏樹は鍵を開ける直前でそんなことを思った。
『なつき、いってらっひゃい! れもん、いってらっひゃい! いってらっひゃい、いってらっひゃいっ!!』
かちゃり、と音を立てて鍵が開き、夏樹は扉をくぐって玄関の中へと入る。
ここで、ユーリエが涙ながらに夏樹を引き止めていたのは、昨日のことだっただろうか。
思い出の沼に沈み、泥のようなまどろみに包まれた今の夏樹には、もう時系列を把握することができないでいる。
「……おかえり、夏樹」
懐かしい声が響いて、夏樹を現実へと引き戻す。
鍵を開ける音を聞いて出迎えに来てくれた檸檬が、あの日のユーリエの姿と重なる。
夏樹が一人で、沈痛な面持ちで帰ってきたことから、檸檬はおおよそのことを察したらしい。
何かを聞きたそうに開かれた口は顔を歪めて引き結び、喉元まで出ていた言葉を無理やり呑み込むように笑顔を浮かべた。
「…………上がって。今、お茶を用意するから。淹れたらご飯にしよう」
「……ごめん、檸檬」
ユーリエを、連れて帰ってこれなかったこと。
檸檬だって辛いのに、気を遣わせてしまったこと。
悲しみや不甲斐なさ、何もできない悔しさや情けなさなどの、様々な感情の濁流をその一言に込めて、夏樹もまた、無理やり笑う。
なぜ、と問われれば、答えることなどできない。
きっと、自分には他にできることなど何もないことを、痛いほどに理解してしまったからなのだと思う。
「今は、お腹が減ってないからいいや。檸檬が食べちゃっていいよ。僕は少し、部屋で休んでくるね」
そう言って靴を脱ぐと、夏樹は逃げるように階段に向かう。
合わせる顔など、あるはずもない。
とん、とん、とん、と。
夏樹が二階に上る音だけが、寒々しく家の中に響いていた。




